おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

軽蔑

2019-05-16 08:05:02 | 映画
「軽蔑」 1963年 フランス / イタリア / アメリカ


監督 ジャン=リュック・ゴダール
出演 ミシェル・ピッコリ ブリジット・バルドー
   ジャック・パランス フリッツ・ラング

ストーリー
女優カミーユ(ブリジット・バルドー)とその夫、シナリオライターのポール(ミシェル・ピッコリ)は寝室で無意味な会話をするが、それは充実した満足感がなせるものだ。
翌朝、ポールはアメリカのプロデューサー、プロコシュ(ジャック・パランス)と会った。
撮影中の映画のシナリオを改定してくれというのだ。
昼、カミーユが来た。プロコシュは二人を自邸に誘った。
プロコシュはカミーユに親切だ。
静かな嫉妬心を持ちながら、ポールはプロコシュに遠慮している。
プロコシュはカプリ島のロケにカミーユを誘うと、「夫が決めますから」とカミーユは素気なく答える。
アパートに帰ってからカミーユはひどく不愛想で、その夜、二人は寝室を別にした。
ブロコシュから誘いの電話があり、ポールはカミーユ次第だと返事した。
カミーユは「軽蔑するわ」と再び激しく怒った。
夫婦はプロコシュの誘いで映画館に行ったが、夫婦はほとんど口をきかなかった。
カミーユはカプリ行きを承知したが、撮影現場ではプロコシュは監督のやり方が気に入らないでいる。
彼は一足さきに別荘に帰ろう、とカミーユを誘った。
カミーユは夫の顔を見た。
「お行き」ポールは監督とユリシーズの愛を語りあっている。
ポールは別荘で何故自分を軽蔑するのかと、カミーユに執拗にきいたが、二人は黙しあうだけだった。
翌朝、衣類をまとめているポールの所にカミーユからプロコシュとローマに立つとの手紙が届いた。


寸評
ゴダールが映画と愛について撮った映画という感じで、冒頭の映画撮影シーンを背景としたスタッフ、キャストのクレジットはなくゴダール自身が口頭で紹介している。
映画は虚構の世界で、映画の嘘はこうして作られるのだとでも言っているようでもある。
ブリジット・バルドー(Brigitte Bardot)は「赤ん坊」を意味するフランス語 bebeと発音が同じなので「BB(べべ)」が愛称となったのだが、僕の印象では愛称のような愛らしいイメージはなくセックスシンボルとして存在が大きかった女優だが、この「軽蔑」では突然豹変し夫を軽蔑する美しき妻を好演している。
美しい裸体ときれいなお尻を見せるブリジット・バルドーが愛の表現として「私の胸と乳首はどっちが好き?」などとたわいのない質問を浴びせると、ミシェル・ピコリはそれに飽きもせず答え続ける。
その姿は当初ポールとカミーユの夫婦は愛し合って上手くいっていると思わせるのだが、やがて美しき肉体の金髪の女性がいるだけという感じを受けるようになってくる。
その冷めた感じがこの映画のトーンでもある。
僕は詩人ホメロスの作として伝承された古代ギリシアの長編叙事詩である「オデュッセイア」を詳しく知らないが、カリブ島でフリッツ・ラング監督が「オデュッセイア」がトロイの戦争に旅立ち、なかなか妻のもとに帰還しなかったのは、夫婦の不仲が原因だったと語るのは、神話の物語と夫婦の物語を重ね合わせているからだ。
映画製作をめぐっての監督とプロデューサーの対立があり、脚本家ポールとその美しき妻とプロデューサーの三角関係が「オデュッセイア」に重なっている。
叙事詩では寛容な態度を見せた王だが、王妃ペーネロペーに求婚した男たちをすべて殺害したのだ。

僕は寛容は嫉妬の裏返しでもあると思っている。
男であれば他の男の愛する人への接触に寛容を装うが、同時に嫉妬の気持ちが湧いてきたりするのではないか。
独占欲がありながらも自分の心の広さを見せる精一杯の態度をとるが、心の内は嫉妬心で燃え上がっているかもしれないのだ。
ポールも優柔不断ともとれるような寛大な態度をとるが、実際はアメリカ人のプロデューサーと妻カミーユとの交際を快く思っていない。
カミーユは夫のポールが自分で結論を出さないで、常に妻の気持ちを優先すると魅せながらも結局は自分に責任を押し付けてくる夫を軽蔑するようになる。
軽蔑する気持ちが湧いた相手を愛せるはずがなく破たんを迎える。
女は我儘な動物で突然、前触れもなく冷めていく。
妻はいつしかプロデューサーの男とキスをするのだが、それがなぜなのかは誰にもわからない。

この映画では原色が印象的だ。
赤、青、黄の三原色が画面を彩る。
赤い車や赤いソファ。
青いソファも登場し、通訳は黄色い服を着て、黄色いバスローブも登場する。
古代彫刻の目や口が青く光っている。
カミーユは黄色いバスローブを脱ぎ棄て青い海へと飛び込む。
きっと意味があったと思うのだが、今のところ僕はその究明が出来ていない。

KT

2019-05-15 08:22:46 | 映画
「KT」 2002年 日本


監督 阪本順治
出演 佐藤浩市 キム・ガプス 原田芳雄 チェ・イルファ
   筒井道隆 ヤン・ウニョン 香川照之 柄本明
   大口ひろし 光石研 利重剛 麿赤兒 江波杏子

ストーリー
1971年4月、韓国大統領選挙は僅差の末、朴正熙(キム・ミョンジュン)の三選が決まった。
敗れたとはいえ野党候補の金大中(チェ・イルファ)は、朴正熙大統領にとって大きな脅威となる。
その後、金大中は国会議員選挙の選挙運動中に大型トラックの追突を受ける。
金大中がその後遺症の治療のため日本を訪れていた72年10月、朴大統領は非常戒厳令を宣言し、反対勢力の徹底弾圧に乗り出したので、金大中は日米を往復する亡命生活を余儀なくされた。
1973年6月、朴軍事政権下の韓国から亡命し、日本で故国民主化の為に精力的な活動をしていた金大中を拉致暗殺せよとの至上命令を受けた駐日韓国大使館一等書記官・金車雲(キム・ガプス)らは、いよいよそれを実行に移そうとしていた(名付けてKT作戦)。
その作戦に、朴大統領と陸軍士官学校時代から繋がりを持つ自衛隊陸上幕僚二部部長・塚田(大口ひろし)によって、民間興信所を開設しKCIAをサポートするよう命じられた陸幕二部所属の富田(佐藤浩市)は、様々な手を使って金大中の行方を追うが、その度に、大使館内部の密通者に偽の情報を掴まされてしまう。
そんな中、彼は金大中の取材に成功していた夕刊トーキョーの記者・神川(原田芳雄)に接近し、遂に金大中が8月9日に自民党で講演を行うとの情報を入手し、報を受けた金車雲は、それを機に作戦を実行しようとする。
ところが、またしてもその計画が漏洩し、神川を通して週刊誌にスクープされてしまった。
この事態に、KCIAは金大中が講演の前日に日本滞在中の民主統一党党首・梁宇東を訪ねる機会を狙って、強行手段に打って出ることになったが、そこには自衛隊関与の疑惑を恐れた上官(柄本明)から一切手を引くように言い渡されながら、想いを寄せる韓国人女性・李政美(ヤン・ウニョン)の手術費用を協力費として金車雲から受け取った富田の姿があった・・・。


寸評
この手の映画はアメリカ映画の得意とするところだが、日本映画としては非常によくできたポリティカル・サスペンスとなっている。
金大中事件には自衛隊の関与があったとする説もあるが事実関係は不明である。
この作品では自衛隊が関与していたことになっていて、冒頭でフィクションであると断っている通り彼らが実際の人物ではなさそうだが、そのような人物がいたとしても不思議でないと思わせる。
韓国映画を思わせるタイトルと布袋虎泰の音楽で観客を一気に映画に引き込む。
自衛隊員冨田と韓国人女性・李政美の接近は唐突過ぎる感もあるが全体的に展開がスピーディなのが良い。
三島事件、憲法問題の入れ方も手際がいい。
金大中の拉致について在日韓国大使館で東ベルリン事件の二の舞になるとの会話がなされるが、東ベルリン事件とは1967年7月に韓国中央情報部がヨーロッパ在住の韓国人教授・留学生を、東ベルリンの北朝鮮大使館と接触し韓国に対する北朝鮮のスパイ活動や北朝鮮訪問を行っていた嫌疑で大量に逮捕した事件のことであり、当時の韓国は西ドイツと犯人引き渡し協定を結んでいなかったことから、KCIAの捜査官達が直接西独へと赴き、「任意同行形式」を装った不法連行で17人を帰国させため、韓国は一時期西ドイツとの間で17人の身柄を巡る外交問題を抱え、両国関係で窮地に立たされることとなった。
その事が語られフィクションでありながらもノンフィクションの部分もあるのだと思わせる効果を生み出していく。
ずっと昔にあった明成皇后暗殺事件を語らせるなど韓国の反日感情の根深さも描き込んでいる。

