「愛の渇き」 1967年 日本
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監督 蔵原惟繕
出演 中村伸郎 浅丘ルリ子 山内明
楠侑子 小園蓉子 志波順香
岩間隆之 石立鉄男 紅千登世
ストーリ
悦子(浅丘ルリ子)は夫良輔の死後も杉本家に住み、いつか義父の弥吉(中村伸郎)とも関係をもっていた。
杉本家は阪神間の大きな土地に農場をもち、広い邸宅の中には、元実業家の弥吉、長男で大学でギリシャ語を教える謙輔夫妻(山内明、楠侑子)、園丁の三郎(石立鉄男)、女中の美代(紅千登世)、そして悦子が、家庭のぬるま湯の中で、精神の飢えを内にひめながら暮していた。
その中でも悦子は弥吉との関係を断ちがたく、その心は愛に渇ききってしまっていたが、ある日ふと心を動かしたのは若くひきしまった身体粗野なたくましさを持つ園丁の三郎であった。
悦子は女の直感で女中の美代が三郎と恋仲であることを見破り、美代が三郎の子供を妊ごもったことに、深い嫉妬を覚えていた。
胎児を始末させた悦子を恨みながら美代は郷里へ帰った。
邸宅では、財産とられた謙輔夫妻を中心に、人間の空虚なうめきが狂い泣いていた・・・。
寸評
浅丘ルリ子がほぼ出ずっぱりの状態で作品を昇華させている。
三島由紀夫の作品は数多く映画化されているが、出来栄えの良さから言えば市川崑監督、市川雷蔵主演で撮った「金閣寺」を原作とする「炎上」と、この作品が双璧だと思う。
そう言わしめるほど、この作品における浅丘ルリ子の頑張りは称賛されてよい。
デビュー作「緑はるかに」の役名ルリ子を芸名にした浅丘ルリ子だが、しばらくはいわゆるカワイコチャン女優に過ぎなかったところ、共演を続けていた小林旭との事実婚状態が破局したことが良かったのか、その後石原裕次郎の相手役となってから成長していったように感じる。
男性スターの彩り的存在から脱皮したことを、100本出演記念映画となった「執炎」で証明し、本作でそれを決定づけたと思う。
両作品とも監督が蔵原惟繕だったことを思うと、浅丘ルリ子の演技開眼には蔵原惟繕監督の功績が大だと言わざるを得ない。
スローモーション、顔のアップ、大胆な構図などが前衛的に思えるが、内容は難解なものではない。
オーバー露出によるハイキ―な画面などを駆使した撮影の間宮義雄も称賛されてよい。
藤田敏八監督が改名する前の藤田繁矢で脚本に参加しているのも今となっては特筆すべきことかもしれない。
オープニングの空撮からタイトルが出るまでの導入部もなかなかいい。
途中で小説の一節らしい文章を出したり、坂道での悦子と三郎が会話するシーンで二人の会話を文字表現して雰囲気を変えているのだが、このような演出は型にはまると独自の雰囲気を出して何かいわくありげに見える。
悦子は夫に裏切られたが病死したので夫の実家に舞い込んでいて、義父をお父様と呼びながらその義父の愛人となっている。
義兄夫婦も同居しているのだが義兄は秘かに悦子に思いを寄せていて、妻もそのことを感じ取っている。
使用人の三郎も悦子にあこがれを抱いているが、身分違いの為その気持ちを抑えている。
義父はこの家にあって暴君のような振る舞いだが、悦子は愛人という立場を利用して君臨しているように見える。
若い三郎の肉体に惹かれたのか、本心を見せない三郎への支配欲がもたげてきたのか、そんな気持ちが高じて悦子は三郎に傾倒していく。
彼らが暮らす杉本家は魑魅魍魎がうごめいている空間だが、そのドロドロ感を表立って描くことなく乾いた演出となっているのは三島由紀夫の世界を意識したものなのかもしれない。
垣間見えるのは悦子の嫉妬である。
三郎の子供を身ごもった美代への嫉妬であり、自分を見下しているような態度を見せる三郎の精神への嫉妬だ。
僕は小説を読んだわけではないが、三島が描き出した悦子のイメージを見事なまでに演じていたのではないかと思わせる浅丘ルリ子の存在感だ。
演技派女優としての可能性を見事なまでに示した作品でもあり、彼女の代表作と言っても過言ではない。
現阪急宝塚線の服部駅が服部霊園駅だったころが映り、「ああ、そうだった、そうだった」と思い出す。
旧の阪急梅田駅も映っていて懐かしかった。
