おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ヌードの夜

2019-12-16 10:37:04 | 映画
「ぬ」に入りますが、思いつく作品は「ヌードの夜」シリーズだけでした。

「ヌードの夜」 1993年 日本


監督 石井隆
出演 竹中直人 余貴美子 根津甚八
   椎名桔平 清水美子 岩松了
   小林宏史 田口トモロヲ
   室田日出男

ストーリー
広瀬(小林宏史)にプロポーズされた名美(余貴美子)は、ホストクラブの支配人行方(根津甚八)との腐れ縁を立ち切るためにある計画を思いついた。
まず、身元を偽って、“代行屋”紅次郎(竹中直人)を訪ね、都内の高級ホテルに帰った後、行方を部屋に招き入れて殺害する計画だった。
しかし、隠していたナイフを行方に見つけられてしまい、さんざん殴られ、犯されることになってしまった。
殺意が頂点に達した名美は、彼をシャワー室で刺し殺しす。
何も知らない次郎は、次の日、ホテルに行き、行方の死体を見つけた。
旅行バッグに死体を入れ、いったんは事務所まで運び込んだものの、翌日には、名美の勤務先をつきとめ、バッグごと死体を返すのだった。
名美は遠く離れた森の中に死体を埋めようとするがうまく行かず、結局死体を部屋に放置する。
名美のアパートを訪ねてきた行方の弟分、仙道(椎名桔平)は、死体を見つけ怒り狂う。
名美を助けるために、次郎は拳銃を手に入れ、仙道の指を吹き飛ばした。
名美は、行方が好きだったことを次郎に告げると車ごと海へ身を投げ、車には行方の死体も入っていた。
次郎は名美を救出するが、彼女は次郎の前から姿を消した。
名美は仙道のところへ行き、自首するつもりだと述べた。
そのとき追い詰められ錯乱した借金取りの志村(岩松了)がやってきて、二人を撃つ。
一方、次郎が部屋を掃除していると名美がやってきて、二人はその夜初めて結ばれたのだが・・・。


寸評
暴力シーンも多いが迫力ある画面とスタイリッシュな映像が圧倒してくる作品だ。
僕などはタイトルが出てきたところで虜になってしまった。
オマケに出演者がなかなか魅力的である。
竹中直人は滑稽さを交えながらシリアスな演技をしており新鮮である。
本作がデビュー作だった椎名桔平がキレキレの若い衆を演じて存在感を出している。
成熟した女性の魅力があふれた余貴美子が悪女として妖艶である。
すぐに消え去る根津甚八だが、兄貴と慕う椎名桔平との関係がユニークな設定となっている。
どうやら椎名桔平は女に興味が持てない男の様で、根津甚八とは同性愛の関係だったのかもしれない。
だとすれば根津甚八は両刀使いと言うことになる。
行方が分からなくなった兄貴分の根津甚八を探しに来て、竹中直人に殴る蹴るの暴行を加えたあと立ち去る時に、竹中が預かっている子犬に気づき「お前も拾われたのか」と優しく撫でているから、椎名桔平も根津甚八に拾われた過去があるのかもしれない。

余貴美子の名美と根津甚八の行方の関係も摩訶不思議な関係である。
名美は結婚しようとした男性が何人かいたようだが、そのたびに行方によって邪魔をされている。
行方に暴力的支配を受けて貢がされている名美だが、志村と結婚するために行方を殺す。
しかしどこかで行方を愛しているようなことを次郎に打ち明けているし、行方も屈折した愛情で名美を愛していたのだろう。
名美が結婚しようとした広瀬もなにか胡散臭い男で、名美は男運に見放された女だ。
広瀬がたたきつけたバラの花びらが一面に散らばっているシーンなどはゴージャスだなあと感じる。
証券マンをやめている次郎と言い、バブル崩壊直後を感じさせる演出だ。

しかし、この映画最大の疑問は、死体を発見した竹中直人がなぜ警察に連絡しなかったのかだ。
竹中が麻薬を打っているとかだったら別だけど、呼び出された電話の録音も残っているのだし普通だったら「部屋にやってきたら死体がありました」と通報するだろう。
もっとも映画はそんな疑問をいだき続けるほどの余裕を与えず進んでいく。
そのテンポと迫力が観客を魅了する。

最後の余貴美子は幻想だったのだろうか、亡霊だったのだろうか?
優しくしてくれた竹中に感謝するために現れた亡霊だったとしたらメルヘンだなあ。
隠し事のない素(ヌード)の二人は結ばれ、名美はベッドに血痕を残し消えてしまった。
直前で余貴美子が撃たれる場面があるが、あれも亡霊の仕業とすれば海に飛び込んで助けられた余貴美子だったが、実はあの時すでに死んでいたとか・・・。
社会の裏側を彩どる音楽と小道具に囲まれながら艶めかしいストーリーを織りなしてきたが、最後にメルヘンの世界を描いたのだと僕は感じた。

人情紙風船

2019-12-15 09:46:57 | 映画
「人情紙風船」


監督 山中貞雄
出演 河原崎長十郎 中村翫右衛門 霧立のぼる
   山岸しづ江 中村鶴蔵 板東調右衛門
   市川楽三郎 山崎長兵衛 

ストーリー
良く晴れた日、江戸の貧乏長家に浪人の首吊りが発生、役人が調査に訪れる所から物語は始まる。
どこか落語の登場人物を思わせる長家の連中、大家を焚き付けて酒を確保、通夜でおおいに盛り上がる。
そんな長家に住んでいる、これまた貧乏浪人の海野又十郎は妻にせかされ、毎日、江戸勤めになったかつての父の知人に近付こうとするが、いつも体よくあしらわれてしまう。
毎日のように接近を試みるが、ある雨の日、とうとう、二度と姿を見せるなと引導を渡されてしまう。
一方、又十郎の隣に住む髪結いの新三は金に困り、髪結いの道具を質屋の白木屋に持ち込むが相手にしてもらえない。
又十郎が引導を渡された同じ雨の日、傘を持たず一人雨宿りをしていた白木屋のまな娘、お駒と出会った新三、彼女を自分の長家に連れて帰ってしまう。
そんな事情を知った白木屋は、源七らを使って、長家にお駒を引き取りにくるが、当のお駒は、妻が外出中だった隣の又十郎の部屋に隠されており、新三は啖呵を切って源七らを追い返してしまう。
その後、大家の計らいで、お駒は無事白木屋へ帰され、大家と新三は50両の大金を得て、その夜またまた長家仲間と共に祝宴をあげる事に…。
飲めない酒を飲んで帰宅した叉十郎がかどわかし事件に加担した事や仕官に失敗した事を知った妻がとった行動は…。
また、酒宴が盛り上がる中、源七に呼び出された新三に待ち受けていた運命は…。


寸評
現代にも通じる小市民の悲哀を描いた傑作で、山中貞雄は「人情紙風船」が最後の作品とは残念だと語っていたらしいが、確かに痛快な内容には程遠い暗くて悲しい物語だが、それでも時代を考慮すれば称賛に値する。
海野又十郎(河原崎長十郎)は、いわば失業中で父親の縁故を頼って就職活動をしている。
しかし海野はどうも頼りなげで、かつて海野の父親に世話になった毛利三左衛門(橘小三郎)は海野又十郎の泣きつきを迷惑がっている。
毛利は海野のことより自分の出世が大事な男で、家老の息子と白子屋の娘お駒(霧立のぼる)の縁談をまとめて家老に取り入ろうとしている。
出世欲が強い人間はいつの時代にもいるものだが、一方の海野も気の弱そうな男で、毛利に媚びいるように再就職を願う姿は見ていられない。
おまけに女房おたき(山岸しづ江)にはいい顔をしようと嘘で固めた言い訳をする情けない男である。
夫としてのプライドから、妻に対して会社での立場をよく見せようとするのも心当たりのあることだ。
僕などは賞与が現金支給だったころ、妻にいい顔をするために金額を増額して持ち帰っていた人を知っている。
海野は毛利にあしらわれていることを隠して、上手くいっているように取り繕っている。
最後には渡すことが出来なかった父の手紙を、毛利様は読んでくださっているだろうからと言っている。
リストラにあった男が、その事実を妻に告げられず相変わらず勤めているふりをして職探しをする事を描いた作品は時々目にするが、海野は江戸時代におけるそのような男なのだ。
現代社会に置き換えても当てはまる状況で、海野の姿は可哀そうになってくるが、それでも、しっかりしろよと尻を叩きたくもなる男で、河原崎長十郎が海野という男のいい雰囲気を出している。

髪結新三(中村翫右衛門)も海野同様その日の金にも困っているような男だが、海野のような侍と違って生活力があり要領もいい。
しかし、宵越しの金は持たないタイプの人間で、金を持てば長屋の皆に奢ってやるような剛毅な男である。
これが過ぎると身の破滅を迎えることままあることだ。
僕は、成績を上げるため、規定以上の交際費を借金をしながら都合していた男も知っている。
しかし新三の意地はそのようなものではなく、肩で風を切るヤクザの親分に頭を下げさせたいと言うもので、そのために命を落とす瀬戸際に追い込まれている。
結末は描かれていないが、おそらく新三は男の意地のために命を落としたと思う。
結末は哀れとしか言いようがない。
紙風船が水路の上を流れていくのは彼等の人生そのものを象徴しているようで印象的だ。
その他にも印象的なシーンは色々あって、特に雨のシーンがいい。
冒頭で長屋に降る雨のシーンもいいが、皆が雨宿りを避けて集まってくるシーンから、お駒と番頭の忠七と二人きりになるシーンへのつなぎもいい。
画面の奥に降りしきる雨の映り込みが素晴らしいと思うし、毛利に去られた後の海野に打ち付ける雨のシーンも無情の雨としての効果抜群で、雨を降らせる技術は今よりも優れていたのではないかと思う。
脚本、撮影、美術もすばらしく、残っている山中貞雄の3本の中では1番の出来だと思う。