大統領になった金大中がこの事件を一切不問にするとの立場を明らかにし真相究明を打ち切った為、金大中事件の経緯が明らかになったとはいえ真相は闇の中だ。
冨田のモデルは、退官陸自3佐で興信所を営んでいた坪山晃三氏だろうが氏は協力を拒んでいるから、「KT」は多分にフィクション部分を含んでいると思われる。
フィクションに彩どられながら闇の中を思わせるのは国家が犯罪に加担した時の恐ろしさで、その怖さこそがこの映画のテーマなのかもしれない。
朴政権が政敵の金大中を殺害しようとしてトラック事故を起こしたのは間違いないようだし、金大中の拉致にKCIAが関与していたことも明らかになっている。
拉致されて連れ去られた金大中が海中投棄されそうになったところ、海上保安庁のヘリ(映画では自衛隊機のような印象を受ける)が照射を当てて中止を促したのも事実だが、それがどういった経緯で誰が命じたのかは明らかにされていないと思う。
この映画で描かれたように、朝鮮半島がベトナム化するのを恐れたアメリカが内閣官房長官あてに圧力をかけてきたのかもしれない。
金車雲の保険行為にヒントを得て冨田も自分に保険を掛けた気でいるが、ラストシーンを見ると国家はそんなものはものともせず抹殺してしまう力を持っているということだと思う。
朴政権は日本も当初支持したし、第二次大戦における賠償金代わりに多額の援助も行った。
韓国がその資金で漢江の奇跡と呼ばれる発展を遂げた事を忘れたかのように韓国政府の日本批判は止まないし、批判が起きると日本人の韓国に対する嫌悪感も生じてくるという日韓関係の悪循環。
韓国人金車雲と日本人冨田の信頼と友情が国家犯罪に加担することで生まれたというのは皮肉である。

刑事ジョン・ブック/目撃者

2019-05-14 07:38:51 | 映画
令和になって半月が過ぎようとしています。
我が地区でも天皇のご即位を祝う地車パレードを行いました。
さて、作品紹介はやっと「け」に突入です。


「刑事ジョン・ブック/目撃者」 1985年 アメリカ


監督 ピーター・ウィアー
出演 ハリソン・フォード ケリー・マクギリス
   ルーカス・ハース  ダニー・グローヴァー
   ジョセフ・ソマー  アレクサンダー・ゴドノフ
   ジャン・ルーブス  パティ・ルポーン

ストーリー
文明社会から離れ、厳格な規律に従って今なお17世紀の生活様式で暮らしている信徒一派アーミッシュ(アンマン派信徒)の村で、ジェイコブ・ラップの葬儀が行なわれていた。
未亡人となった妻レイチェルと6歳の息子サミュエル、そして祖父のイーライは、隣人達の助けで、なんとか農場での暮らしを続けることができた。
数カ月後、レイチェルは、サミュエルと共に妹の住むボルチモアに旅する決心をした。
乗り継ぎの列車を待つ間にトイレに入ったサミュエルは、恐ろしい殺人事件を目撃した。
フィラデルフィア警察のジョン・ブック警部と彼のパートナー、カーターは、サミュエルから事情を聞き出すため、彼ら母子を署に案内し容疑者の確認を求めた。
その夜はブックの妹イレーンの家で明かしたレイチェルとサミュエル。
翌日、1枚の写真がサミュエルの目にとまった。
それは、麻薬事件の成績を賛えられた麻薬課長マクフィーの新聞の切り抜き記事で、サミュエルは彼が犯人だとブックに告げた。
早速、そのことを警察副部長シェイファーに伝えるブック。
警察本部から大量の麻薬が消えた事件にもマクフィーが関係していのではないかとも指摘した。
自分のアパートに戻ったブックは、マグナム銃を掲げたマクフィーに急袈され負傷した。
シェイファーもマクフィーの仲間であることに気づいたブックは、傷つきながらイレーンの家に行き、サミュエルとレイチェルに出発の準備を促すとともに、カーターに連絡し、ファイルから親子の名をはずさせ、2人の悪徳警官に気をつけるよう忠告した。
ブックは、母子を農場に送り届けたが、その帰りに傷が悪化し気を失う・・・。


寸評
アーミッシュと言う宗教集団の存在が大きく作品を支配している。
見ているうちにアーミッシュは農耕や牧畜によって自給自足の生活をしているらしいことが分かってくる。
そして彼等は、喧嘩をしない非暴力主義者で、派手な服を着てはいけないとされていることも分かる。
文明も拒絶するような所があり、家族の誰かがアーミッシュから離脱した場合、たとえ親子であっても絶縁されて互いの交流が疎遠になるなどの厳しい戒律を有していることも判明してくる。
我々が生きている社会とはかけ離れた生活を送っているアーミッシュ社会の風俗を細やかに描くことによって、とても情緒に満ちた作品に仕上がったという成功例だ。

少年のサミュエルは殺人事件を目撃するのだが、その犯人が警察内部にいるという設定は通俗的だ。
その少年を守る主人公が、母親と恋に落ちるという設定もありきたりと言えばありきたりな内容である。
それを独特の雰囲気に仕上げたのは監督ピーター・ウィアーの力量だろう。
冒頭の展開を見ると、これは少年を守りながら真犯人を追及するというサスペンス映画だとの印象を持たせる。
ところが真犯人はすぐに判明し、また彼等が主人公たちの居所を探し当て刺客となって襲ってくるという展開にはならないので、単なる刑事もの、アクションもの、サスペンスものでないと感じてくる。
むしろ映画は、特殊社会に生きるレイチェルと、彼等を守るジョン・ブックの恋愛映画へと変身していく。
彼等の結ばれぬ恋が、アイリッシュ社会の中で描かれ、単純な恋愛映画を雰囲気あるものに作り変えていく。
その描き方は見事なもので、ジョン・ブックのハリソン・フォードと、レイチェル・ラップのケリー・マクギリスが繰り広げる欲望を抑えた恋愛感情がすごくよくて、彼等の立場と戒律の厳しさが二人の恋を阻む様子が細やかに描かれ、まったくもって上質の恋愛映画として成り立たせている。
ジョン・ブックが入浴中のレイチェルと目を合わせ、向き直ったレイチェルと共にただ立ちつくすだけというシーンの美しさと緊張感は素晴らしい。

恋愛映画の要素が強いので、ジョン・ブックの相棒であるカーターが抹殺されるシーンは描かれていない。
おそらく敵の罠にかかり無残に殺されたのだろうが、そこを描いて真犯人側への憎しみを観客に植え付けるということを避けている。
僕はこの処理の仕方は、やはりアーミッシュの非暴力を印象付けるための演出だったと思う。
そうした彼等の非暴力主義は、観光客や町の人々の好奇心にも耐える姿で、あるいはダニエルが侮辱されても我慢する姿に象徴されていたし、耐えきれずに婦人に痛烈な言葉を浴びせたり、からかった相手をノックアウトするブックはアーミッシュの世界には住めないことを物語っていた。
そしてブックが言うように「君を抱けばここに住み着くことになる。それとも君がここから出ていくかだ」という二者択一のジレンマが二人の間に横たわるというのも物語を膨らませている。
もちろん最後は追ってきた真犯人側とジョン・ブックの対決となるのだが、派手な銃撃戦はなく一人が銃殺されるだけである。
もう一人は張られていた伏線によって銃殺されることなく倒れ、犯人グループの親玉もアッサリと観念してしまう。
親玉が観念したのは駆けつけた村人たちの無言の視線によってである。
非暴力が暴力に打ち勝った瞬間で、監督が描きたかったテーマの一つではなかったかと思う。

軍旗はためく下に

2019-05-13 07:37:08 | 映画
「軍旗はためく下に」 1972年 日本


監督 深作欣二
出演 丹波哲郎 左幸子 藤田弓子 三谷昇 ポール牧
   市川祥之助 中原早苗 関武志 内藤武敏
   中村翫右衛門 江原真二郎 夏八木勲 藤里まゆみ
   寺田誠 山本耕一

ストーリー
昭和27年、「戦没者遺族援護法」が施行されたが厚生省援護局は、富樫勝男(丹波哲郎)の未亡人サキエ(左幸子)の遺族年金請求を却下した。
理由は富樫軍曹の死亡は“敵前逃亡”による処刑で援護法の対象外というもので、遺族援護法は「軍法会議により処刑された軍人の遺族は国家扶助の恩典は与えられない」とうたっているのだった。
富樫軍曹の未亡人サキエは、この厚生省の措置を不当な差別として受けとった。
富樫軍曹の処刑を裏付ける証拠、たとえば軍法会議の判決書などは何ひとつなく、また軍曹の敵前逃亡の事実さえも明確ではなかったからである。
以来、昭和46年の今日まで、毎年8月15日に提出された彼女の「不服申立書」はすでに二十通近い分量となったが、当局は「無罪を立証する積極的証拠なし」という判定をくり返すだけだった。
しかし、サキエの執拗な追求は、ある日とうとう小さな手がかりを握むことになる。
亡夫の所属していた部隊の生存者の中で当局の照会に返事をよこさかなったものに元陸軍上等兵寺島継夫(三谷昇)、元陸軍伍長秋葉友幸(関武志)、元陸軍憲兵軍曹越智信行(市川祥之助)、元陸軍少尉大橋忠彦(内藤武敏)の四人がいたという事実である。
寺島継夫は朝鮮人で養豚業を営んでおり、秋葉友幸は漫才師となって戦争ネタをやっていた。
越智信行は盲目となってマッサージ師に、大橋忠彦は高校教師となっていたが、サキエは藁にもすがる思いで、この四人を追求していくのだが、その追求の過程で、更に多くの人物が彼女の前に現われてくる。
サキエの前に明らかにされたものは、今まで彼女の想像したこともなかった恐るべき戦場の実相だった。


