慰霊祭前日、コロナ自粛中と通常40人は参加の草刈り作業は、区民有志10人程と少年野球の小学生4人が監督について来て居る。梅雨の晴れ間で蒸す暑さの中、集中力ない子供達を励まし刈られた草を軽トラに乗せる。塔の境内は300坪位ある広い敷地で、みんなが黙々と作業をこなす中、子供達の黄色い声や笑い声に自然と笑顔になる。オヤツタイムも美味しそうに嬉しそうに天ぷらを食べる子供達の笑顔。子供達の頑張りもあり、思ったより早く作業は終了したが、いつもの様にお喋りもなくみんな早々に帰途についた。
慰霊塔の境内
6月23日、この日も区民有志だけでの慰霊祭と聞いていたが、拝者、区長、書記、老人会長、審議委員の私とたった5人での祈りとなった。祈る人(拝者)を沖縄では神の人(カミンチュ)と言うが、代役で夫の姉が勤め簡素にサラッとした祈りになった。慰霊祭は、区行事の大きなもので毎年、線香を上げに100人以上の参加がある。梅雨時の大雨でも、亡き身内に祈りを捧げにやってくる。来られずには居られないと語る参加者達が居た。今年の慰霊祭は5人で30分で終わった。帰り際に、慰霊塔の経緯を記した石碑の汚れが酷いとの話がでた。心落ち着かない慰霊祭、何か出来る事があればと、私が石碑を洗っていいか許可を得た。翌日、ネットで調べた方法で洗ったが、薬剤が石に染み込むのを防ぐ梅雨時の大雨は都合いい。乾いた石碑を写真に収めた。いつか文字が見えなくなった時の為の原稿作りとする。この日、私は孫達に向けて、夫の両親がサイパン島で手榴弾を持って米軍から逃げ回り、運よく捕虜になって沖縄に帰ったから夫が生まれた〜あなた達がいると家族LINEで発信した。
洗浄前の石碑 汚れが酷く文字が見えない所もある。
洗浄後、石碑の文字が読める。
第2次世界大戦における沖縄戦をはじめ中国大陸、南方諸島及びその地域にて悲惨な最期を遂げられた当区出身の軍人、軍属、一般住民を合祀しみ霊を慰めるため1947年12月29日に建立したが、終戦33年期にあたり慰霊碑を改修し、127柱のみ霊を弔い永遠の平和を祈願し、戦争の惨事を子々孫々への遺訓とします。1979年12月改修 栄野比区々民 栄野比出身者一同