人間の條件 6部作

2019-12-14 11:45:06 | 映画
五味川純平の同名ベストセラー小説を、小林正樹が全6部で描ききった超大作で全編で9時間38分という長尺。

「人間の條件」


監督 小林正樹
出演 仲代達矢 新珠三千代 佐田啓二 淡島千景 有馬稲子
川津祐介 岸田今日子 高峰秀子 金子信雄 安部徹
石浜朗 山村聡 宮口精二 小沢栄太郎 山茶花究
   南道郎 安井昌二

ストーリー
昭和十八年の満州。梶(仲代達矢)と美千子(新珠三千代)の夫婦は、友人影山(佐田啓二)の勧めで労務管理の職につく梶の任地に行く。
現地人の工人達を使って苛酷な仕事を強いる鉱山の労働条件は、極度に悪かった。
現場監督岡崎(小沢栄太郎)一味の不正に対抗し、同僚沖島(山村聡)や部下の現地事務員陳(石浜朗)の助けをえて、梶の苦闘がつづく。
北支から六百名の捕虜が特殊工人として送りこまれてきた。
そんな中、工人の高(南原伸二)と娼婦楊春蘭(有馬稲子)の愛が芽ばえた。
一方、朝鮮人の張命賛(山茶花究)は、娼婦の金東福(淡島千景)を使って、工人を脱走させる仕事で甘い汁を吸っていた。

梶が楽しみにしていた美千子との休暇は、張一味による脱走事件の発生で中止となった。
脱走は金東福の色香に惑わされた陳(石浜朗)が電気室担当の友人に頼んで、少しの時間だけ電流を止めてもらうことで行われていた。
張一味と結んだ古屋(三井弘次)は、梶をねたんで再度の工人脱走を企てた。
だが、陳は良心の苛責から、三千三百ボルトの電流の通じる鉄条網に自ら身を投じて死んだ。
現場監督岡崎の非人間的な態度は、特殊工人の反感を買い、高をはじめとする七人の抗議事件をひきおこした。
憲兵軍曹渡合(安部徹)の手で、七人は日本刀による斬首の刑に処されることになった。
処刑は3人目の高を終えたところで中止になった。
しかし、そのあとには、軍部に反抗を企てた梶に対する、恐るべき憲兵隊のリンチが待っていた。
ようやく帰宅を許されたものの、所長(三島雅夫)は当初の約束を反故にして召集令状をつきつけた。
山を下りかけた所で迎えに来た美千子に出会い、召集令状を見せられた美千子は絶句する。

厳寒の北満において関東軍の一部隊では、梶たち初年兵が連日厳しい訓練を受けていた。
板内(植村謙二郎)と吉田(南道郎)の上等兵は、なにかというと初年兵を殴った。
新城一等兵(佐藤慶)も彼の兄が思想犯であったからにらまれていた。
梶と新城は親しくなった。
美千子が、老虎嶺から三十キロの道をやって来た。
その夜、美千子は消燈ラッパを梶の胸の中で聞いた。
行軍が行われ、梶の属する第三班からは、小原(田中邦衛)と佐々(桂小金治)の二人の落伍者を出した。
小原は、女郎の客引の真似を吉田から強制され、その後便所の中で自らの命を絶った。
部隊は、ソ満国境に近い湿地帯に移動した。
野火が起り、この騒ぎを見て新城は脱走し、吉田がその後を追った。
これを見てさらに梶が追った。
梶と吉田は組み合い、二人は泥水の中にはまりこんだ。

梶が意識を取り戻したところは病院で、吉田は病院に運ばれてから死んだ。
やがて梶は、ソ連の山々を前方にひかえる国境線の青雲台地へ行った。
そこで、梶は影山(佐田啓二)に再会したが、彼は少尉に進級していた。
梶は上等兵になり、受け持った初年兵の中には二十歳そこそこの寺田二等兵(川津祐介)がいて、軍人の家庭で育った寺田は梶の言動に反抗した。
間もなく、青葉陣地は玉砕し、影山は戦死した。
ソ連軍の戦車群が近づいてきてキャタピラが地響いて通りすぎた。
梶は戦友を求めて暗闇の中へ消えて行った。

ソ連国境でソ連軍の攻撃を受けた梶の隊は、梶と弘中伍長(諸角啓二郎)と寺田二等兵を残して全滅した。
三人はただ歩いて、やがて、川に出た。
そこには避難民の老教師夫婦(御橋公、南美江)や、慰安婦の竜子(岸田今日子)と梅子(瞳麗子)、部隊から落伍した匹田一等兵(清村耕次)たちがいた。
彼らは梶の指揮に従って歩きはじめたが飢えから倒れていく者が多くなった。
丘の麓に永田大尉(須賀不二男)の率いる一個中隊が休息していたのだが、女連れの梶たちをののしり、食糧すら与えなかった。
しかし、かつて野戦病院で一緒だった丹下(内藤武敏)が隊にいて、乾麺包にありつくことができた。
林のはずれに一軒の農家を見つけ、彼らは豚を煮て大休止をした。
それも束の間、民兵が家を囲み、竜子は悲惨な殺され方をしたが、生き残った六人はやっと道路に出た。
叔父の家から北湖頭の自分の家へ帰る姉弟(中村玉緒、真藤孝行)と一緒になった。
一緒に南満へ行こうと勧めたが、どうしても家へ帰るといい、匹田と桐原(金子信雄)が送っていった。
「あの娘は適当に扱ってやったよ」という桐原を、梶は怒って追い出した。

梶達一行は森の中をさまよっていたが、梶の理解者であった丹下一等兵はひとり投降していくことになり彼等と別れていった。
やがて梶達は平坦な地平線に開拓集落をみつけたが老人や女ばかりの避難民だった。
突如、ソ連兵が向ってきたが、女(高峰秀子)の「やめて、ここで戦争をしないで」という叫び声に、梶(仲代達矢)は呆然として降伏し、彼はソ連陣地に連れられていった。
収容所には桐原がいて、捕虜を管理していた。
寺田が大豆を盗んだことが発覚して、桐原は寺田をなぐった。
寺田は高熱に苦しみ、梶は寺田のかわりに作業をサボって食糧をあさった。
桐原はソ連将校に告口をし、その結果、梶はサボタージュの罰として重労働を言いわたされた。
収容所へ帰った梶は、寺田が桐原になぐり殺されたことを知った。
その夜、梶は寺田の殺された便所の裏で桐原をなぐり殺し、鉄条網を抜け出した。
やがて、雪が降りだした。
「美千子、僕は君のところへ帰るよ」とつぶやきながら梶は倒れた。
その上に雪が降りしきった。


寸評
僕はこの映画を今は無くなってしまった梅田グランド劇場の9時間半一挙上映でみた。
1階が映画館の梅田グランド劇場で、地下が吉本の演芸場である梅田花月劇場だったが、映画の衰退によって1階と地下が入れ替わり、やがてどちらも閉館となってしまった。
その日は午前から始まる上映のため、途中で昼食タイムが1時間ほど設けられており、半券が有れば退出再入場は自由だった。
梅田グランド劇場はロードショー館で座席もいいほうの部類だったが、それでも座布団を持ち込んで見続けたことを覚えている。
6部構成だが、公開時は1部2部、3部4部、5部6部の3回に分けての公開だったようだ。

現地人の一般職工が奴隷的に扱われているが、日本人は本当にあのような労働を強いていたのだろうか。
また、梶のような日本人が本当に居たのだろうか。
ちょっと梶はスーパーマン的すぎるなと思う。
中国人を日本人俳優が演じているが、片言の変な日本語をしゃべらせず中国語を話させているのはこの映画の良い点の一つだ。
正しい中国語なのか、アクセントは正しいのかは分からないけれど、主要人物が中国語でやり取りして字幕が表示される演出には小林正樹の意気込みが感じられる。

梶を含む初年兵への訓練と虐待はいつもながらの描き方で、この映画が特別な描き方をしているわけではない。
初年兵への虐待がこの映画のみならず多くの作品で描かれているということは、虐待は多くの部隊で本当に行われていたことなのだろう。
人間の威厳を失っていると思える南道郎の吉田上等兵に代表される古参兵の行為は許されるべきものではないし、田中邦衛の小原二等兵のような弱者は救われるべきだと思うが、旧軍隊は前者の存在を許し、後者の存在を認めていない。
内田良平の橋谷軍曹が射撃の的を外し続ける小原に「お前が見つけて射殺できなかった敵兵が手榴弾で10人の仲間を殺すことがある」と叱責する。
中隊長もリベラルを標榜するアカは戦場では戦力として働くが、小原のような弱虫は役に立たないと言っている。
橋谷軍曹の論理は的を得ているとも言え、戦場とはそうした場所なのだろう。

僕の高校時代の恩師は満州からの引揚者で、その苦労話を自費出版された。
恩師は生還したが梶は倒れてしまう。
雪の荒野の悲痛さは言いようがない。
ソ連の参戦とシベリア抑留は旧ソビエトが犯した大きな間違いだったと思うのだが、それを引き起こした軍部と政府の罪は大きい。
梶がその犠牲となってしまう何とも救いようのない結末で、見終った後はガックリくる。
主人公である梶は超スーパーヒーローだが、同時に真正面から戦争反対を唱えることはできなかった一般人だともいえる。
梶を初め、多くの日本人は仕方なく戦地に赴き、肉親の待つ故郷に帰ることを夢見ていたに違いないと思う。
望郷の念を持ちながら多くの人が戦地に散っていったように、梶もまた戦地に散っていったと言える。
救いようのない映画だが、戦争こそ救いようのないものなのだろう。