寸評
深作欣二は「仁義なき戦い」シリーズや、「蒲田行進曲」など娯楽性の高い作品を撮ってきた監督だが、彼には珍しくこの「軍旗はためく下に」は反戦を訴える社会派作品である。
とはいうものの、真実は一体どうだったのかを追及するサスペンス性があって、社会派作品ながらもエンタメ性も持ち合わせている。
冒頭で昭和天皇による戦没者追悼式の模様が映し出されるが、富樫は軍法会議で処刑されたことで戦没者とはみなされておらず、サキエは遺族年金を受け取ることが出来ていない。
サキエは判明した4人を訪ね歩き亡き夫に起きた真実を聞きただしていくが、最初にあった寺島は「自分は富樫さんのおかげで生き延びることが出来た」と富樫の人間的素晴らしさを話す。
この時点では富樫が軍法会議に掛けられて処刑されたのは冤罪で、軍隊内部の腐敗が描かれていくのかなという思いが浮かんでくるのだが、二人目の秋葉の証言あたりから富樫の本当の姿はどうだったのかと思わせる内容となって来て、サキエでなくても思いは混とんとしてくる。
証言が進んでいくうちに、果たしてその当事者が富樫だったのかどうかは曖昧なままだが、人肉を食べたとか上官を殺害したとかの事実が明らかにされていく。
飢えをしのぐために人肉を食べると言う話は「野火」などでも出てくるし、古参兵による新兵いじめは幾度となく描かれてきたものだが実際にもそのようなことはあったに違いない。
特に人肉を食べる場面は衝撃的で、肉の調達を疑った男も殺害して、その男の尻の肉を食べたと言うのだ。
人が人を殺してその肉を食うと言うおぞましい行為なのだが、飢えに苦しむ戦場ではそのような行為もできてしまうのかもしれない。
人間としての尊厳をなくしてしまうのが戦場なのだろう。

銃撃を受けるシーンなどはあるが砲弾が飛び交うようなシーンはない。
当時のスチール写真を使っての描き方はドキュメンタリーを意識させ、起きていることの信憑性を高めている。
心に響くのは大橋が言った「遺族の意に添うように処理してやればいいのに」という言葉、あるいは「A級戦犯が総理大臣になっているのに、後始末は我々下っ端が負わされている」という言葉である。
富樫も間違いなく戦争の犠牲者なのだ。
国家によって引き起こされた戦争の犠牲者及びその遺族は国家によって救われて当然だと思う。
本当のことを語っているように見える証言者も、どこかで自分をかばっているような所があり、そのことが次々と暴かれていく後半はサスペンスとしても盛り上がりを見せていく。
千田部隊長(中村翫右衛門)は憎まれるべき存在だが、彼がサキエに語った内容が最後の衝撃となる。
サキエはその事実を再確認するが、そのことで富樫の名誉が回復されたわけではない。
サキエが最後につぶやく言葉がむなしい。
戦場で起きる想像を絶するような行為と共に、終戦が成っているにもかかわらず処刑が行われるという軍隊組織の不条理が恐ろしい。
僕たちはそのようなことを経験しないできた戦争を知らない世代である。
それは幸せなことでもあるのだが、ひとたび戦争を引き起こせばこのような悲惨な出来事も起きてしまうのだと言うことを心に留め置かねばならない。

黒い雨

2019-05-12 10:18:06 | 映画
「黒い雨」 1989年 日本


監督 今村昌平
出演 田中好子 北村和夫 市原悦子
   沢たまき 三木のり平 小沢昭一
   小林昭二 河原さぶ 石丸謙二郎
   大滝秀治 白川和子 深水三章
   殿山泰司 常田富士男 三谷昇

ストーリー
昭和20年8月6日、広島に原爆が投下された。
その時郊外の疎開先にいた高丸矢須子は叔父・閑間重松の元へ行くため瀬戸内海を渡っていたが、途中で黒い雨を浴びてしまった。
20歳の夏の出来事だった。
5年後矢須子は重松とシゲ子夫妻の家に引き取られ、重松の母・キンと4人で福山市小畠村で暮らしていた。
地主の重松は先祖代々の土地を切り売りしつつ、同じ被爆者で幼なじみの庄吉、好太郎と原爆病に効くという鯉の養殖を始め、毎日釣りしながら過ごしていた。
村では皆が戦争の傷跡を引きずっていた。
戦争の後遺症でバスのエンジン音を聞くと発狂してしまう息子・悠一を抱えて女手一つで雑貨屋を営む岡崎屋。
娘のキャバレー勤めを容認しつつ闇屋に精を出す池本屋。
重松の悩みは自分の体より、25歳になる矢須子の縁組だった。
美しい矢須子の元へ絶えず縁談が持ち込まれるが、必ず“ピカに合った娘”という噂から破談になっていた。
重松は疑いを晴らそうと矢須子の日記を清書し、8月6日に黒い雨を浴びたものの直接ピカに合っていないことを証明しようとした。
やがて庄吉、好太郎と相次いで死に、シゲ子が精神に異常をきたした。
一方、矢須子はエンジンの音さえ聞かなければ大人しく石像を彫り続けている悠一が心の支えとなっていった。
しかし、黒い雨は時と共に容赦なく矢須子の体を蝕み、やがて髪の毛が抜け始めたのだった。


寸評
人々の挨拶から始まるオープニングは静かで、嵐の前の静けさを物語る。
まばゆい閃光と共におびただしい窓ガラスが砕け散り、人々が爆風によって一瞬にして路面電車から投げ出され叩きつけられ、そして遠くに見える巨大なキノコ雲を見る瞬間の恐怖が強烈だ。
さらに恐怖を呼び起こすのが黒い雨がぽつぽつと降ってくる瞬間である。
閑間重松(北村和夫)、閑間シゲ子(市原悦子)夫婦と高丸矢須子(田中好子)が爆心地をさまよいながら、重松が務めている工場へ避難していく途中で出会う光景は見るも悲惨な状況である。
黒こげの死体に目をそむけたくなるが、痛々しいのは大火傷を負い腕から皮膚が垂れ下がる子供が「兄ちゃん・・・」と青年を呼び止める場面だ。
顔は焼けただれて判別がつかないので、兄らしい青年が名前を言わせたりして弟かどうかを確かめ、変わり果てた姿になった弟だと解り抱きつく瞬間の残酷な描写に身の毛がよだった。
映画は原爆の惨禍に焦点を当てず、被爆後の後遺症に襲われる人々の叫びや苦しみを描いていく。
直接被爆した人だけでなく、知らないうちに放射能を浴びてしまっていた二次被爆者も含まれている。
二次被爆の代表者が矢須子である。
矢須子は被爆者だという噂で縁談がなかなかまとまらないのだが、被爆者差別の実態を肌身をもって感じてこなかった僕に彼等の苦しみが迫ってくる。
それ以上にいつ発病するかもしれない、いつ死ぬかもしれないという彼等の恐怖も伝わってくる。

非常に重くて暗い映画で目をそむけたくなるのだが、脇役たちが暗いながらも観客の目を引き止めるいい演技を見せている。
重松の幼なじみで同じ被爆者の庄吉を演じた小沢昭一、好太郎を演じた三木のり平がいい。
家の前の道をエンジン音をさせながらバスなどが通るたびにフラッシュバックを起こし、「敵襲!」と叫んで爆弾に見たてた枕を使って車体下にしかけようとする岡崎屋の悠一(石田圭祐)は特異なキャラクターで、彼も戦争の被害者だ。
母親のタツ(山田昌)は悠一がそんな風に発作を起こした時は「成功!」と叫んで事を収めるのが日課のようになっている。
悠一が矢須子に好意を持っていることを知って、重松に結婚を申し入れるシーンも胸を打つ。
重松は地主で農地解放で土地を少なくしたとは言え裕福な家柄であるのに対し、タツは貧乏な一家である。
タツの状況は、「自分たちは貧乏人だからダメだと言われたら諦める」と言わせることで上手く描けていたし、その後に身を粉にして矢須子一家に尽くす姿が、悠一を思う母の姿として胸を打つ。
矢須子にも二次被爆の症状が現れ、シゲ子が風呂場の窓からのぞいた時に矢須子の黒髪が抜け落ちるシーンはゾッとするし印象に残るシーンで、この映画を思い出した時に、真っ先に思い浮かぶシーンだ。
矢須子もついに倒れるが、悠一が必死に励ましトラックに乗り込む。
悠一はトラックのエンジン音を聞いても発作を起こさず「大丈夫だ」と矢須子に声をかけ続ける。
もしかしたら悠一の発作はこのことでおさまったのかもしれない。
矢須子の無事を示す虹も、不吉な白い虹も現れなかったが、どちらにしても矢須子にはつらい人生だ。
55歳で早世したアイドルグループ「キャンディーズ」のメンバーだった田中好子(スーちゃん)渾身の一作だ。

グレン・ミラー物語

2019-05-11 06:50:47 | 映画
「グレン・ミラー物語」 1954年 アメリカ


監督 アンソニー・マン
出演 ジェームズ・スチュアート ジューン・アリソン
   ヘンリー・モーガン チャールズ・ドレイク
   マリオン・ロス アーヴィング・ベーコン
   キャスリーン・ロックハート ジョージ・トビアス
   ベン・ポラック ルイ・アームストロング
   ジーン・クルーパ バートン・マクレーン

ストーリー
若いトロンボーン奏者グレン・ミラーは新しい音楽を創り出す悲願を抱き、そのため苦しい生活を忍んでいて、彼の親友のピアノ奏者チャミイさえもグレンの目的に疑いを持つようになったが、偶然の機会にグレンの編曲した作品がベン・ポラック(自身出演)の耳にとまり、ポラックの編曲助手として採用され彼の楽団と一緒に演奏旅行に出た。
デンヴァーに来たとき、グレンは学校時代の女友達ヘレンに電話をかけ、真夜中に彼女を訪れた。
彼はヘレンとは2年間も音信不通であったが、彼女を彼の両親の家へ朝食に連れ出した。
グレンが彼女に求愛しようとしたとき、チャミイがあらわれ、グレンを仕事に連れ去ってしまった。
大衆音楽に新しい音色を入れようと努力を続けるグレンは、楽団斡旋屋のドン・ヘインズに認められたのを機にポラックの許を去り、2年間編曲に専念したが成功せず、この原因はヘレンのいないことだと悟る。
彼は直ちに長距離電話でヘレンを呼び出して結婚を申込み、彼女も承諾を与えた。
まとまった貯金が出来たとき、ヘレンはグレンにすすめて自分の楽団を組織させた。
6ヵ月後ボストンに出演することになったが、途中事故のため楽団は解散の止むなきに至り、妊娠中のヘレンも健康を害し入院してしまった。
ミラー一家の苦境を知ったボストンのポール・ルームの経営者シュリプマンは、グレンに1000ドルを提供して楽団を再編成させ、ポール・ルームに出演させた。
そのとき偶然、トランペット奏者が唇をいためたので、彼のスコアをクラリネットに書きかえて演奏させたところ、これが計らずもグレン・ミラー・サウンドの誕生となり、未来への光明が開けたのだが・・・。


