平成28年新年 衰退する地域に活路となるか!千葉の道の駅 その1
昨年の10月、旭道の駅季楽里への出品に伴い何かと振り回された年末であった。止む無く正月休みは家族を引き連れ房総へ出かけ、その際に道の駅を見て回る次第となった。
1日であったので南房総の3店を回遊した。みんなみの里、富楽里とみやま、昨年末に開設した道の駅保田小学校である。
率直にいって[みんなみの里]は良かった。物産館と地元の野菜などの売り場が分かれそれぞれの考えが直に伝わった。物産館では陶芸・木製品など製作者が地元の人で構成されていた。野菜売り場では地元産がほとんどで他の2店舗に比べ2割ほど安かった。聞くと生産者が自ら生産ものを店に持ち込むからだという。例えば時期の金柑が1袋150円であった。私がもし生産者として販売すれば300円ぐらいで無ければ労を投じないだろう。
いいかえれば10年後ぐらいに地域の生産者が年老いて新たな人材が生産者となれば文字通りの<金>となる値を生む産品が想定できる。
こうした産品をいかに作り出して行くのか!道の駅に並んでいる当り前の商品に10年後の値札を付ける人材を募集したいという気持ちを強く持った。
保田小学校は飯岡中の移転に伴う解体する事態もあって是非見聞したい施設であった。それによると平成26年12月126年の歴史に幕を閉じその誇りと魅力を発信する交流施設・道の駅として復活と新聞まで発行した。
その内容は私が期待したように1階の各教室は地元の商店主が店舗として開業、2階は宿泊施設・温泉施設に、そして体育館は楽市として地域産品の販売施設に復活したのを文字通り確認した。
地域の文化や人材がたっぷり蓄積されている。これからの地域の衰退を活路に変換する道の駅となり得るのではないか!思い起こすと平成12年に「いいおか津波復興まちづくりコンペ」に参加したグループの皆さんは何れもこうした企画を作り実現の可能性を提案した。しかし、率直にいってその労を報いる活動を主催者として実現していないのが現実である。
道の駅保田小学校 1階の教室は地元の事業者による店舗、2階が宿泊施設
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体育館は地元の産品の販売場所に
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2階の宿泊施設 1教室に8名が宿泊できる
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昨年の10月、旭道の駅季楽里への出品に伴い何かと振り回された年末であった。止む無く正月休みは家族を引き連れ房総へ出かけ、その際に道の駅を見て回る次第となった。
1日であったので南房総の3店を回遊した。みんなみの里、富楽里とみやま、昨年末に開設した道の駅保田小学校である。
率直にいって[みんなみの里]は良かった。物産館と地元の野菜などの売り場が分かれそれぞれの考えが直に伝わった。物産館では陶芸・木製品など製作者が地元の人で構成されていた。野菜売り場では地元産がほとんどで他の2店舗に比べ2割ほど安かった。聞くと生産者が自ら生産ものを店に持ち込むからだという。例えば時期の金柑が1袋150円であった。私がもし生産者として販売すれば300円ぐらいで無ければ労を投じないだろう。
いいかえれば10年後ぐらいに地域の生産者が年老いて新たな人材が生産者となれば文字通りの<金>となる値を生む産品が想定できる。
こうした産品をいかに作り出して行くのか!道の駅に並んでいる当り前の商品に10年後の値札を付ける人材を募集したいという気持ちを強く持った。
保田小学校は飯岡中の移転に伴う解体する事態もあって是非見聞したい施設であった。それによると平成26年12月126年の歴史に幕を閉じその誇りと魅力を発信する交流施設・道の駅として復活と新聞まで発行した。
その内容は私が期待したように1階の各教室は地元の商店主が店舗として開業、2階は宿泊施設・温泉施設に、そして体育館は楽市として地域産品の販売施設に復活したのを文字通り確認した。
地域の文化や人材がたっぷり蓄積されている。これからの地域の衰退を活路に変換する道の駅となり得るのではないか!思い起こすと平成12年に「いいおか津波復興まちづくりコンペ」に参加したグループの皆さんは何れもこうした企画を作り実現の可能性を提案した。しかし、率直にいってその労を報いる活動を主催者として実現していないのが現実である。
道の駅保田小学校 1階の教室は地元の事業者による店舗、2階が宿泊施設
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体育館は地元の産品の販売場所に
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2階の宿泊施設 1教室に8名が宿泊できる
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飯岡中がなくなってしまうのではないよ!移転に伴い旧校舎が取り壊されるということだ。
震災の後、時代の転換を想定し飯岡中を各に国民宿舎飯岡荘を含めた震災後のまちづくりに「復興観光まちづくりコンペ」を企画・開催した。
全国から斬新な提案がありこれらを発表・展示など行なった。残念ながら行政の皆さんは関心を示すこがなかった。当時、飯岡中の生徒さんが見に来たり、東総工業の生徒さんが提案したりしたこと、それが何か唯一の救いだった!
震災は海岸の周辺を一変したが風土を変えることは無かったようだ。飯岡中の転変はその象徴ではないかな!
鋸南町・保田小学校道の駅を開設した町長白石冶和さんは次に世代に何を渡すことが出来るかとその廃校と活用を模索したといっている。
かって、旭市の職員に飯岡中の利・活用はなにか出来ないか、と訪ねたら「移転・取り壊しは決まっているし津波を受けて危険地帯なので税金を投入できません」ということでした。
少子高齢化・人口減少の行く末をどうやって行き延べか!震災にかかわらず行政と地域の住民が衆知を集める以外に無いだろうと思っていた。にもかかわらずだが、コミュニティ・交流拠点としての学校は残念だが再生から横道を辿ることになったなと考えてしまった。
未来に力を注いで行くか!現状を掘りさげるか!成長がそれほど望めない地域で学校の行く末を当事者が考える機会に出会ったのかな!古里を失うことは止むを得ないが創ることには世代という膨大な労力を要すよ!