ニワトリはハダシだ

2019-12-13 09:35:21 | 映画
「ニワトリはハダシだ」 2004年 日本


監督 森崎東
出演 原田芳雄 倍賞美津子 肘井美佳 加瀬亮 浜上竜也 守山玲愛

ストーリー
知的障害を持つ少年サム(浜上竜也)は15才。
重度の知的障害を持ちながらも人並みはずれた記憶力を持っている。
潜水夫のチチ・守(原田芳雄)とふたり暮らしをしているが、守はサムの将来を案じ、自分と同じ潜水夫の仕事を少しずつ覚えさせようとしていた。
在日朝鮮人のハハ・チンジャ(倍賞美津子)は、サムの教育についてチチと意見が合わず、妹の千春(守山玲愛)を連れて近所の実家へ帰っている。
養護学校でサムを担任する桜井直子(肘井美佳)は、サムが両親と一緒に暮らしたがっていることを守に告げるが、頑固な守は耳を貸さない。
直子の父親は警部であり、妻の兄・灰原検事が関わる機密費がらみの汚職事件を捜査していた。
暴力団・重山組の組長は灰原に賄賂のベンツを贈っていたが、その車が盗難にあってしまう。
車の中には検事の収賄事件の重要証拠品である機密費に関する裏帳簿が入っていた。
そんなある日、サムが暴力団に誘拐された!
中古車即売場に行き、車の形やナンバープレートを覚えるのが大好きなサムは、偶然にも盗難車のベンツの車中に隠されていた帳簿の数字を丸暗記してしまっていたのだ。
そのことでサムは、事件をもみ消そうとする警察、暴力団から誘拐され、家族から引き離されてしまう。
サムを救い出そうと直子、守、そしてハハ・チンジャも身体を張って事件の謎を暴こうと立ち上がっていく。
造船所跡地にベンツがあるという情報を得た重山組は、その場所を荒らしはじめる。
そこはチンジャが刃物研ぎの行商をして貯めたお金で、養護学校を卒業した子供たちのための授産施設を作ろうと計画していた場所だった。
しかし、造船所跡地にはベンツはなく、やがて車は意外な場所で発見される。
事態は二転三転、京都・舞鶴の町全体を巻き込んだ事件へと発展していく。


寸評
振り返ると、森崎東監督作品としてデビュー作の「喜劇 女は度胸」、続いて「男はつらいよ フーテンの寅」も見ていた。
だけど30年以上も経っているのに鮮明に覚えているのが、5作目に当たる「喜劇 女は男のふるさとヨ」だ。
強烈に脳裏に残っているシーンが、中村メイコと倍賞美津子がタオルで鼻と口を覆って、腹いせに糞尿を撒き散らす場面。
森崎監督のハチャメチャさが遺憾なく発揮された場面で、あのシーンが僕の森崎監督へのイメージを定着させてしまった。
本作品でも冒頭のサムの潜水夫への門出シーンで、サムが船べりからウンコをするシーンがあって、そのウンコの生々しさに30数年前の衝撃を思い起こさせられた。
舞鶴といえば歴史的事実としての浮島丸事件は知っているし、引き上げ船の船着場として演歌「岸壁の母」にも唄われた所だと言うことも知っている。
その舞鶴を舞台にして、日本の中にあってはどちらも白眼視されている、在日朝鮮人と精神薄弱児を描いているのだけれど、森崎作品の特徴なのか、陰湿さとか悲惨さとか暗さと言ったものが全くなくて、むしろバイタリティにあふれているのがすごくいい。
サムを演じた浜上竜也君も良かったけれど、サムの妹・千春を演じた守山玲愛ちゃんの芸達者な事はどうだ。全く持って感心させられた。
殺伐とした世の中から聞こえてくる情のない出来事の数々に比べれば、なんと愛と希望に満ちた人々だったことか。
強がって生きてるけれど、その実、気持ちでつながってるのがよく解る。
海から上がった守が震えながら別居中の妻チンジャと話すシーンは秀逸だ。
チンジャの倍賞美津子が守の原田芳雄の顔をスカートで拭ってやるシーンに感動した。
震える足先を写して、焚き火でもあればいいのにと思っていたが、あれは最後の海での火祭りにつなげるための演出だったのだろうか?
精神薄弱児のサムがとんでもない記憶の持ち主で、権力を振りかざす警察を翻弄するのも愉快だし、その権力が汚職で犯されていて、証拠隠滅のためにチンジャが作ろうとしていた授産施設を壊しに掛かる場面などは、国家機関の理不尽さを突く森崎監督らしい面白い描き方だと思った。
僕としては、久しぶりに面白い森崎作品を見せてもらった気分だ。

ニュー・シネマ・パラダイス

2019-12-12 09:24:52 | 映画
「ニュー・シネマ・パラダイス」 1989年 イタリア / フランス


監督 ジュゼッペ・トルナトーレ
出演 フィリップ・ノワレ
   ジャック・ペラン
   サルヴァトーレ・カシオ
   マルコ・レオナルディ
   アニェーゼ・ナーノ
   プペラ・マッジオ
   レオポルド・トリエステ
   アントネラ・アッティーリ
   エンツォ・カナヴァレ

ストーリー
現在のローマ。夜遅く帰宅した映画監督のサルヴァトーレ・ディ・ヴィータは、留守中に母からアルフレードが死んだという電話がかかっていたことを知らされる。
その名を耳にした途端、サルヴァトーレの脳裏には、シチリアのジャンカルド村での少年時代の思い出が甦るのだった・・・。
当時、母マリアと妹の三人暮らしだったサルヴァトーレはトトと呼ばれ、大の映画好きだった。
そんなトトを魅了していたのは映画館パラダイス座の映写室であり、また映写技師のアルフレードだった。
司祭の検閲があり、そのせいで村の人々はこれまで映画のキス・シーンを見たことがなかった。
トトはいつも映写室に入り込む機会をうかがっていて、アルフレードは彼を追い返そうとするが、そのうち2人の間には不思議な友情の絆が結ばれてゆき、トトは映写室でカットされたフィルムを宝物にして集めるのだった。
しかしある日、フィルムに火がつき、パラダイス座は瞬く間に燃え尽きてしまう。
そしてトトの懸命の救出にもかかわらず、アルフレードは火傷が原因で失明してしまうのだった。
やがてパラダイス座は再建され、アルフレードに代わってトトが映写技師になった。
もはや検閲もなく、フィルムも不燃性になっていた。
青年に成長したトトは、銀行家の娘エレナに恋をし、やがて愛を成就させ幸せなひと夏を過ごすが、彼女の父親は2人の恋愛を認めようとせずパレルモに引っ越しし、トトは兵役についた。
除隊後村に戻ってきたトトの前にエレナが2度と姿を現わすことはなかった。
アルフレードに勧められ、トトが故郷の町を離れて30年の月日が経っていた。
葬儀に出席するためにジャンカルド村に戻ってきたトトは、荒れ果てたパラダイス座で物思いに耽るのだった。


寸評
映画を愛した人々の、映画を愛する人々へのビッグ・プレゼントだ。
無学な映写技師と映画好きの少年の自然な名演に笑いが絶えないが、これを安っぽい喜劇映画と感じる人には、どこが面白いのかという作品に感じられるだろう。
しかし僕には思い入れの深い作品である。
なつかしい往年の名画の数々が断片的に登場するのが郷愁をそそるのである。
そしてかつて僕が経験したなつかしい出来事も描かれることが一番大きな要因である。
例えば、映画館の焼失の原因となる映写室の火事もそのひとつだ。
大学の学生会館には大ホールがあって映写室が備わっていた。
僕はその映写室で作業した事があったので、あの暑くてむさくるしいけれど、カタカタと回る映写機の心地よい音と、チェンジマークと共にフィルムが切り替わる快感を思い出す。
映画でも紹介されていたが、フィルムはすでに不燃性のものに変わっていた。
それでも往々にして、前の館で切れて接続された部分が、再び引っかかってフィルムの送りがストップし、ブニュブニュと溶けるのがスクリーンに映し出されたりした。
その部分をハサミでカットして接着剤でつないでフィルムを返却する。
そうするとまた前述のような事が起きたりすることがあって、場末の映画館に回った頃には、あるシーンがなくなってたりしたものだ。
アルフレードがつめかけた人々のために、映写室から広場の向かいの家の白壁をスクリーンにして映画を映すシーンの幻想的な美しさは別格で、映画の魅力を一瞬にして物語っている。
僕達の世代のものは小さい頃によく似た出来事を経験していると思う。
村のお宮さんなんかの広場に特設スクリーンが張られて移動映画館となり、夜、暗くなると映写が始まるのだ。
満天の星の下で催される映画会は、さしずめドライブイン・シアターの原型だったと思う。
蛾なんかを代表とする昆虫達が明かりに誘われて集まってきて、スクリーンを飛び交ったりしたものだが、そんなことも気にせずワイワイガヤと見入ったものだった。
作品内容にかかわらず、よかったなぁ! あの頃の映画。
映画を見に来ている人達すべてが友達だった・・・。

青年期におけるトトの恋にも感情移入できる。
恋こがれる人を前にすると何も言えなくなり、やっと出た言葉はつまらないことだったりするのはよくわかる。
ラストの感動は何回見てもジーンとくる。
冒頭で、入り浸ってカットしたフィルムを欲しがるトトに、「カットしたフィルムはお前にあげる。預かっといてあげるからもう来るな」という会話がかわされているので、その約束をアルフレードは守ったのだろう。
再見すると、やはりそのシーンでは鳥肌がたつ。
宗教上だか、道徳上だかのためにカットされたそれらのシーンをまとめた1巻は、すべての映画ファンへの、世界語を有するすべての人々への、映画界の裏方の一人である映写技師からの素敵な素敵な贈り物だったのだ。
僕の青春時代の思い出が重なって、内幕物としての面白さが増長されるので、必要以上に思い入れが生じてしまう作品で、映画に係わる現場を描いた作品としてはこの一本が先ず思い浮かぶのである。