寸評
僕はビッグバンドによるスウィングジャズが好きで、その中でも「ムーンライト・セレナーデ」「茶色の小瓶」「イン・ザ・ムード」などの名曲があるグレン・ミラーは超メジャーなビッグ・バンドの代表奏者である。
スウィングジャズのビッグ・バンドと言えば、カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、デューク・エリントンなど名前を聞いたことがある奏者がいるが、その中でもベニー・グッドマンは特別な存在である。
彼の伝記映画ではあるが、その詳細を描いているわけではない。
自分のサウンドを模索する姿が描かれているが、彼がすごく苦悩している風には見えないので明るい音楽映画となっている。
ヘレンとの恋模様、愛情物語も同時進行で描かれるが、こちらも滑稽さを感じさせる内容となっていて、ラブロマンスと見ると物足りないものがある。
支えているのはやはりヒット・メロディがタイミングよく挿入されて、ジェームズ・スチャートがグレン・ミラーを感じさせる善良なアメリカ人を飄々と演じていることである。
ヘレンのジューン・アリソンのが首筋を押さえる仕草が効果的に挿入されて微笑ましい。

ヘレンと母校を訪れた時に、グリークラブが「茶色の小瓶」を唄っていて、それにケチをつけるシーンとか、「ムーンライト・セレナーデ」が生み出されるシーンとか、あるいは「真珠の首飾り」を思い起こさせる場面とか、名曲を知っている者には楽しいエピソードが盛り込まれている。
ルイ・アームストロング本人が登場するホールに新婚早々のグレン・ミラーが新妻ヘレンと訪れる場面では、サッチモが演奏し歌い、それにグレン・ミラーたちが加わって演奏が盛り上がっていくシーンは楽しい。
音楽は万国共通で人々を幸せな気分にさせるものだと感じる。
結婚記念日に楽団員が「ペンシルバニア 6-5000」を演奏するシーンも幸せな気持ちにさせる。
途中で「ペンシルバニア・シックス・ファイブ・オ・オ・オ」と掛け声が入る曲が楽しく演奏される。
人の記憶は当てにならないもので、僕がこの作品を初見した時の記憶として「茶色の小瓶」も歌われるシーンがあったように思っていたのだが、再見するとそのシーンはなかった。
僕の思い違いなのだろうが、そんなに上手く思い違いをするものなのだろうか。 

愉快なのはイギリスでの演奏時に敵軍の爆撃を受け、近くで爆発音がし人々が避難する中で演奏を辞めず、逃げ惑った人たちから賞賛の拍手を受ける場面だ。
多分にプロパガンダを感じさせるが、実際に慰問活動はしていたから観客を納得させるエピソードではある。
グレン・ミラーは第二次世界大戦中に慰問楽団を率いて演奏にまわっていたが、大戦末期の1944年12月15日にイギリスからフランスへ向かう途中で乗っていた専用機がイギリス海峡上で消息を絶ち死亡したとされている。
原因は不明で、イギリス空軍の爆撃機が上空で投棄した爆弾が乗機に当たり墜落したとする説、イギリス軍機の誤射説、無事にパリに着き娼婦と事に及んでいる最中に心臓発作で亡くなったのを隠蔽するために行方不明にした説、乗った飛行機特有の故障によるものとする説などが取りざたされている。
映画ではそのどれとも特定せず、ミラーの死を伝えるだけのような描き方をとっていて、ヘレンは夫の死を静かに受け入れる。
名を成した男の影には才女の妻がいたという女性賛歌の映画でもある。


クレイマー、クレイマー

2019-05-10 07:36:48 | 映画
「クレイマー、クレイマー」 1979年 アメリカ


監督 ロバート・ベントン
出演 ダスティン・ホフマン   メリル・ストリープ
   ジャスティン・ヘンリー  ジョージ・コー
   ジェーン・アレクサンダー ハワード・ダフ
   ジョベス・ウィリアムズ

ストーリー
ジョアンナ・クレイマーは結婚して8年、今日も夜通し帰らぬ夫を持ってついに夜明けを迎えていた。
最初は幸せだった結婚生活も、今ではもう無意味なものに感じられていた。
夫テッドは仕事第一主義で帰宅はいつも午前様だ。
7歳になる子供ビリーのことを気にしながらも、ジョアンナは自分をとり戻すために家を出る決心をした。
上機嫌で帰って来たテッドは、妻のこうした変化には気がつかず、妻の別れの言葉も耳に入らない。
テッドの生活はその日から一変し、これまでノータッチだった家庭の仕事をまずやらなくてはならなくなった。
上役の心配は的中し、テッドは家の中にまで仕事を持ち込むはめになり、しかもその場もビリーに邪魔された。
父子2人の生活はうまくかみ合わず、まるで憎み合っている関係のように感じられることもあったが、そんなことを繰り返しながらも、少しずつ互いになくてはならない存在になっていった。
ところが、テッドに思いもかけない出来事が待っていた。
公園のジャングルジムから落ちて、ビリーが10針も縫う大ケガをしたうえ、1年以上も音沙汰なかったジョアンナが突如現われて、ビリーを取り戻したいと言ってきたのだ。
失業中のテッドは東奔西走してやっと職はみつかったものの、裁判は予想通りテッドには不利に運び、結局ビリーはジョアンナの手に渡ることになった。
ビリーなしの生活は考えられなくなっていたテッドは狂乱状態に陥った。
2人が最後の朝食であるフレンチ・トーストを手ぎわよく作りはじめたころは、ビリーの目は涙であふれていた。
そんなビリーを見て、テッドも悲しみをこらえることはできなかった。


寸評
離婚とその後に起こる子供の親権問題が抑えた演出で切々と迫ってくる秀作だ。
離婚に関しては、妻の悩みを仕事にかこつけて全く理解していない夫に愛想を突かせる形でケリがつく。
テッドは仕事に没頭して家庭を顧みないような所があるものの、暴力をふるうわけでもないし、酒乱でもない。
浮気をしていることもないし、子供への虐待も行っていない。
テッドは妻を家庭に縛り付けていることを除いてはごく普通の夫である。
子供を残してまで妻は自分らしさを求めて出ていってしまう。
サービス残業に追い詰められている日本のサラリーマンから見ると、これで離婚されたらたまらんという状況だ。
シングルファーザーとなったテッドにはたちまち困難が降り注ぐ。
幼いビリーの世話と仕事の両立という問題だ。
テッドは優秀なので重要な仕事を任されているのだが、このような状況になると優秀な人間ほど大変になるという教訓でもある。

先ずは子育ての大変さが描かれるが、やんちゃぶりを見せるビリーのジャスティン・ヘンリー が、ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープという芸達者に一歩も引けを取らない演技を見せる。
大人びた発言や行動がたまらなく可愛い。
仕草の可愛さも手伝って、テッド、ジョアンナの元夫婦がビリーを欲しがるのも無理はないというものだ。
ギクシャクしていた父子だったが、よきパパぶりを見せていくダスティン・ホフマンの奮闘ぶりが微笑ましい。
フレンチ・トースト作りでは家事の大変さを象徴的に見せる。
雑貨の買い出しでは母親の子供への影響力をこれまた象徴的に見せている。
僕も孫と食料品の買い出しに行くと「いつもママはこの牛乳を買っている」とか、「こっちの方が安くて美味しい」などとアドバイスされ、母親べったりな関係を微笑ましく感じたものだ。
テッドはそんな気分には浸っていられない切羽詰まった状況に置かれていることを上手く表現しているシーンだ。

テッドの奮闘ぶりが描かれることで妻のジョアンナの登場シーンはなくなっていたのだが、再び登場した時のメリル・ストリープの表情は天下一品だ。
ビリーが通う学校の向かいの店からビリーの姿を眺めているのだが、ビリーを手放してしまった後悔が無言のうちに伝わってくるものだ。
裁判劇でもメリル・ストリープは微妙な心の内を戸惑いの表情を見せながらジョアンナを演じている。
ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープは上手い!
マーガレットのジェーン・アレクサンダーもいい役をもらっていて、ジョアンナの友人というだけでなく、彼女もシングル・マザーとなっていて元夫婦を気遣う良心的な女性である。
彼女の顛末も省くことなく付け加えているのも心温まる。
親権問題で決着がつき物語も最後を迎えるが、ここからの展開とクレイマー一家三人が見せる表情は感動的。
ビリーに会いに行くジョアンナがビリーに告げる言葉を想像しながら、マーガレットが出来たなら、クレイマー夫婦だってできるだろうにと思った。
離婚と親権問題を描いた作品の中では出色の出来だ。

クレイジー・ハート

2019-05-09 07:02:46 | 映画
「クレイジー・ハート」 2009年 アメリカ


監督 スコット・クーパー
出演 ジェフ・ブリッジス  マギー・ギレンホール
   ロバート・デュヴァル ライアン・ビンガム
   コリン・ファレル   ポール・ハーマン
   トム・バウアー    ジャック・ネイション