古い映画はそんな楽しみもある。
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監督 蔵原惟繕
出演 中村伸郎 浅丘ルリ子 山内明
楠侑子 小園蓉子 志波順香
岩間隆之 石立鉄男 紅千登世
ストーリ
悦子(浅丘ルリ子)は夫良輔の死後も杉本家に住み、いつか義父の弥吉(中村伸郎)とも関係をもっていた。
杉本家は阪神間の大きな土地に農場をもち、広い邸宅の中には、元実業家の弥吉、長男で大学でギリシャ語を教える謙輔夫妻(山内明、楠侑子)、園丁の三郎(石立鉄男)、女中の美代(紅千登世)、そして悦子が、家庭のぬるま湯の中で、精神の飢えを内にひめながら暮していた。
その中でも悦子は弥吉との関係を断ちがたく、その心は愛に渇ききってしまっていたが、ある日ふと心を動かしたのは若くひきしまった身体粗野なたくましさを持つ園丁の三郎であった。
悦子は女の直感で女中の美代が三郎と恋仲であることを見破り、美代が三郎の子供を妊ごもったことに、深い嫉妬を覚えていた。
胎児を始末させた悦子を恨みながら美代は郷里へ帰った。
邸宅では、財産とられた謙輔夫妻を中心に、人間の空虚なうめきが狂い泣いていた・・・。
寸評
浅丘ルリ子がほぼ出ずっぱりの状態で作品を昇華させている。
三島由紀夫の作品は数多く映画化されているが、出来栄えの良さから言えば市川崑監督、市川雷蔵主演で撮った「金閣寺」を原作とする「炎上」と、この作品が双璧だと思う。
そう言わしめるほど、この作品における浅丘ルリ子の頑張りは称賛されてよい。
デビュー作「緑はるかに」の役名ルリ子を芸名にした浅丘ルリ子だが、しばらくはいわゆるカワイコチャン女優に過ぎなかったところ、共演を続けていた小林旭との事実婚状態が破局したことが良かったのか、その後石原裕次郎の相手役となってから成長していったように感じる。
男性スターの彩り的存在から脱皮したことを、100本出演記念映画となった「執炎」で証明し、本作でそれを決定づけたと思う。
両作品とも監督が蔵原惟繕だったことを思うと、浅丘ルリ子の演技開眼には蔵原惟繕監督の功績が大だと言わざるを得ない。
スローモーション、顔のアップ、大胆な構図などが前衛的に思えるが、内容は難解なものではない。
オーバー露出によるハイキ―な画面などを駆使した撮影の間宮義雄も称賛されてよい。
藤田敏八監督が改名する前の藤田繁矢で脚本に参加しているのも今となっては特筆すべきことかもしれない。
オープニングの空撮からタイトルが出るまでの導入部もなかなかいい。
途中で小説の一節らしい文章を出したり、坂道での悦子と三郎が会話するシーンで二人の会話を文字表現して雰囲気を変えているのだが、このような演出は型にはまると独自の雰囲気を出して何かいわくありげに見える。
悦子は夫に裏切られたが病死したので夫の実家に舞い込んでいて、義父をお父様と呼びながらその義父の愛人となっている。
義兄夫婦も同居しているのだが義兄は秘かに悦子に思いを寄せていて、妻もそのことを感じ取っている。
使用人の三郎も悦子にあこがれを抱いているが、身分違いの為その気持ちを抑えている。
義父はこの家にあって暴君のような振る舞いだが、悦子は愛人という立場を利用して君臨しているように見える。
若い三郎の肉体に惹かれたのか、本心を見せない三郎への支配欲がもたげてきたのか、そんな気持ちが高じて悦子は三郎に傾倒していく。
彼らが暮らす杉本家は魑魅魍魎がうごめいている空間だが、そのドロドロ感を表立って描くことなく乾いた演出となっているのは三島由紀夫の世界を意識したものなのかもしれない。
垣間見えるのは悦子の嫉妬である。
三郎の子供を身ごもった美代への嫉妬であり、自分を見下しているような態度を見せる三郎の精神への嫉妬だ。
僕は小説を読んだわけではないが、三島が描き出した悦子のイメージを見事なまでに演じていたのではないかと思わせる浅丘ルリ子の存在感だ。
演技派女優としての可能性を見事なまでに示した作品でもあり、彼女の代表作と言っても過言ではない。
現阪急宝塚線の服部駅が服部霊園駅だったころが映り、「ああ、そうだった、そうだった」と思い出す。
旧の阪急梅田駅も映っていて懐かしかった。
古い映画はそんな楽しみもある。