日本のいちばん長い日

2019-12-11 16:39:24 | 映画
「日本のいちばん長い日」 1967年 日本


監督 岡本喜八
出演 三船敏郎 山村聡 黒沢年男 高橋悦史
   加山雄三 宮口精二
   笠智衆 志村喬 中丸忠雄
   島田正吾 伊藤雄之助 石山健二郎
   松本幸四郎 佐藤允 小林桂樹
   藤田進 中谷一郎 新珠三千代 

ストーリー
戦局が次第に不利になってきた日本に無条件降伏を求める米、英、中のポツダム宣言が、海外放送で傍受されたのは昭和20年7月26日午前6時である。
その後、8月6日広島に原爆が投下され、8日にはソ連が参戦、日本の敗北は決定的な様相を呈していた。
第一回御前会議において天皇陛下が戦争終結を望まれ8月10日、政府は天皇の大権に変更がないことを条件にポツダム宣言を受諾する旨、中立国のスイス、スウェーデンの日本公使に通知した。
12日、連合国側からの回答に、阿南陸相はこの文章ではポツダム宣言は受諾出来ないと反対した。
8月14日の特別御前会議で天皇は終戦を決意され、ここに正式にポツダム宣言受諾が決った。
この間、終戦反対派の陸軍青年将校はクーデター計画を練っていたが、阿南陸相は御聖断が下った上は、それに従うべきであると悟した。
一方、陛下の終戦詔書を宮内省で録音し8月15日正午、全国にラジオ放送することが決った。
同じ頃、厚木航空隊の司令小薗海軍大佐は徹底抗戦を部下に命令し、また東京警備軍横浜警備隊長佐々木大尉も一個大隊を動かして首相や重臣を襲って降伏を阻止しようと計画していた。
その頃、畑中少佐は蹶起に反対した森師団長を射殺、玉音放送を中止すべく、その録音盤を奪おうと捜査を開始し、宮城の占領と東京放送の占拠を企てるが・・・。
午前四時半、佐々木大尉の率いる一隊は首相官邸、平沼枢密院議長邸を襲って放火し、五時半には阿南陸相が遺書を残して壮烈な自刃を遂げるなど、終戦を迎えた日本は数々の出来事の渦中にあった。
日本の敗戦を告げる玉音放送の予告が電波に乗ったのは、8月15日午前7時21分のことであった。


寸評
黒沢年男を筆頭に青年将校たちがやたら怒鳴っていることが脳裏に残る。
その不自然なまでの大げさな演技が、彼等の若さと血気にはやる気持ちと敗戦を受け入れがたい心情を表現していたと思う。
敗戦の経験がない国家における不安と焦りが出ていて、敗戦という現実に拒絶反応を起こした軍人達のパニックが凄まじい迫力で描かれていた。
2時間半を超える大作で、8月14日12時の天皇の御聖断のシーンまでで20分あり、ここでようやくメインタイトルがでるような長い前振りが、長い一日を物語っていた。
戦争遂行派による軍事クーデターを主軸としてはいるが、同時にこれは壮大なディスカッションドラマでもある。
畑中少佐…「これは隷属であり絶対受諾など出来ません!」
大西海軍軍令部次長…「もうあと二千万、日本人の男子の半分を特攻に出す覚悟で戦えば、必ず勝てます!」
東郷外相…「勝つか負けるかはもう問題ではない。日本の国民を生かすか殺すかなのです」
阿南陸相…「多くの兵がなぜ死んでいったのだ!みんな日本の勝利を固く信じていたからではないのか! 彼らにはなんとしても栄光ある敗北を与えねばならん」
石黒農相…「日本にもう戦う力なぞは・・・」 など、など・・・。
これほどのディスカッションドラマを飽きることなく見せるリズムをもたらせた編集がすばらしい。
セリフが終わるか終わらないかの内に次のカットにつないでいくその間の見事さが抜きん出ている。
軍服にしみた汗、軍刀を握り締める手のアップ、音のアクセントをつけるための軍靴の響き、油の切れた自転車のブレーキ音などが時折挿入され、そのテンポのよさが2時間半を飽きさせない。

私が一番圧倒されたのは、近衛師団長・島田正吾のところへ決起を促すべく反乱将校の黒沢年男と中丸忠雄が交渉に行ったシーンだった。
決起の意思が無いと判断されたその時、駆けつけた中谷一郎が島田正吾に日本刀を降りおろす。
血しぶきと共にに床に音を立てて落下する師団長の首と、あたり一面の血の海。
興奮しきった中谷一郎の手は硬直していて握った日本刀を離せない。
机に軍刀の柄をたたきつける音が響く。
これらが一気に、モノクロの画面で繰り広げられるシーンは、ドラマなのかドキュメントなのか分からないほどの迫力だった。
胸を打ったのは、伊藤雄之助が玉音放送当日に特攻機がただの一機も還ってこないがらーんとした飛行場を見つめて静かに涙を流すシーン。
戦争に負けた悔しい涙だったのか、犬死を止められなかった悲しい涙だったのか。
たぶん後者の涙だったのだろうな。

私の義父は近衛師団の通信兵だったらしいのだが、8月15日の皇居はどんな様子だったのか、下っ端の兵隊たちはどんなだったのかを聞きもらしたことを残念に思うと同時に、この映画に登場しない下級兵士だった義父の冥福を改めて祈っておきたい。

にっぽん泥棒物語

2019-12-10 08:59:35 | 映画
「にっぽん泥棒物語」 1965年 日本


監督 山本薩夫
出演 三国連太郎 佐久間良子 伊藤雄之助
   江原真二郎 緑魔子 市原悦子
   千葉真一 西村晃 北林谷栄

ストーリー
窃盗、強盗、置き引き、泥棒の種類も多い中で、林田義助(三國連太郎)はそのトップクラスの“破蔵師”である。
義助が前科四犯の破蔵師になったのは歯科医の父が死んだあと、母(北林谷栄)や妹(緑魔子)を養うため、歯科医を継ぐが、戦争で薬が手に入らず、この商売に入ったのがきっかけだった。
こんな義助がある時仲間たちと温泉に遊びにゆき、芸者桃子(市原悦子)に認められ世帯をもつことになった。
里帰りする桃子に手土産をと盗品を渡したのだが、桃子が金に換えようと売ったために足がつき、苦手の安東刑事(伊藤雄之助)につかまって拘置所ゆきとなった。
ここで自転車泥棒の馬場庫吉(江原真二郎)を弟子にした義助は、保釈になると馬場と呉服屋に忍び込んだが失敗し、巡回中の消防団に追われる破目となった。
線路づたいに逃げた義助は、その夜九人の大男とすれちがった。
その夜明けのこと、大音響と共に杉山駅で列車転覆事件が起った。
刑務所に入った義助は、杉山駅列車転覆事件の犯人だという三人の男に会った。
無実を訴える三人の男を見て、義助はあの夜会った九人の男が犯人ではないかと、不蕃を抱いた。
やがて、堅気になる決心で出所した義助はダム工事場で働き、はな(佐久間良子)と結婚し子供も生れた。
平和な生活の中で、義助は前科を隠すことに苦心した。
だが、昔の仲間・菊池(花澤徳衛)の弟であの事件で国鉄クビとなった健二(山本勝)が、弁護士藤本(加藤嘉)を同伴してきて、杉山事件の目撃者として証人になって欲しいと訪ねて来た。
義助は、安東刑事から“あの犯行は三人だ”と言わなければ、はなに前科をばらすと脅かされていた。
自分の生活を守るため、藤本らの話をけった義助だが、無実の三人が十年の刑を終えたのを聞くと、決心をして、東北高等裁判所へとんだ。


寸評
林田義助という泥棒を主人公にしているので「にっぽん泥棒物語」などと面白いタイトルになっているが、これは松川事件における冤罪を描きながらエンタメ性に富んだ映画で、僕はこの作品を喜劇とは感じなかった。
松川事件は下山事件、三鷹事件と並んで第二次世界大戦後の1949年に相次いで起きた「国鉄三大ミステリー事件」のひとつに数えられている。
下山事件は7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に死体となって発見された事件で、事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れたが警視庁は捜査を打ち切っている。
三鷹事件は7月15日に現在の三鷹市と武蔵野市にまたがる日本国有鉄道中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件で原因は不明のままである。
そして描かれた松川事件(映画では杉山事件)は8月17日に福島県の日本国有鉄道東北本線で起きた列車往来妨害事件で、容疑者が逮捕されたものの、その後の裁判で全員が無罪となり、真犯人の特定・逮捕には至らず未解決事件となった。

映画は先ず三國連太郎率いる窃盗団の活躍(?)が描かれる。
三國が演じる林田は今では聞かなくなった“破蔵師”で、いわゆる蔵破りだ。
今では存在が少なくなった土蔵だが、叔母の家にも立派な蔵があり値打ちのありそうな絵皿などが保管されていたから、当時の豪農は大きな蔵を建てていたのだろう。
林田は蔵は土壁なのでドリルで穴をあけ、ノコギリで土壁の中にある竹のスノコを切断して人間が通れるスペースを確保し侵入すると言う手口で大量の物品を盗み出す。
トラックで運ぶほどで、大勢の仲間が協力し合うが芝居っ気もあり、林田の統率力は並外れている。
そして林田は仲間のことは口が裂けても白状しないので全幅の信頼感も得ていると言う男だ。
その窃盗の様子が楽しく描かれ、観客である僕には彼らがヒーローのように思えてくる。