ストーリー
57歳のカントリー・シンガー、バッド・ブレイクは、かつては一世を風靡したこともあるものの、すっかり落ちぶれて今では場末のバーなどのドサ回りで食いつなぐしがない日々。
新曲がまったく書けなくなり、かつての弟子トミー・スウィートの活躍にも心穏やかではいられず、酒の量ばかりが増えていく。
バッドはショーのため訪れたサンタフェのバーで、バンドのピアニスト、ウェズリーから、彼の姪で地元紙の記者ジーン・クラドックの取材を受けるよう頼まれる。
ショー終了後、バッドはジーンとなりゆきで一夜を過ごすが、しかしジーンは4歳の息子バディを持つシングルマザーで、離婚の痛手から、バッドとの関係を深めるのを躊躇う。
バッドの次の仕事は、フェニックスの巨大スタジアムでのトミーの前座だった。
ショーの後、バッドはヒューストンへ帰る前にジーンに会いに行くと電話をかける。
しかしその直後、居眠り運転で車を横転させてしまう。
ジーンの家で休養し、家庭の温もりに触れたバッドは、元妻との間に28歳になる息子スティーヴンがいることをジーンに打ち明ける。
バッドは長年の付き合いであるバーのマスターのウェインに、ジーンの存在を告白するのだが・・・。


寸評
どん底にあえいでいても、若くはない年齢でも人生をやり直すことはできるのだという映画は作れるのだが、音楽を中心においたこのような映画は中々日本映画に登場しない。
日本映画では撮れそうで撮れない雰囲気の映画だ。
話は単純で、落ちぶれた破滅型の男がシングルマザーの女性記者と知り合って再起を目指すが、愛する女の信頼を裏切ってしまうという傷だらけの再生を描いている。
ストーリーは月並みでベタな演出で目新しさはない。
しかし、それでもこの映画は魅力が満ち溢れている。
しみじみとしたカントリー・ミュージックに主人公の人生が重なり、映画は徐々に熟成していくのだ。
この雰囲気、この展開の作品は日本映画と一線を画しているのだ。

ジェフ・ブリッジスの自然体の演技のおかげで、物語が心にじんわりと染み込んでくる。
疲れた表情、酔った醜態、顔のシワ、ゼエゼエという息遣い、57歳からくる肉体的衰え…。
彼が経験してきた人生の年輪と悲哀を自然体で表現している。
オープニングはさびれたボーリング場でのステージで、かつての栄光にすがりはしないが、自分で車を運転してドサ回りをやっているハードな生活が披露される。
どうやら主人公バドはアル中であるらしいことも示される。
しかし、場末の店などのステージで披露されるバドの歌は味わい深く、早くもこの時点で素晴らしい映画的雰囲気を生みだしていた。

登場人物は善人ばかりである。
いまやスーパースターとなったトミーもすこぶるいい奴で、けっしてバッドから受けた恩を忘れていない。
マネージャーのジャックも口汚くののしりながらもコンサートでは落ちぶれたバッドを気遣う演出を施す。
バドはジーンの息子に自分の別れた息子を重ね合わせて可愛がるが、性根の悪さが出て破局を迎えてしまう。
それでも悲惨な結末という印象を持たないのは、バドを取り巻く彼ら善人の存在と、女性記者役のマギー・ギレンホールの抑制的な演技によるものだったと思う。

挿入されるカントリーミュージックはいいし、ポップスやロックとは違った味わいのある歌声で、音楽映画として十二分に楽しめる。
主人公のジェフ・ブリッジスと、彼の弟子で今や人気絶頂というコリン・ファレルの歌のうまさはこの映画を支えていた(まさか吹き替えではあるまい)。
僕は英語を理解できないのでその歌詞の内容は全く分からなかったのだが、まったく浮き上がることなく心に響いてきた。
ラストシーンはいい。
ジーンの指輪に象徴される僕好みの素晴らしいエンディングで、ここだけはあっさりとした演出が光っていた。
ラストが幸福感に満ちているのは、傷ついてもなお音楽と共にある主人公の再生に感動するからだ。
背景に映るアメリカの大地と夕日が映画に余韻を残していた。

ぐるりのこと。

2019-05-08 06:46:19 | 映画
「ぐるりのこと。」 2008年 日本


監督 橋口亮輔
出演 木村多江 リリー・フランキー 倍賞美津子
   寺島進 安藤玉恵 八嶋智人 寺田農 柄本明
   木村祐一 斎藤洋介 温水洋一 峯村リエ
   山中崇 加瀬亮 光石研 田辺誠一 新井浩文

ストーリー
1993年。
小さな出版社に勤める几帳面な性格の妻・翔子(木村多江)と根は優しいけど優柔不断で生活力に乏しい夫・カナオ(リリー・フランキー)。
ふたりはどこにでもいるような夫婦。
2人は初めての子どもの誕生を控え、それなりに幸せな日々を送っていた。
職を転々とするカナオを、翔子の母・波子(倍賞美津子)、兄・勝利(寺島進)とその妻・雅子(安藤玉恵)は好ましく思っていない。
日本画家を目指しながら靴修理屋でバイトをしていたカナオは、先輩から法廷画家の仕事をもらう。
カナオは法廷画家の仕事に戸惑いつつ、クセのある記者・安田(柄本明)や先輩画家・吉田(寺田農)らに囲まれ次第に要領を掴んでいく。
そんなカナオとの先行きに不安を感じながらも、小さな命を宿した翔子には喜びのほうが大きい。
1994年2月。
寝室の隅には子どもの位牌と飴玉が置かれていた。
ふたりの部屋に掛けられたカレンダーからは「×」の印が消えていて、夫婦関係も途絶えていることがうかがえる。
初めての子どもを亡くした悲しみから、翔子は少しずつ心を病んでいく。
法廷でカナオはさまざまな事件を目撃していた。
1995年7月、テレビは地下鉄毒ガス事件の初公判を報じている。
産婦人科で中絶手術を受ける翔子。
すべてはひとりで決めたこと、カナオにも秘密である。
しかし、その罪悪感が翔子をさらに追い詰めていく。
翔子は次第にうつになっていくが、そんな翔子を静かに見守るカナオ。
1997年10月、法廷画家の仕事もすっかり堂に入ってきたカナオ。
台風のある日、カナオが家へ急ぐと風雨が吹きこむ真っ暗な部屋で、翔子はびしょ濡れになってたたずんでいた。
「わたし、子どもダメにした……」翔子は取り乱し、カナオを泣きながら何度も強く殴りつける。
「どうして……どうして私と一緒にいるの?」そんな彼女をカナオはやさしく抱きとめる。
「好きだから……一緒にいたいと思ってるよ」ふたりの間に固まっていた空気が溶け出していく──。


寸評
2003年からのおおよそ10年に渡る夫婦間の出来事が描かれる。
出来事と言っても大したことはなく、子供を亡くしたこと以外はどこにでもあるようなことが起きているだけである。
しかしこの間に世間では、死刑が執行された宮崎勤による連続幼女誘拐殺人事件やオウム真理教による地下鉄サリン事件、世田谷の幼稚園児殺害事件、宅間守による池田小学校児童殺傷事件など、世の中を震撼させる事件が起きていた。
この精神の異常性が問われる事件はその後も定期的に発生し、秋葉原無差別殺傷事件も起きた。
映画の中では翔子がうつ病になるが、カナオが法廷画家という設定のため、時代の象徴事件を連想させる裁判を再現することで、日本中も"うつ状態"ではないかと問いかけながら、しかしそれでも、たとえどんなにヒドイ世の中でも、一緒に生きていける相手がいれば救われるということを訴えかけているように思えた。
自分の無力を知るカナオは、翔子を決して責めず、ただ そっと寄り添う。
この優しさを至極当然の自然な演技で見せたリリー・フランキーが良い。
木村多江の頑張りもあったが、彼の存在なくしてはこの映画の存在がありえないような出来栄えだった。
ラストでお寺の天上画の下で寝ころがった2人の姿が微笑ましくて心にジワリと染みてきたが、倍賞美津子の母親がカナオに「この子をよろしく頼みます」と頭を下げたシーンもよくて僕は不覚にも涙を流した。
離婚をした自分と違って、一緒にいる理由を叫ぶでもなく、結婚を意味づけるでもなく、周りで起きる事柄を包み込むように、お互いに離れることなく存在し合っている二人への祝福の言葉だったように思えた。
夫婦とはそれでいいのではないかと、それでこそ夫婦ではないかと、別れることなく添い遂げてこそ夫婦なのだと・・・。

狂った果実

2019-05-07 08:54:48 | 映画
「狂った果実」 1956年 日本


監督 中平康
出演 石原裕次郎 津川雅彦 深見泰三 藤代鮎子
   北原三枝 ハロルド・コンウェイ 岡田真澄
   東谷暎子 木浦昭芳 島崎喜美男 加茂嘉久

ストーリー
滝島夏久(石原裕次郎)の弟春次(津川雅彦)は、兄に似ぬ華著な四肢を持ち、まだあどけない“坊や”だった。
女漁りの巧い夏久に比べて、春次は全然女を知らなかったが、或る日、逗子駅ですれ違った娘の瞳に、何故かドギマギして立ちすくんだ。
その日の夕方、友人平沢(岡田眞澄)のサマーハウスで兄弟は友人達とパーティを開く相談を決めた。
皆夫々未知の女性を同伴することに決まると、春次は又もや先刻の娘の姿を思い出すのだった。
翌々日ウォータースキーのレースで夏久と組んだ春次は、思いがけずも仰向けに泳いでいる例の娘天草恵梨(北原三枝)に逢い、彼女を一色海岸まで送った。
やがてパーティの当日、春次は洒落たカクテルドレスを着た恵梨を同伴して現われ、夏久達を驚かせた。
パーティを抜け出た二人は車で入江に走り、春次は生れて始めてのキスを恵梨に受け固く抱きしめた。
一週間後、夏久は横浜のナイトクラブで外国人と踊る恵梨の姿を見た。
彼は春次に黙っていることを条件に、彼女と交渉を持つようになる。
恵梨は春次の純情さを愛する一方、夏久の強靭な肉体にも惹かれていた。
だが、やがて恵梨の兄弟への愛情の均衡も破れ、彼女は夏久の強制で春次との待ち合せを反古にした。
平沢から恵梨と夏久に関する総ての出来事をぶちまけられた春次は、憑かれたようにモーターボートで二人の後を追った。
早朝の海の上、春次は夏久と恵梨の乗ったヨットの周囲を乗り廻しながら、無表情に二人を眺めていた。
夏久は耐えられなくなり思わず「止めろ、恵梨はお前の物だ」と叫ぶなり彼女を弟めがけて突きとばした。
その瞬間舳先を向け直した春次のモーターボートは恵梨の背中を引き裂き、夏久を海中に叩き落してヨットを飛び越えた。