何も知らない市原悦子の行動で刑務所行きとなるが、林田の人の良さを表すエピソードとして挿入されている。
刑務所で江原真二郎の馬場と知り合い、出所後に彼と泥棒仕事するが馬場のヘマで失敗してしまう。
しかし林田は馬場を責めるようなことはしない。
林田は前科4犯の泥棒だが、本質的に人はいいのだ。
美しいはなと結婚できたのも人の良さからくる信頼感があったからだ。
林田が工事現場の人たちや、村人からも信頼されていく様子が可笑しい。
選挙の応援演説まで頼まれるという変貌ぶりが、喜劇と言えば喜劇的だ。
林田は警察権力によって偽証を強要されるが、でっちあげや無責任な捜査による冤罪は今もひっきりなしに起きていて、軽犯罪における冤罪も未だに多発している。
この映画は随分と前の映画だが、冤罪が起きる温床は今もってなくなっていないと言うことだ。
証言台に立つ林田の言葉は可笑しくて、映画の傍聴人でなくても笑ってしまうものだ。 三國は上手い!
三國の証言の可笑しさに、不安と冷たさの混じった目で見ていた佐久間良子が思わず笑みを漏らすシーンがよく、ラストシーンは心温まるものとなっている。
声高に官憲を非難しているわけではないが、僕は「にっぽん泥棒物語」は冤罪を問うた社会派作品だと思う。

2001年宇宙の旅

2019-12-09 10:32:58 | 映画
「2001年宇宙の旅」 1968年 アメリカ / イギリス


監督 スタンリー・キューブリック
出演 ケア・デュリア
   ゲイリー・ロックウッド
   ウィリアム・シルヴェスター
   ダニエル・リクター
   レナード・ロシター
   マーガレット・タイザック
   ロバート・ビーティ

ストーリー
旅客用宇宙飛行機オリオン号がケープケネディ空港から月に向かって飛び立った。
旅客の中にはフロイド博士がいて、彼は最近月面で発見された謎の物体について専門技術家、学者たちが月の基地で開く会議に出席するのである。
月の基地では謎の物体をめぐる議論に花がさき、博士は物体をこの目で確かめるため、数人の科学者とともに、月の1キロほど上空を飛ぶ月バスに乗って、問題の場所、テイショ火口に行った。
現地では石碑のような物体が発掘され、木星に向かって強烈な放射能を発射していた。
この事件を調査するため、科学者たちは、原子力宇宙船ディスカバリー号で木星へ向かって旅立った。
宇宙船を操縦していたプール飛行士とボウマン隊長は、コンピューターからのただならぬ注意信号を受信し、やがて宇宙船のあちこちでトラブルが起こり始める。
すべての原因はコンピューターが人間を支配しはじめたことによるものだった。


寸評
僕が見た映画の中で最も面白かった映画の一つで、長く語り継がれるSF映画だと思う。
自宅にスピーカーシステムを導入して、ホームシアターもどきにしたのも、全てはこの映画をレーザーディスクで見たいためだった。
15,000円もしたLDを買って気が向いたときに見ているのだが、どうもLDが世の中からなくなってしまいそうな雰囲気だ。

猿たちがたむろしているが、どうやらグループが出来ていて縄張りがありそうだ。
お互いに威嚇し合うが、最初は叫び声をあげたりして牽制しあっているだけだ。
やがて一方が動物の死骸が風化した中から骨を握り、それで相手を殴り殺す。
歓喜の叫び声を上げるが、人類の祖先が道具を手にした瞬間だ。
人類の祖先らしき猿人が骨を投げ上げたかと思うと、そこはもう未来の世界だ。
クルクルと回転する骨が宇宙船に変化していく。
宇宙船の中も、未来はこうなのかなと思わせるように紹介されていく。
セリフは極端に少なく、初めての言葉は上映開始から30分程経ってからだと思う。
その間、音楽と映像が観客を圧倒し続ける。
今ではありふれたものとなってしまったCGによる宇宙ものだが、そのスケールを凌駕するものは出てきていない。
戦闘シーンの迫力や、宇宙船の精巧な動きとかは技術の進歩でどんどん増しているのだが、描かれた内容の高貴さのようなものは未だに随一の作品だと思う。
音楽と映像とストーリー展開、まさに映画は総合芸術だと教えてくれる作品だ。
この一作だけでキューブリックは神と称されても良い監督になったと思う。

謎の石版"モノリス"は3度登場する。
最初は猿たちがたむろしている場所に、猿たちが目覚めると忽然と姿を現している。
2度目が月面で発見され、議論の対象になっている。
3度目は木星へ向かっていく途中の宇宙空間を浮遊している。
人へと進化する過程で最初に現れ、地球以外の天体に到着した時に現れ、そして地球圏から飛び出した時に現れているので、人類の大きな転機に出現していることになるが、それがどういう意味を持っているのかは謎だ。
これは何なんだという哲学的なシーンの一つで、その物体の不明感が想像を掻き立て議論を呼び起こす。
もちろんラストシーンも議論を掻き立てるに十分だ。
「映画は他人と語るために見る」などという定義にはピッタリの映画である。
で、ラストシーンだが、あれは時間を逆行していって、人類の誕生を神が祝福して迎えているのだと、僕は勝手に解釈している。

僕がハワイに行ったとき、オアフからマウイに飛んでハレアカラ火山を散策したのだが、それはハレアカラがこの作品のロケ地だったので訪れてみたかったからだ。
同行の者は雄大な異次元の景色に見とれていたが、ひとり僕だけは「2001年宇宙の旅」に思いを馳せていた。

二十四時間の情事

2019-12-08 10:27:46 | 映画
「二十四時間の情事」 1959年 フランス / 日本


監督 アラン・レネ
出演 エマニュエル・リヴァ
   岡田英次
   ベルナール・フレッソン
   アナトール・ドーマン

ストーリー
原爆をテーマにした映画に出演するため広島にやって来たフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)は、偶然知り合った日本人男性(岡田英次)となぜか気が合い、一晩限りの恋に落ちる。
ともに夫も妻もいる身でありながら二人は心のうちを語り合い、少しずつそれぞれの過去が明らかになっていく。かつて第二次世界大戦中、彼女はフランスを支配していたナチス・ドイツの兵士と恋に落ちた経験があった。
しかし、ドイツの降伏を前にその兵士は殺され、彼女の死んだ恋はフランスの敵となり、彼女自身も非国民として頭を丸刈りにされるという辱めを受けた。
その後、しばらく彼女は父親によって家に閉じ込められていたが、ある夜、正気を取り戻した彼女は両親の許しを得て、故郷ヌーブルの街からパリへと旅立った。
その後、女優となった彼女は広島を訪れ、再び忘れかけていた戦争の記憶を蘇らせることになった。
日本人の建築家もまた家族を原爆によって失うという悲しい記憶をもっており、二人は戦争の重い十字架をお互いに思い起こすことで、より深くつながり、わずか一晩の恋が永遠とも思える深い愛情へと発展していく。
しかし、その愛も彼女の帰郷とともに終わりを迎える。
「愛の終わり」は確実に訪れるが、その記憶は「忘却」のために時間を必要としていた。
二人の愛の終わりもまた戦争の記憶とともに長い忘却のための時を必要とするのかもしれない。
彼女は叫んだ。《私はあなたのこと忘れるわ。もう忘れてしまったわ。私が忘れていくのを見て。私を見て》
明け方の駅前広場ではもうネオンが消えた。


寸評
広島を訪れたフランス女性と日本人男性の恋愛を描きながらも、戦争を背景とした異国文化や価値観を共有できるのかと模索している。
同時に異国文化や価値観を通して体験した戦争経験を忘れることなく語り続けていけるのか、いや、戦争が生み出した悲劇を語り継いでいかねばならないのだと訴えている。

薄闇の中で男女が抱きあう印象深いシーンから映画はスタートする。
女は映画の撮影で広島を訪れていて、平和公園に行き、病院を訪問し、原爆資料館も見学している。
ベッドの中で女は「私、広島で何もかも見たわ」とつぶやくのだが、男は「君は何も見ちゃいない」と答える。
訪問した先々で女は原爆投下の悲惨さを知ったのだろうが、しかしそれはあくまでも第三者の目で見たもので、実際の体験者はもっと悲惨だったのだと男の言葉は言っているのかもしれない。
そんな男も両親を広島で亡くしていても、自分は広島の原爆を体験していない。
しかし多くの日本人がそうであるように、彼は原爆を否定し被爆者の苦しみを共有している。
同じように、フランスもナチス・ドイツに侵略された経験を有している。
そこでは女が経験したようなことも起きたであろう。
若者の気持ちは国家の意思とは別に、純粋な愛をも生み出すが、戦争はそれを引き裂く。
侵略されるということの悲惨さを日本人は分かっていないのかもしれない。
知識で得ることと、経験から得たこととは違うものだろう。
彼等はお互いの肉体を通じて、その思いを共有していく。
男は広島そのものの象徴でもあった。
彼等の過去の経験、特に女の体験がラブ・ロマンスとシンクロしてくることで物語の感性に広がりを見せる。
女には母国に夫がいて子供もいるようだし、男には妻がいて幸せな家庭があるようなので、言って見れば二人の関係はダブル不倫で、男は妻の不在をいいことに女を自宅に連れ込んでいる。
恋愛物語としてはとんでもない状況なのだが、それはこの物語の背景にしか過ぎない。
「私は今夜あの異邦人と共にあなたを裏切ったの。私はあなたを忘れて行く。私を見て」と女は死んだドイツ兵を回顧してつぶやく。
その前には「怖いわ、あれだけの愛情を忘れてしまうのは・・・」とも言っている。
忘却することの怖さを語りながらも、忘れ去ってはいけないのだと強く叫んでいるようにも思える。
どんなに愛した人でも、時間が経てば心の傷を埋め、その人のことは忘れ去っていくものなのだろうが、戦争体験は忘れ去ってはいけないことなのだ。
僕は戦争を体験していない。
そんな世代の人間に対して、戦争がもたらす悲劇、原爆がもたらした悲惨な状況を、手段を変えながらでも語り継いでいく必要が有ると思うのだ。

撮影時の広島の町が見事にとらえられているが、あのころの日本はいたる所にあのような風景を生み出していて、大阪駅前だって、一歩路地を入るとあのような雰囲気があった。
懐かしい風景を思いさせてくれるのも、僕がこの映画に親しめる一因となっている。