寸評
逆光の中をモーターボートが突っ込んできて、そしてタイトルが出て音楽がかぶさるファーストシーンがこの映画すべての雰囲気を醸し出している。
太陽族映画の第2弾として、執筆中の「狂った果実」を作者の石原慎太郎が許諾する条件としたのが、第一作の「太陽の季節」で異彩を放った弟の裕次郎を主演にすることだった。
石原裕次郎、津川雅彦、北原三枝というフレッシュな配役で、メロドラマ的なストーリーを斬新な映像で一気に描き切っている。
登場する若者たちは日常会話の延長で、おおよそ芝居らしくなく早口言葉でまくしたてる。
彼等を大人の権威や世間体を気にもかけない新しい世代の代表として浮き彫りにしているが、それはとりもなおさず原作者の石原慎太郎がこの頃追い求めていたテーマそのもので、それを見事に映像化している。
合成シーンに稚拙な部分を感じるけれど、早いカット割りと暗闇に浮かぶシルエット、時折差し込む光やライトの陰影が奇妙な空気と退廃的な雰囲気を生み出して印象的だ。

兄弟で一人の女を取り合うだけの話で、中身に深く切り込んで描いているわけではない。
当時太陽族と呼ばれた若者たちの無軌道な生活ぶりを活写した風俗映画にすぎない。
そもそも恵梨という女がよくわからない。
20歳にして外国人の亭主もちだが、夜な夜な遊び歩いている風でもある。
経験できなかったことを今しているのだと純真な春次に惹かれるが、一方で野性的な夏久とも関係を持つ。
留守がちな亭主に不満なのか、青春を謳歌してこなかったことへの不満なのか、はたまた単なる浮気性の女であるためにそうした行動を取っているのか全く分からない。

それに比べると夏久と春次の関係は濃密に描かれる。
良家のお坊ちゃまである二人は仲が良く、夏久は弟の春次を可愛がっているし、春次は兄の夏久を慕っている。
いつも連れ立っているようで、ヨット遊びも二人でやるし、春次は兄の友人のたまり場に出入りしている。
一人の女の登場でそんな二人の関係に亀裂が生じていく。
同じ女性を愛したことで兄弟から恋敵となったのだ。
途端に兄は弟に邪険になるし、荒々しく女性に近づいていく。
女性に対する態度は対照的で、春次は純情なだけに兄よりも一途だ。
その一途さは兄と恵梨の乗るヨットに向かわせ、悲劇的な結末を迎えることになる。
一途な思いと、どうしていいのか分からない苛立ちを表すように、春次の運転するボートがヨットの周りをグルグル回るショットがいい。
波間に消え去っていくボートを写したラストシーンも絶望を表すいいショットだ。
夏久が無理やり恵梨にキスするシーンも印象に残るものとなっていた。
低予算を感じさせる安っぽい作りなのに、なにかしらギラギラしたものを感じさせる作品だ。
どこをどう担当したのか知らないが、 佐藤勝と武満徹が受け持った音楽もなかなかいい。
少なくとも主題歌は佐藤勝の作曲で、作詞は石原慎太郎である。
裕次郎がその主題歌を歌うシーンもあって歌手石原裕次郎はこの後数々のヒット曲を世に送り出した。

グリーンマイル

2019-05-06 14:08:18 | 映画
「グリーンマイル」 1999年 アメリカ


監督 フランク・ダラボン
出演 トム・ハンクス デヴィッド・モース ボニー・ハント
   マイケル・クラーク・ダンカン ジェームズ・クロムウェル
   マイケル・ジェッター グレアム・グリーン ダグ・ハッチソン
   サム・ロックウェル バリー・ペッパー ジェフリー・デマン

ストーリー
大恐慌下の1935年。ジョージア州コールド・マウンテン刑務所の看守主任ポールは、死刑囚舎房Eブロックの担当者で、部下は副主任のブルータルはじめ頼れる連中ぞろいだが、州知事の甥である新人パーシーだけは傍若無人に振る舞う。
そんなある日、ジョン・コーフィなる大男の黒人がやってきた。
幼女姉妹を虐殺した罪で死刑を宣告された彼は、手を触れただけで相手を癒すという奇跡の力を持っていた。
彼はポールの尿道炎を治したのを皮切りに、パーシーに踏み潰された同房のドラクロアが飼っていたネズミのミスター・ジングルスの命を救った。
ドラクロアはその翌日処刑されたが、パーシーは残酷にも細工をして彼を電気椅子で焼き殺した。
コーフィの奇跡を目の当たりにしたポールらはパーシーを拘禁室に閉じ込めてコーフィをひそかに外へ連れ出し、刑務所長ムーアズの妻で脳腫瘍で死の床にあったメリンダの命を救わせた。
房に帰ったコーフィは、拘禁室から解放されたパーシーをいきなりつかまえるや、メリンダから吸い取った病毒を吹き込むと、パーシーは厄介者の凶悪犯ウォートンを射殺し、そのまま廃人になった。
ウォートンこそ幼女殺しの真犯人だったのだ。
ポールはコーフィに手をつかまれ、彼の手を通じて脳裏に流れ込んで来た映像で真実を知った。
ポールは無実のコーフィを処刑から救おうとするが、彼は「全てを終わらせたい」と自ら死刑を望み、最後の望みとして映画「トップ・ハット」に見入ってから死に赴いた。
コーフィが与えた奇跡の力でポールは108歳になっても健康に生き続け、ミスター・ジングルスも60年以上生き続けていた。


寸評
ファンタジー作品だが、ファンタジーが前面に出た作品ではない。
死刑囚である大男のコーフィが奇跡の力を有しているのだが、それを発揮するのは話がかなり進んでからである。
しかもそれは尿道の感染症に悩んでいるポールのタマタマをつかんで直してやると言うものだ。
ポールは排尿の時に相当傷みを感じているようだが、悩んでいる病気が微妙なもので滑稽だ。

ポールが勤務しているのは死刑囚を収容している官舎であるが、ポールと仲間の看守たちは死刑囚に対しても普通の人間として接している。
普段の彼等は非常にもの静かで、彼等の死刑囚への接し方で官舎の秩序を維持しているのだが、その秩序を壊す者が二人いる。
一人はパーシーという州知事夫人の甥で、その縁故をひけらかして傍若無人に振舞っている。
「冷酷で不注意でバカと3拍子揃っている」とポールに評されているどうしようもない若造である。
何かというと「叔母に言いつけて失業させてやる」を口癖みたいに言う嫌な奴だ。
精神病院の事務職に代わる予定だが、一度自分で死刑を執行してみたいのでここに留まっている。
ポールたちはこの男に手を焼いているが、自分の首もかかっているために無茶なことが出来ない。
善良な看守たちばかりが登場するので、パーシーが悪役を一手に引き受けている展開が続く。
そして、もう一人の秩序破壊者が新しくやって来た死刑囚のウォートンである。
彼もまた囚人として傍若無人な振る舞いを繰り返し、看守をはじめ他の死刑囚からも嫌われている。
二人が何度も問題を引き起こし、それが描かれ続けるので飽きてきそうなものだが、そうはならなくてその行動描写に引き込まれるものがあって、3時間という上映時間が気にならない。

コーフィは何度も奇跡を起こすのではなく、人を見抜いたり予見したりと超能力を度々見せるが、神秘の力を発揮するのは限られている。
一度は前述のポールの持病を治し、一度は死んだはずのネズミのジングルスの命を救ったことだ。
そして今一度は所長の奥さんメリンダを脳腫瘍から救ってやったことで、このくだりはなかなか感動的だ。
実行する看守たちの描き方も家族構成などを語らせ手が込んでいる。
最大の奇跡はポールとジングルスにパワーを移植したことだ。
その為にポールとジングルスは長生きをすることになる。
しかしポールはそれも罰だと思っていて、コーフィを救えず死刑にしたことの罰を受けているのだと考えている。
長生きすることで、自分の親しかった人たちは自分より早く逝ってしまい、結局自分一人が残ってしまう。
その孤独こそが神が自分に与えた罰なのだと思っている。
命は惜しいし死ぬのは嫌だが、だが永遠の命も又淋しさをもたらすものなのかも知れない。
人は人として与えられた時間で一生を終えたほうが良いのだろう。
コーフィの電気椅子場面は泣けた。
彼を恨んでいる人たちの誤解による憎しみを一身に受けても弁解することはしない。
しかし彼の人となりを知る看守たちからは感謝と悲しみの気持ちを送られる。
僕も悲しい気持ちになったが、ジングルスのエピソードが救ってくれた。