二十四の瞳

2019-12-07 14:00:06 | 映画
「二十四の瞳」 1954年 日本


監督 木下恵介
出演 高峰秀子 天本英世 夏川静江
   笠智衆 浦辺粂子 明石潮
   清川虹子 浪花千栄子 田村高廣
   月丘夢路 井川邦子 永井美子

ストーリー
昭和三年四月、大石久子は新任のおなご先生として、瀬戸内海小豆島の分校へ赴任した。
一年生の磯吉、吉次、竹一、正、仁太、マスノ、ミサ子、松江、早苗、小ツル、コトエ、富士子など十二人の二十四の瞳が、初めて教壇に立つ久子には特に愛らしく思えた。
二十四の瞳は足を挫いて学校を休んでいる久子を、二里も歩いて訪れてきてくれた。
しかし久子は自転車に乗れなくなり、近くの本校へ転任せねばならなかった。
五年生になって二十四の瞳は本校へ通う様になり、久子は結婚していた。
母親が急死した松江は奉公に出され、修学旅行先の金比羅で偶然にも彼女を見かける久子。
そして、子供たちの卒業とともに久子は教壇を去った。
軍国主義の影が教室を覆い始めていたことに嫌気がさしてのことであった。
八年後。大東亜戦争は久子の夫を殺した。
島の男の子は次々と前線へ送られ、竹一等三人が戦死し、ミサ子は結婚し、早苗は教師に、小ツルは産婆に、そしてコトエは肺病で死んだ。
久子には既に子供が三人あったが、二つになる末っ子は空腹に耐えかねた末に、柿の実をもごうとして落下して死んだ。
終戦の翌年、久子は再び岬の分教場におなご先生として就任した。
教え児の中には、松江やミサ子の子供もいた。
一夜、ミサ子、早苗、松江、マスノ、磯吉、吉次が久子を囲んで歓迎会を開いてくれた。
二十四の瞳は揃わなかったけれど、想い出だけは今も彼等の胸に残っていた。
数日後、岬の道には元気に自転車のペダルを踏む久子の姿があった。


寸評
映画が始まると石切場やお遍路の姿、行き交う船など小豆島の様子が映し出される。
そして小学校の高学年は本校に通うが、低学年の1年生から4年生までは岬の分教場に通うことが字幕で表示され、前任の女先生(おなごせんせい)が転任していく様子から話は始まる。
そして新任のおなご先生である高峰秀子の大石先生の登場となるのだが、大石先生は洋服姿で自転車に乗って颯爽と現れる。
戦前の話なのでその姿は当時としては物珍しかったのだろう。
大石先生はいわゆるハイカラさんで、その異様ぶりと違和感を島民に語らせている。
大石先生が母親と二人で住んでいる家から岬の分教場へは遠くて、船で渡れば早いが自転車でも50分はかかり、とても歩いて行ける距離ではない。
その大石先生が自転車で通勤する道の周囲には、今はもう見ることができない景色が広がっている。
道路の雰囲気であったり、町並みであったり、海辺の様子などだ。
撮影されたのは昭和29年のことだが、当時の小豆島ではまだまだ戦前の姿をとどめていたのだろう。
「ふるさと」のメロディにのって紹介されるそれらの景色を見ているだけで僕は郷愁にそそられてしまう。
公開当時はそうでもなかったその映像は、僕たちの世代の人間にはそれだけでも価値のある映画になっている。
僕が小学生の頃でも若くて美しい先生は人気があったし、新任の先生には興味津々だった。
大石先生もその小柄さから小石先生と慕われて子供たちに慕われていく。
なにせ演じているのがデコちゃんこと高峰秀子である。
(私の亡くなった叔母も名前を秀子といい、若い頃はそれにあやかったのかデコちゃんと呼ばれていたらしい)
スチール写真ではよく紹介される桜の下での電車ごっこの場面をはじめとした先生と子供たちの交流が、小学唱歌(今はもうこの呼び名はないのだろうか)にのって描かれる。 実に微笑ましいシーンだ。
しかし大石先生は、男先生に言わせると「洋服と自転車が邪魔している」ということで、島民からは素直に受け入れてもらっていない。
それを覆すのが落とし穴での骨折事件で、前半の見せ場の一つとなっている。
お見舞いのお礼でのやりとりは滑稽で笑いを誘う。
この作品は岬の分教場時代と本校時代から子供たちが大人になった戦後の時代までと二つに分かれている。
骨折で分教場に通えなくなった大石先生の本校への転勤で前半は終わるが、見送る子供達と船で戻る先生との別れが心に響く。
後半は反戦的な内容が増え、押し寄せる不況の波と軍国主義の中での子供たちの姿が描かれるが、松江のエピソードをはじめとして色々なことを描きすぎて散漫になってしまっているような気がする。
大石先生にもこの間、自身の退職、夫の戦死、母親の死亡、子供の事故死など目まぐるしい変化が起きている。
そして終戦を迎え、大石先生は再び岬の分教場で教鞭を取ることになり、かつての教え子の子供や縁者が入学してくるが、僕の通った小学校でも親子二代に渡って受け持たれた先生がおられた。
生き残った教え子たちが開く歓迎会は涙を誘う。
贈られた自転車で再び通う大石先生の姿が新たな希望を感じさせる。
高峰秀子の大石先生は、前半の若々しい颯爽とした姿から、後半は年老いた姿を歩き方などを変えて表現。
さすがは大女優と思わせた。

にごりえ

2019-12-06 13:16:06 | 映画
「にごりえ」 1953年 日本


監督 今井正
出演 丹阿弥谷津子 芥川比呂志 田村秋子 三津田健
   久我美子 中村伸郎 長岡輝子 仲谷昇
   淡島千景 杉村春子 山村聰 宮口精二

ストーリー
〔第一話 十三夜〕 何もわからぬ娘のまま奏任官原田勇の許に嫁いでいったおせき(丹阿弥谷津子)は、一子太郎を家に残して仲秋の名月の晩実家に帰ってきた。
母もよ(田村秋子)は同情するが、父主計(三津田健)は娘の言い分をなだめ追返す。
帰途、おせきが乗った人力車夫は、幼馴染みのおちぶれた録之助(芥川比呂志)であった。
二人は今の自分の身を振りかえり幼き日の恋心を打ち明けることもなく、東と南に別れた。

〔第二話 大つごもり〕 資産家山村嘉兵衛(龍岡晋)の不人情な主婦あや(長岡輝子)の家に下女奉公している気だてのいいみね(久我美子)は、大恩ある伯父安兵衛(中村伸郎)に大晦日までに前借りを頼まれ、あやに頼むが断られた。
止むなくせっぱつまった晦日に二円盗んだ。
しかし、幸か不幸か当家の放蕩息子石之助(仲谷昇)が親の留守に金を盗み出したため、みねに疑いはかからなかった。

〔第三話 にごりえ〕 本郷丸山下の新開地、小料理屋「菊之井」の酌婦お力(淡島千景)は、今の苦界から逃れようともがいていた。
お力の色香に迷い、落ちぶれ果てたもと蒲団屋の源七(宮口精二)は今尚お力を忘れかね、「菊之井」の店の前に佇むが、お力は会おうともしなかった。
彼女は気前の良い客結城朝之助(山村聡)に憧れるが、心の隅では源七を満更思いきれなかった。
内職をして一家を支えている源七の妻お初(杉村春子)は、お力に嫉妬して罵り、源七に離縁されてしまった。
お盆も幾日かすぎた日、袈裟がげに斬られたお力と、割腹した源七の無惨な姿が近くの草叢に見出された。


寸評
明治の終わりころの話だろうか、第1話「十三夜」のセットがしーんと静まり返ったしんみりした美しい日本を再現させているし、3話の「にごりえ」における下町のセットも雰囲気が出ていて素晴らしく、これから先の日本映画においてもこのような素晴らしい美術とセットは作れないのではないかと思う。
1953年の製作だが、この頃の日本映画のセットは金もかかっているのだろうが素晴らしいものがあり、映画は儲かっていたのだなと思う。

第1話における録之助は幼なじみのおせきに恋をしていたのだろう。
おせきも録之助を慕っていたようで、二人が結婚していれば今とは違った幸せな人生を歩んでいたことだろう。
おせきは大家の奥様なのだが、私生活は忍従に次ぐ忍従で離婚を考え始めているという状況だ。
お互いに幸せとは縁遠い存在である。
おせきは録之助とあって自分を取り戻し嫁ぎ先へ戻っていく。
録之助もずっと想っていたおせきに会い、おせきから心のこもった心づけを受け取り去っていく。
落ちぶれた姿で昔想いを寄せた人に会うのは惨めなものだろう。
僕はどうなんだろうと思い返すが、お互いに思い出の中に生きて会わない方が良いのかもしれない。
録之助とおせきにわずかな光明を照らすが、はたして二人がその後に幸せになったのかは誰にも分からない。

第2話「大つごもり」には疑問や想像する部分が存在している。
みねは盗んだお金の説明をおかみさんにどのようにするつもりだったのだろう。
お金が無くなっていることはすぐにバレることだと思うし、みねもそのことは自覚していたはずだ。
しかし石之助が拝借したという手紙を保管場所に入れていたのでバレなかった。
僕はこれは石之助の優しさだったと思う。
石之助は遊び人だが優しいところがあって、気性の荒い後妻さんのもとでは他の女中が長続きしない中にあって、みねが奉公をけなげに続けていることを感じ取っていたと思う。
酔って眠っているように見えた石之助だが、みねが引き出しから2円を抜き取るのを知っていたのではないか。
後妻さんへの当てつけもあったのかもしれないが、見て見ぬ振りをして、さらに念押しとしてみねをかばうために手紙を入れて残りの金を持ち出したような気がする。
叔父夫婦も借金返済の目途が立ち、みねは泥棒の嫌疑をかけられなかったが、しかしみねは自分が行った犯罪行為を一生背負っていくことになり、その罪悪感をみねはどのように処理するのだろう。

第3話「にごりえ」のお力は客商売の常として上客には愛想がよく、源七の羽振りの良かった頃にはそれなりの気持ちを寄せることもあったのだろうが、落ちぶれた今は今の彼女にとっては面倒な客だ。
源七も妻子がありながらお力に未練を残すどうしようもない男だが、家の中で妻から度々何かにつけて嫌味を言われるようでは居心地が悪い。
一番気が休まるはずの家庭が窮屈で外に目が行くのも分らぬではない。
最後は源七による無理心中で、お力は一緒に死ぬことなど拒んだと思う。
それでも死なねばならなかったお力は、見せかけの愛の中に生きてきた女の哀しい末路だったのかもしれない。

肉弾

2019-12-05 08:19:51 | 映画
「肉弾」 1968年 日本


監督 岡本喜八
出演 寺田農 大谷直子 天本英世
   三橋規子 今福正雄 笠智衆
   北林谷栄 春川ますみ 園田裕久
   小沢昭一 菅井きん 三戸部スエ
   田中邦衛 中谷一郎 高橋悦史

ストーリー
昭和二十年の盛夏。魚雷を脇に抱えたドラム岳が、太平洋に漂流していた。
この乗組員、工兵特別甲種幹部候補生のあいつは、まだ終戦を知らなかった。
あいつが、ここまで来るには可笑しくも悲しい青春があった。
演習場のあいつ。候補生たちは、みな飢えていた。
あいつは、めしと死以外を考える余裕はなく、乾パンを盗んで裸にむかれたこともあった。
それから、広島に原爆が落ち、ソ連が参戦した。
そして予備士は解散され、あいつら候補生は特攻隊員にされた。
一日だけの外出を許されたあいつは、無性に活字が恋しくなって古本屋へ行った。
そこには、B29に両腕をもがれた爺さんと観音さまのような婆さんがわびしく暮していた。
あいつは、やりきれなくて焼跡の中の女郎屋に飛込んだ。
けばけばしい女たちの中で、因数分解の勉強をしているおさげ髪の少女が、あいつに清々しく映った。
再び雨の中へ飛出したあいつは、参考書を待った少女に出会った。
なぜか少女はついて来て、やがて二人は防空壕の中で結ばれた。
翌日のあいつは、対戦車地雷を抱えて砂丘にいた。
少女、古本屋の老夫婦、前掛けのおばさん、そして砂丘で知りあった小さな兄弟とモンペ姿の小母さん。
あいつが死を賭けて守る祖国ができたが、その夜の空襲で少女が死んだ。
それから、作戦が変更されあいつは魚雷と共に太平洋に出た。
日本は敗けたが、あいつはある朝、大型空母を発見した・・・。


寸評
日本アート・シアター・ギルドは1961年から1980年代にかけて活動した日本の映画会社でATGの略称で呼ばれていた。
初期の頃は一般では公開されない外国映画を上映していて、その頃の僕には難解な映画を上映する映画館という印象だった。

第2期に当たる1970年前後は1000万円映画と呼ばれるATGと独立プロが制作費を折半して製作された日本映画が数多く上映された。
僕はこの頃大阪の梅田にあるATGの常設館である北野シネマの会員となって通っていた。
ATG作品は独立プロの主催者である監督が好きなように作り、劇場はその作品を最低1カ月は上映するという決まりだった。
もっとも、寺山修司の「田園に死す」などは、あまりの不意入りに上映が打ち切られ、契約違反だと怒った寺山が殴りこみをかけるかもしれないなどと噂が飛んだこともあった。
それでも大島渚の「絞首刑」や篠田正浩の「心中天網島」など、上映作品は傑作が目白押しだった。
この「肉弾」もATGとの提携作品である。
あの頃の映画館はそれぞれに特徴が有り、上映作品にもおのずから傾向が表れていて、作品名を聞くだけで多分あの劇場で見たはずだと思い出されるのである。
大阪梅田にあったOS劇場は上映される大作と共にそのゴージャス感で入る前からワクワクした映画館だったし、阪急のビルには東宝の封切り館の梅田劇場、洋画の封切り館である北野劇場、ちょっと大人びたスカラ座などがあった。
トコトコと地下に下りていくニューOS劇場、そしてその向かい側に同じように地下へトコトコ降りていく劇場として北野シネマがあった。
「イージー・ライダー」もここで見たし、この「肉弾」もここで見た。僕に映画を監督という視点から見ると言うことを知らしめてくれたのも北野シネマだった。

さて「肉弾」。戦争映画の傑作だ。ドンパチはない。先の戦争で散った特攻隊員の若者たちは一体誰のために死んでいったのか?という、戦争を知らない僕たち団塊の世代の疑問に答えている一遍だ。
あいつは、古本屋の老夫婦、観音様の様な少女、前掛けのオバサン、もんぺのオバサンなどを守るために死んでいった。国家のためでもなく、天皇陛下のためでもなく、命令のためでもなく、最後には守るべき人々を見つけて死のうとした。
神風、回天の特攻隊員達もおそらくそんな気持ちだったのではないか?そして彼等の無駄死にとも思える犠牲の上に今の繁栄が有るのだとラストで叫んでいる。
白骨化したあいつは叫んでいる。
俺が守りたかったのは享楽に浮かれるお前たちの様な日本人ではなかったのだと。
この映画は戦争の愚かさとそれによって踏みにじられた幾多の青春への思いをコミカルなタッチで痛切に描いていた風刺劇だ。戦争はバカバカしいのだ。
大谷直子=鮮烈のデビュー、寺田農=渾身の一作である。

ニキータ

2019-12-04 06:47:10 | 映画
「な」は8本にとどまりました。
「に」の映画を紹介していきます。


「ニキータ」 1990年 フランス


監督 リュック・ベッソン
出演 アンヌ・パリロー
   ジャン=ユーグ・アングラード
   ジャンヌ・モロー
   チェッキー・カリョ
   ジャン・レノ
   ジャン・ブイーズ
   フィリップ・デュ・ジャネラン
   フィリップ・ルロワ

ストーリー
パリの路上に生きる粗暴な不良娘ニキータ(アンヌ・パリロー)。
麻薬中毒の彼女は薬屋を襲撃しようとして3人の警官を射殺してしまう。
ニキータは無期懲役刑を言い渡されるが、その生存能力の高さに政府の秘密機関が目をつけ、工作員として働くことを強要される。
初めは抵抗したニキータだったが、選択肢のないことを知り、教育係のボブ(チェッキー・カリョ)による厳しい訓練に耐え、先輩のアマンド(ジャンヌ・モロー)のアドバイスもあって3年後には美しい女殺し屋に変貌していた。
23歳の誕生日に初めて外出を許されたニキータは、ボブに連れていってもらったレストランで拳銃を与えられ、暗殺指令を受ける。
無事仕事をこなした彼女は一人前の秘密工作員として認められ、コードネームをもらった。
そんな日々の中、ニキータにも初めての恋が芽生えた。
相手はスーパーのレジ係マルコ(ジャン・ユーグ・アングラード)。
しかし婚約者となっても彼には秘密を打ち明けることはできなかった。
ソ連大使館から機密情報を奪取する指令を受け潜入するが失敗し身も心も疲れきったニキータにマルコは仕事をやめろと言う。


寸評
不良少女が工作員に仕立て上げられ活躍する話だが、一言でいえば非常にスタイリッシュな作品で、僕の思い込みもあるのかもしれないがフランス映画を感じさせる雰囲気を持っている。
圧倒的多数を占めるアメリカ映画なら、ニキータが秘密機関の工作員として鍛えられる場面では、過酷な訓練状況がこれでもかとばかりに描かれただろう。
武器の取り扱い、格闘技において熟練していく過程、レディとしての礼儀作法などをてきぱきと描いていくのがアメリカ映画の得意なところだが、この映画にはそのような演出は見られない。
また教官に反発するエピソードもアメリカ映画ならもっと執拗に描かれたのではないかと思われる。
ニキータの孤独、反抗、希望などの内面に潜んだ感情を雰囲気を醸し出しながら描き続けていくことで、ニキータはスーパー・ウーマンとして変質するのではなく、特異な能力を会得しながらも普通の女性の側面を残し続けているということを印象付けることに成功している。
僕はこの前半部分にフランス映画をすごく感じた。

一人前になって世に出たニキータにミッションが下るが、そのミッションは徐々に高度化していく。
その様子を描いていくだけなら女性が主人公のフランス版「ミッション・インポシブル」にすぎないのだが、彼女に恋し、彼女が恋する相手としてスーパーのレジ係マルコを登場させて作品を別なものに仕上げているのはリュック・ベッソンらしい。
さらに教育係のボブがニキータによせる微妙な感情も加わり、恋愛映画の様相も加味されていい雰囲気だ。
ニキータが巣立っていく時に「寂しくなるな」と言って廊下で壁にもたれかかるボブの姿が印象的だ。
ニキータが婚約した報告を聞いた時の振る舞いに僕は切なさを感じた。
不良少女時代や、訓練を受けている時の表情に比べ、マルコに見せるニキータの笑顔は魅力的だ。
この表情の変化がニキータの幸せ感を十分すぎるほど感じさせ、そのことで使命との狭間で苦しむ彼女の苦悩が伝わってきて、アンヌ・パリローあっての映画だなと思わせる。
自分の気持ちをしまい込んで、厳しいながらも温かくニキータを見守るボブのチェッキー・カリョも渋くていいが、やはりこの作品ではアンヌ・パリローの存在感が際立っている。

マルコは過去を語らないニキータに不信感を抱きながらも愛し続け支えているのだが、ニキータとの愛のささやき場面以外で彼の行動は描かれることはない。
愛せば愛すほど彼女のことが知りたいだろうし、彼女の行動に興味が湧いて当然だと思うが、それは割愛されていて、僕などは途中で、もしかすると彼もどこか別の国の工作員ではないのかとすら思ってしまったぐらいだ。
彼女の正体を知る経緯も描かれていいように思うが、マルコの突然の告白で終わり、サスペンスとしては少しあっけにとられた感が生じた。
それも意図したもので、ラストシーンでのボブとマルコの対面となったのだろう。
二人の会話は余韻を残した。
特にボブが再びつぶやく「寂しくなるな」は二人の感情を表していた。
結末を急いだ感がありながらも、このラストは余韻を残し、最後にこの映画の持つ雰囲気を締めくくった。