クリーピー 偽りの隣人

2019-05-05 14:00:18 | 映画
「クリーピー 偽りの隣人」 2016年 日本


監督 黒沢清
出演 西島秀俊 竹内結子 香川照之 香川照之
   川口春奈 藤野涼子 戸田昌宏 馬場徹
   最所美咲 池田道枝 佐藤直子 笹野高史

ストーリー

東洛大学で犯罪心理学を教える大学教授の高倉(西島秀俊)は、高校の同窓会でおよそ30年ぶりに再会した警視庁捜査一課の警部・野上誠次(東出昌大)と改めて会う。
彼は最近、殺人事件の時効撤廃によって改めて捜査態勢を見直すことになった8年前の日野市一家三人行方不明事件の専従を命じられ、その事件の生き残りである本多早紀(川口春奈)の証言に信憑性があるかどうかを高倉に判断してほしいと依頼してきたのだった。
高倉の隣の家には西野昭雄(香川照之)という中年男性が中学生くらいの娘・澪(藤野涼子)と住んでいた。
しかし高倉の妻・康子(竹内結子)は以前から西野が娘を見る目つきがおかしい、最近は夜中に泣き声が聞こえる気もすると気にしていた。
野上の本当の目的は西野を探ることだったのか?そんな高倉の疑問を裏付けるかのように、数日後、高倉の研究室を訪れた警視庁所属の谷本刑事(笹野高史)によって、高倉の家を訪問した後に野上が行方不明になっていることを知らされ、その後、田中母娘の家が火事になり、焼け跡から頭を拳銃で撃ち抜かれた田中母娘の遺体と、野上の遺体が発見される。
ある日の夜中、高倉家に「あの人は本当の父親ではない」と訴え逃げ込んできた澪を包丁を持って追いかけてきた西野の様子は明らかに常軌を逸していたので警察を呼ぶが、未成年者略取だと西野が訴えたため、逆に高倉たちが警察に事情を聞かれるはめになってしまう。
自宅に戻った高倉を待っていたのは、片脚を切り落とされた女性の遺体だった。
遺体は澪の母親・信子のものであると判明し、パソコンには「プレゼント」というタイトルで「これ以上首をつっこむな」という警告メールが送られてきていた。
西野と澪はそのまま行方知れずとなったが、野上の元妻である河合園子から高倉の元に手紙が届く。


寸評
高倉夫妻は引っ越してくるのだが、引っ越し先の近所の住人は変な人たちばかりで、これだから僕は引っ越しが億劫になってくるのだ。
僕はたった一度の引っ越し先にもう50年も住んでいるが、その場所も親戚の家の近くで近所の人たちの気心が分かっていたところだし、描かれたようなわずらわしい人たちはいなかったのは幸いであった。
回りの土地が開発され新しい住人が引っ越してきたが、その人たちも気のよさそうな人たちで近所付き合いに問題が起きなくてよかった。
西野という反社会的精神病、いわゆるサイコパスを描いているが、一方で僕は近所付き合いの難しさも感じた。
高倉の妻・康子はご近所と親しくなろうと努力しているが、彼女の行為は余り物のシチューを届けたりやり過ぎの感がある。
ましてやその相手は西野と言う変人の男なのにである。
この男、登場した時から変人を思わせているのだが、香川照之はこんな役をやらせると抜群の不気味さを出す。
物語の性格上、西野が日野市一家三人行方不明事件に絡んでいること、おそらくその犯人が西野であることは分かっているのだが、野上が西野の顔写真を確認した時点ではっきりする。
分かっていながらも「やはり、そうだったのだ」と思わせる演出は上手いし、そのあと野上を全く登場させない演出も心得たものである。

西野が使用している薬物はマインドコントロールの象徴かもしれない。
康子が西野の言いなりになっていく経緯は分からないが、注射の痕を見ると完全に西野の支配下にはいっていることが推測される。
そして西野の意のままの行動を取る。
その結果として高倉は薬物を打たれてしまうのだが、彼は西野の支配から逃れている。
サイコパスの西野と犯罪心理学に通じている高倉の対決において、高倉の知識と精神力が西野に勝ったという事だろうか。
それでもこの作品においては西野の香川照之の存在が圧倒している。
サイコパスはよく寄生虫のごとく他人の金銭、または個人の私益を利用しようとするらしいが、そのような側面も冷徹に描き込んでいる。
日常に起こる思いがけない状況にイラついたり、威嚇したり、怒ったりして自身の感情を制御するのができないとも言われていて、それを表現する香川照之自身がサイコパスではないかと思わせる。
恐ろしいまでの役者魂を感じさせる。
調べてみると、サイコパスは他者の感情を完全に無視するので、ただのウソの中でも特にずる賢こく人を操ろうとして、自分たちの思い通りにするために、巧妙な作戦を使って嘘をつき、人を騙してペテンにかけるという特徴も有しているらしい。
脚本はそのような特徴を巧みに練り込んでいるが、それを具現化している香川が兎に角スゴイ。
そして僕は黒沢清としての映画を感じ取ることが出来た。
有りそうでないのが作家としての作品という中にあって、「クリーピー 偽りの隣人」は間違いなく黒沢清ワールドだった。

グラン・トリノ

2019-05-04 10:13:01 | 映画
「グラン・トリノ」 2008年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド ビー・ヴァン
   アーニー・ハー クリストファー・カーリー
   コリー・ハードリクト ブライアン・ヘイリー
   ブライアン・ホウ ジェラルディン・ヒューズ

ストーリー
フォードの自動車工を50年勤めあげたポーランド系米国人、ウォルトは、愛車グラン・トリノのみを誇りに、日本車が台頭し東洋人の町となったデトロイトで隠居暮らしを続けていた。
頑固さゆえに息子たちにも嫌われ、限られた友人と悪態をつき合うだけの彼は、亡妻の頼った神父をも近づけようとしない。
ウォルトを意固地にしたのは朝鮮戦争での己の罪の記憶であり、今ではさらに病が彼の体を蝕んでいた。
その彼の家に、ギャングにそそのかされた隣家のモン族の少年タオが愛車を狙って忍び込むが、ウォルトの構えた銃の前に逃げ去る。
その後なりゆきで、タオやその姉スーを不良達から救ったウォルトは、その礼にホームパーティーに招いて歓待してくれた彼ら家族の温かさに感じ入り、タオに一人前の男として仕事を世話してやる。
だが、これを快く思わないモン族のギャングが、タオにさらなる嫌がらせを加えた。
顛末を聞いて激昂したウォルトはギャングに報復するが、一矢報いるべくギャングはタオの家に銃弾を乱射し、スーを陵辱する。
復讐の念に燃えるタオと、それを止めようとするウォルト。
報復の連鎖に終止符を打つべく、ウォルトはある策を胸に、ひとりでギャング達の住みかに向かう。


寸評
差別用語がバンバン飛び出しとても日本では作れないような会話が飛び交う。
その会話のやり取りがウォルトの性格を表していて小気味よい。
ハリー・キャラハンとしてマグナム35をぶっ放して正義を示したのが僕にとってイーストウッドとの最初の出会いだったが、最後の主演作といわれるこの作品では全く違った正義を示してその間の歳月を感じさせた。
アジア系の人間を描いているのはアカデミーの作品賞意をとった「スラムドッグ$ミリオネア」と同じだが、むしろこの作品の方が出来がよく、これがアカデミー賞で話題に上らなかったのは不思議だ。

ウォルトは子供たちからも煙たがられていて、二人の子供が彼の最後の後始末をどうするかということを母親の葬儀の場で言い合う始末。
ウォルトは、毒舌家で偏見に満ちてはいるが悪い人間ではなく、昔気質の価値観を持つ典型的なアメリカ人だ。
前半は偏屈な白人の老人とシャイなアジア系少数民族の少年との世代と人種を超えた友情が軽やかに描かれ、笑いが絶えない。
自分の進むべき道が分からないタオに"男の生き方"を教えることは、人生の最終章を迎えたウォルトにとっても喜びとなる。

生と死が神父との間で語られるが、ウォルトにとって自分の生とは何だったのかの疑問がある。
よき理解者であったであろう妻を亡くして、なおさらその事を感じたのではないか。
嫌っていたはずのモン族の連中にたいして「身内の人間よりよほどこの連中のほうが良いと」つぶやくのはその気持ちの表れだったと思う。
祈祷師に自分の気持ちを言い当てられ、彼等の方が自分のことを理解していると感じたのだろう。
ウォルトは朝鮮戦争を経験していてその悪夢を背負って生きている戦争犠牲者である。
タオやスーの家族はベトナム戦争で米軍に味方したために、共産党支持者の報復をおそれアメリカに移住してきたのでやはり彼等も戦争の犠牲者である。そんな共通の過去が彼等を結びつけたのかもしれない。
最後は想像がつくが、彼はその事で生を取り戻したのだと思う。
イーストウッドの役者としての遺書映画と見れば納得できたが、もう少し感動を期待したのも事実。
結局、家族との雪解けもなかったし、大事なグラン・トリノを譲ってもらったタオの喜びの気持ちがすんなりと入ってこなくて、少し気の抜けたエンディングだった。

息子はトヨタの車を売っている。一方のウォルトはいまや凋落の一途のフォードの車を大事にしている。
ビーフジャーキーよりモン族の料理の方が美味しいことも描かれる。
アジア系の住民を嫌っているが彼もポーランド系で、我々から見れば移民国家のアメリカでは同じではないかと思える。そんなユーモアもあって、良い点をあげると内容的に重くなっていないのがよい。
かつて「ダーティハリー」で銃を武器に不正を打ち砕いたイーストウッドが、こういう形の結末を描いたのは時代の変化を感じさせると同時に、より強い説得力が感じられる。
イーストウッドは監督としての力量が素晴らしくて作品に大きなハズレがないのがよい。
安心して作品を見に行ける数少ない監督である。

グラディエーター

2019-05-03 08:07:24 | 映画
「グラディエーター」 2000年 アメリカ


監督 リドリー・スコット
出演 ラッセル・クロウ ホアキン・フェニックス
   コニー・ニールセン オリヴァー・リード
   リチャード・ハリス デレク・ジャコビ
   ジャイモン・フンスー デヴィッド・スコフィールド