楢山節考

2019-12-03 09:20:05 | 映画
「楢山節考」 1958年 日本


監督 木下恵介
出演 田中絹代 高橋貞二 望月優子
   市川団子 小笠原慶子 東野英治郎
   宮口精二 伊藤雄之助 鬼笑介
   高木信夫 三津田健 吉田兵次

ストーリー
山また山の奥の日陰の村で、69歳のおりんは亭主に死に別れたあと、これも去年嫁に死なれた息子の辰平と孫のけさ吉たちの世話をしながら、息子の後妻をさがしていた。
村では70歳になると口減らしのための姥捨という楢山まいりに行くことになっていた。
やがて村一番の行事である楢山祭りの日、隣村からお玉という辰平の嫁が来た。
気だてのいい女で、おりんは安心して楢山へ行けると思った。
おりんの歯は子供たちの唄にうたわれるほど立派だった。
歯が丈夫だということは、食糧の乏しい村の年寄りとしては恥かしいことである。
そこでおりんは自分の歯を石臼にぶつけて欠いた。
これで支度はすっかり出来上り、あとは冬を待つばかりである。
おりんはねずみっ子(曽孫)が生れるまでに楢山へ行かねばと決心し、あと四日で正月という日、「明日山へ行く」といい出した。
辰平をせかして山へ行ったことのある人々を招び、酒を振舞ってお山まいりの作法を教示された。
次の夜、おりんはしぶりがちな辰平を責めたてて楢山へ向った。
おりんは死体のない岩陰に降り立ち、辰平に山を降りるよう合図した。
雪が降り出した。
辰平は禁を犯して山頂まで駈け登り、念仏を称えているおりんに「雪が降って来て運がいいなあ」と呼びかけると、おりんはうなずいて帰れと手を振った・・・。


寸評
映画の表現方法にチャレンジしたユニークな作品である。
歌舞伎様式を取り入れて撮影された”劇中劇”の形式をとった作品で、家屋、風景、樹木や岩、道、小川など全てがセットで、制作費としてはロケよりも金がかかっていると思われる。
背景の照明の色を変化させたり、幕や引き戸を移動させて場面を切り替える手法など、映画としての映像を作ることに対する真剣さが凄いと思うし、美術の伊藤熹朔 、梅田千代夫両氏の苦労が感じ取れる。
姥捨山に群がる大量のカラスには、ヒチコックの「鳥」にみられるような特殊処理(今ならコンピューター処理)も可能だったと思うが、実際にカラスを飛ばせている。
あえてセットと分かるように描かれた背景を見ていていると、多大な労力を費やして作り上げられたのだろうと場面が変わるたびに感心させられた。
浄瑠璃のような語りと三味線の音色がその気持ちを高める。
カメラワークは、あたかも歌舞伎の舞台を写しているかのように進められカット数は少ない。
映画特有の撮影技術は極力遠ざけられ、ロングでかつ静的な画面展開が中心となっている。
黒子が鳴らす拍子木の音とともに映画が始まり、歌舞伎舞台と同じような幕が落されて物語が始まるから、多分に歌舞伎を思わせる映画作りを目指したものであることは明白だ。

ストーリーは暗くて重いし、大きな山場があるわけでもない。
話の筋は分かっているのでつまらないと感じる部分があるし、映像処理の方にばかり目が行ってしまうという点はあるが、伝説とは言えこんな凄まじい状況が日本にあったということの恐ろしさを感じ取ることができる。
同時に家族という普遍的なテーマの中にあって、そこには愛もあれば憎しみもあるという複雑な状況が存在するということを冷酷に描いていることも感じ取れる。
母親のおりん(田中絹代)への愛を見せるのは辰平(高橋貞二)と後妻の玉やん(望月優子)である。
辰平は親思い、後妻の玉やんは義母の人柄にうたれて、いつまでも一緒に暮らしていたいと思うようになる。
逆に父親の又やん(宮口精二)を捨てに行く息子(伊藤雄之助)の方は、嫌がる父を谷底に突き落とす。
そして自分も谷底に落ちていくのは、その報いなのだろうが気持ちが暗くなる場面だ。
親なんかどうだっていい、役に立たない老人は早く山に行けと言うけさ吉(市川団子)のような子も居て、救われた気持ちが湧いてくる映画ではない。
貧しい村が口減らしの為に、年老いた親を奥深い山に捨てるという行為を子供にさせ、苦しまないで死ねるように雪が降る頃に山に捨てに行くという悲惨な話だから致し方のないことなのだろう。

おりんの一家が住む村は村落共同体の社会で、彼等は共同体の決まりの下に生きている。
共同体の秩序を乱した者に、共同体が罰を加える場面が出てくる。
貧しさのために泥棒を働いた男が、村人全員によってリンチを加えられ家族全員がひとり残らず殺されてしまう。
おりんが楢山参りと称する姥捨てを希望しているのは、それが村のしきたりだからである。
しきたりの中で生きることは窮屈なものだ。
玉やんが辰平に向かって「わたしらも70になったら、いっしょに山に行くんだわ」が印象的で悲しい言葉である。
人はいつかは死ぬのだが、僕の死にざまは一体どんなだろうと不安になる。

ナバロンの要塞

2019-12-02 08:31:55 | 映画
「ナバロンの要塞」 1961年 アメリカ


監督 J・リー・トンプソン
出演 グレゴリー・ペック
   デヴィッド・ニーヴン
   アンソニー・クイン
   アンソニー・クエイル
   ジェームズ・ダーレン
   スタンリー・ベイカー
   イレーネ・パパス
   ジア・スカラ

ストーリー
第二次大戦下の1943年、エーゲ海は独軍の制圧下にあり、ケーロス島の英軍2000の生命は全滅の危機にあった。
英軍救出の試みは度々なされたが、途中に睨みをきかすナバロン島の断崖の洞窟に据えられた独軍の2門の大砲のため失敗した。
そこでジェンセン代将の幕僚フランクリン少佐は1つの提言をした。
ナバロン島南部の400フィート絶壁をよじのぼり潜入するというのだ。
直ちに必要人員が集められた。
登山家のキース・マロリイ大尉、元ギリシャ軍大佐スタヴロウ、科学者のミラー伍長、ナイフの名人ブラウン無線兵、ナバロン島生まれのパパディモス1等兵の5人を率いたフランクリン少佐は漁船に乗り嵐の夜、ナバロン島に向った。
少佐は負傷したが一行は絶壁をよじのぼり島に上陸した。
これを知った独軍の追求を逃れ一行は要塞めざして潜行する。
山頂の古城で一行は男装の2人の女と出会う。
1人はマリアといいパパディモスの姉だった。
もう1人の若い女はアンナ。
2人ともレジスタンス運動に従っていたのだが、アンナは1度独軍に捕まり拷問され口がきけなくなっていた。
一行は彼女たちを加え進んだが、マンドラコスの町で全員捕まってしまう。
しかしスキを見てゲシュタポの隊長を捕らえ、これを囮りに独軍の制服を着込み脱出した。
しかし重傷のフランクリン少佐はそこへ残された。
いよいよ要塞攻撃の日、一行は要塞の間近かに迫った。
要塞破壊と同時にケーロス島の英軍救出に向かう英国艦隊が要塞の下を通ることになっている。
猶予は許されない。
ところが、いざというとき、爆弾のヒューズが何者かの手で破壊されていることを発見した。
スパイがいる・・・。


寸評
同じくアリステア・マクリーンの原作である「荒鷲の要塞」と見比べると、断然こちらの方が面白く仕上がっている。
戦争に題材を求めた冒険アクション映画と呼ぶべき作品で、ドイツ軍の要塞を爆破するだけの単純なストーリーをあの手この手の見せ場を盛り込み、理屈を語らず見るのにふさわしい娯楽映画だ。
登場人物の設定と描写を丁寧に描いているので、娯楽映画と言いながらも作品に深みを持たせている。
主人公であるグレゴリー・ペックとアンソニー・クインの間にある過去に起きた事件による確執。
グレゴリー・ペックの甘さが語られ、それがその後の彼の行動に影響を与えている描写や、ナイフによる殺人への嫌悪感を持つ兵士や、デビィッド・ニーヴンの一見正義ぶった兵士設定など細やかな配慮が全体を包んでいる。
まず最初に彼らを襲うのは嵐で、これがかなりの迫力で描かれている。
全体の三分の一を占める序盤から上陸までの上映時間中、見せ場には事欠かず見事なテンポで描いていく。
悪天候の中、断崖絶壁を登ってゆくスリルが画面を覆が、マロリーによって語られた因縁が隠し味となって緊張感を高めているのは前述でも少しふれた。
その後はサスペンス的要素も加わり、悪役であるドイツ兵を相手の攻防が次々と繰り広げられる。
このあたりの展開のスピーディさは脚本の妙によるものだと思うし功績大だ。
惜しむらくは、爆破すべき大砲の威力のすごさをもう少し描けていたらという思いはある。
冒頭でニュース映画もどきで撃沈される艦船が写されるがイマイチそのすごさが伝わらなかった。
戦争中では思いもよらぬ力が発揮されることがあるが、それを平和のために利用することが出来ればとか、裏切り者が語る悲痛な叫びとか、人間が起こした戦争に対するメッセージをそれとなくあくまでも自然に描いているところが娯楽作品としての成功要因だったと思う。
その後のドンパチ映画における映像技術の進歩は目を見張るものが有るが、それでもこの作品は再見に十二分に耐えうると思うし、映画史に名前を残しても良い作品だとも思う。