ストーリー
西暦180年。ローマ帝国の治世。
歴戦の勇士として名声を馳せる将軍マキシマス(ラッセル・クロウ)は、遠征先のゲルマニアの地で、時の皇帝マルクス・アウレリウス(リチャード・ハリス)から次期皇帝の座を託したいと要請を受ける。
だが、これを知った野心家の皇帝の息子コモドゥス(ホアキン・フェニックス)は、老父をひそかに殺して自ら後継者を宣言、マキシマスは処刑を命じられた。
処刑者の手を逃れたマキシマスだが、故郷に帰り着くと愛する妻と息子は惨殺されていた。
絶望と極度の疲労の末に倒れた彼は、気づけば奴隷商人に捕らわれの身に。
剣闘士を養成する奴隷商人プロキシモ(オリヴァー・リード)に買われたマキシマスだが、持ち前の技量で一躍剣闘士として頭角を現す。
いっぽう、皇帝となったコモドゥスは元老院の反対を無視し、首都ローマの巨大コロシアムで剣闘試合を開催。
プロキシモに連れられ、図らずもローマへ帰還したマキシマスは、死闘の果てに勝利をおさめ、仇敵たる皇帝コモドゥスと対面を果たす。
その夜、かつて恋仲だったコモドゥスの姉の王女ルッシラ(コニー・ニールセン)の訪問を受けるマキシマス。
コモドゥスはルッシラの息子ルシアスを亡き者にしようとしており、彼女はそれを阻止するため、彼に協力を求めたのだ。
姉の裏切りを察知したコモドゥスは策を弄した末、コロシアムでマキシマスと直接対決。
かくしてマキシマスはコモドゥスを倒し、自らも果てるのであった。


寸評
古代史を題材にした作品は数多作られてきたが、この年代の作品の中では出色の出来だ。
時は五賢帝最後の皇帝アウレリウスの時代で、マキシマスは架空の人物であるが本当にいたような錯覚に陥る。
モデルはマクシミリアヌスだとされているが、僕はむしろシリア属州総督のアヴィディウス・カシウスを想像する。
カシウスはアウレリウス病死の誤報を聞いて、後を継ぐのは息子のコモドゥスではなく自分だと皇帝宣言をして謀反を起こしたが3か月後にほろぼされた。
アウレリウスは4人の息子を亡くしていたのでコモドゥスを後継に指名したが、彼の12年に及ぶ治世は「ローマ帝国の災難」と評されるくらいだから悪帝の一人だったに違いない。
アウレリウスがコモドゥスを評価していなかったことは史実通りのようだが、映画はドラマ的に愛されたマキシムと愛されなかったコモドゥスという構図を生み出している。

冒頭から見せる。
辺境の地へ遠征中のローマ帝国軍が蛮族と呼ばれた相手と死闘を演じるが、当時の最新兵器を駆使した彼等は武力でも勝り敵を全滅させる。
ローマ軍は平地戦を得意としていて、数を頼りに攻めてきたとされる蛮族との戦いとは様相が違うがそれでも当時の戦闘をうまく再現していたと思う。
実際の戦闘もこのようなものだったと想像すると、島国の日本が弥生時代だったことを思えば彼等の先進文明に驚いてしまう。
皇帝アウレリウスは後継者にマキシマスを指名したいと漏らすが、息子のコモドゥスによって殺害されてしまう。
この父親殺しのシーンは迫力ある演出だったし、マキシマスの家族が殺される場面も悲劇や憎しみを無理強いするものでない上手い描き方だったと思う。
コモドゥスが「お前も父を愛し、私も父を愛した。だから我々は兄弟だが、お前は父から愛された」というのは今の世の兄弟においても引き起こされる兄弟の確執の構図そのもので胸が痛い。

ここからは第二部とも思える剣闘士(グラディエーター)としてのマキシマスが描かれる。
人よりも動物の値段の方が高いという奴隷状況が描かれ、マキシマスは地方から剣闘士としての名声を高めていくのだが、それはまるで演歌歌手が地方巡業からのし上がってくるような感じだ。
マキシマスは首都ローマの巨大コロシアムでの剣闘試合に登場し、かれはローマ市民から喝さいを受ける人気者となりコモドゥスはマキシマスを殺すことが出来ない。
なんとか抹殺しようとするコモドゥスに姉のルッシラが絡んでいく展開は見るものを引き付ける。
コモドゥスは、「父が望んだようにマキシマスが皇帝についていたら帝国は崩壊しただろう」と述べるが、当時の状況からすれば実力者と言うだけでマキシマスのような男が皇帝に就けば、おそらく内乱が起こって帝国は崩壊に向かって行っただろうから、コモドゥスの読みもまんざらでないと思う。
コモドゥスは自らの名声を高めようと卑怯な手を使ってマキシマスとの剣闘士試合を行う。
剣闘士皇帝と称されるくらい剣闘士試合が好きだったらしいが、映画ではマキシマスを含めてほぼ予想通りの結果となるが、史実のコモドゥスは31歳の若さで入浴中を暗殺されている。
それでも、本作は歴史絵巻としても十分に鑑賞に堪えうる作品だと思う。

クラッシュ

2019-05-02 09:46:58 | 映画
「クラッシュ」 2004年 アメリカ


監督 ポール・ハギス
出演 サンドラ・ブロック ドン・チードル マット・ディロン
   ジェニファー・エスポジート ウィリアム・フィクトナー
   ブレンダン・フレイザー テレンス・ハワード
   クリス・“リュダクリス”・ブリッジス タンディ・ニュートン
   ライアン・フィリップ ラレンズ・テイト ノーナ・ゲイ

ストーリー
クリスマス間近のロスで黒人二人組・アンソニーとピーターは地方検事のリック夫妻の車を盗んだ。
白人警官のライアンは、黒人のTVディレクター・キャメロン夫妻が乗った車を強制的に停め、権力を使って屈辱を味あわせ、妻のクリスティンはライアンを憎悪し、夫との間には溝が出来た。
一方ライアンの相棒で若いハンセンはライアンに嫌悪感を覚えた。
ペルシャ人の雑貨店主ファハドは、黒人ダニエルに鍵を直させるが口論になった。
パトロール中のライアンが交通事故現場に駆けつけると、被害者はクリスティンだった。
別の場所で車がパトカーに停止させられ、乗っていたのはキャメロンだ。
警察への憎悪に駆られたキャメロンはあわや射殺されそうになるが、それを助けたのはハンセンだった。
ファハドは再び強盗の被害にあうが、保険会社は保険金を払えないといった。
ダニエルを逆恨みしたファハドは射殺しようとするが、間に入ったダニエルの娘を撃ってしまう。
しかしファハドの娘が拳銃に空砲を入れていたので娘は無事だった。
ピーターがヒッチハイクすると運転手はハンセンで、行き違いからハンセンはピーターを射殺してしまう。
黒人刑事グラハムが事故に巻き込まれ、偶然近くで発見された死体は探していた弟・ピーターだった。
アンソニーが盗んだ車の荷台に大勢のアジア人が身を潜めていたが彼は一同を街中に開放した。
その横では今日も異なる人種の人々が車をクラッシュさせ、怒鳴りあっていた。


寸評
すばらしく練り上げられた脚本の群像劇だ。
群像劇というと、登場人物が入り乱れてゴチャゴチャしたり、一つ一つのエピソードが薄っぺらくなりがちだが、これはかなり完成度の高い作品となっている。
登場人物が微妙に絡んでいるのだが、それが劇的に交わるでもなく微妙に絡むのがいい。
底辺に流れているのが人種差別と偏見である。
日本人である僕はアメリカ社会にはびこる個人差別を体感しているわけではないが、白人社会にある黒人差別と黒人を初めとするマイノリティーたちの被害者意識は、部外者である僕が見ていても伝わってきた。

登場するのは、地方検事夫妻、TV番組のディレクター夫妻、車を奪った犯人とそれを追う警察官たち、鍵屋の男、移民の雑貨屋店主とその家族などだが、どれもが暗くて重い内容である。
検事のリック夫妻は黒人二人に車を奪われ、妻のジーンは防犯に過敏となりドアのカギを付け替えるが、その作業者が黒人なので合鍵を強盗に渡すのではないかとさえ言い出す始末で、夫との関係もおかしくなる。
ディレクターのキャメロンは警官に呼び止められ、妻のクリスティンは警官のライアンにセクハラを受ける。
それをどうすることもできなかった夫を軽蔑し、夫婦関係にひびが入ってしまう。
鍵屋の男は家族思いで娘におとぎ話を聞かせて可愛がっているのだが、訪問した雑貨店主から暴言を浴びせられ、その腹いせに店を無茶苦茶にしてしまうが、もしかすると濡れ衣だったかもしれない。
雑貨店主はペルシャ人で、アラブ人と間違えられたりしてうんざりし銃砲店で護身用の拳銃を買う。
かなり被害者意識が高くなっていそうだが、何とか娘がとりなしている。
それにもかかわらず、店主は財産を失った恨みから鍵屋を殺そうとする。
黒人刑事のグラハムは白人警官が黒人警官を射殺した事件で、窃盗犯として逮捕状が出た弟の釈放と引き換えに不本意な決定を強いられる。
登場人物はどこかに欠点を持つ、いや非常に悪感情を抱かせる者たちばかりだ。
しかし善と悪を併せ持つのが人間の本来の姿なのだとでも言いたいのか、それまで悪行を重ねてきた登場人物がわずかな善意を見せていく。

クリスティンは自動車事故に巻き込まれ、横転した車に閉じ込められている。
救出にきた警官がセクハラをしたライアンだと判り、かたくなに接触を拒否するがガソリンに引火しそうなことを知って身を任せたところ、ライアンは死を前にしながら決死の救出を行い、助け出したところで車は大爆発を起こす。
クリスティンはライアンに複雑な表情を見せる。
ジーンはある日階段から落ちて身動きできなくなるのだが、親友と思っていた白人女性は助けてくれない。
助けてくれたのは普段見下していた黒人のメイドで、ジーンは彼女にあなたは親友だと告げる。
ライアンのセクハラを見たトムは相棒の解消を願い出て一人でパトロールしているのだが、ある日その時の被害者であるキャメロンが警官に射殺されそうなところを救ってやる。
しかし、その彼も…という複雑なものだが、全体としては複雑に絡み合っていくが難解なものではない。
人持つの善と悪の側面が巧妙に描かれていき、ペルシャ人店主が放つ銃弾の結末、ライアンのとった行動は人間の善の部分の光明を感じさせた。