おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

われに撃つ用意あり

2020-08-16 07:49:17 | 映画
「われに撃つ用意あり READY TO SHOOT」 1990年 日本


監督 若松孝二
出演 原田芳雄 桃井かおり ルー・シュウリン
   蟹江敬三 松田ケイジ 室田日出男
   石橋蓮司 山口美也子 小倉一郎
   佐野史郎 麿赤兒 山谷初男

ストーリー
新宿・歌舞伎町。スナック“カシュカシュ”のマスター郷田克彦の前に、ヤクザに追われている女が現れる。
女の名はヤン・メイラン、台湾人である。
その頃、外では桜道会系戸井田組々長が銃殺される事件が発生し、新宿署のマル暴刑事・軍司が捜査を開始していた。
殺人現場にはVHS-Cビデオのアダプターが残されていたが中身のテープはなかった。
一方“カシュカシュ”では20年間続いたこの店の閉店パーティが行われており、克彦のかつての全共闘の同志である季律子、秋川、三宅らが集っていた。
中にはメイランの姿も見え、実は彼女がベトナム難民であり、偽造パスポートを持つ密国入者であることが判明する。
逃走のためのパスポートを取りに店を出たメイランは、戸井田組に追われるが克彦はそんな彼女を救出する。
一方、事件を追う軍司は、戸井田組がタイの女にパスポートをネタに売春させ、その女に組長が殺されたらしいことと、女がビデオテープを持っていることをつきとめた。
時を同じくして香港ヤクザが戸井田組々員を殺害する事件が起り、そこで軍司はビデオテープを発見する。
それは桜道会桜田のフィリピン女の殺人シーンだった。
メイランは克彦と仲間に戸井田に脅され、犯されそうになった時、銃が暴発して戸井田を殺してしまったことを打ち明ける。
そして対策を練っていた時、秋川が香港ヤクザに殺されてしまい、メイランもさらわれてしまう。
克彦は一人でメイランを救出することを決意、季律子は克彦と行動を共にして、二人はリボルバーを手に香港ヤクザのいるフィリピンパブへ向った。


寸評
郷田(原田芳雄)の店が閉店することになり、最後の日はなじみ客が集まって無料招待の閉店パーティを楽しむのだが、集まったのは郷田と同じ元全共闘のメンバー達がほとんどである。
そこで交わされる会話は僕たちの全共闘世代にはピタリとはまる。
僕はゲバ棒などを振り回した闘争派ではなく、いわゆるノンポリの日和見的な学生であったが、それでも1968年10月21日に東京都新宿区で発生した暴動事件は記憶にあり当時の熱気を思い起こす。
中核派などが明治公園及び日比谷野外音楽堂で集会を行った後、角材等で武装しながら続々と約2000人が新宿駅に集結して各所で機動隊と衝突したというものである。
郷田たちはその生き残りである。
今や彼等はいろんな職業に就いていて、スナックのマスターである郷田をはじめ、雑誌記者や都議会議員、予備校の講師などさまざまである。
彼等が当時の状況を語るシーンを今の僕が見ると、まさに僕自身でもあるように感じさせる。
学生運動でなくても、あらゆることに熱気をはらんでいた当時の世相とその中にいた僕自身を回顧する姿だ。
そしてその姿を見るとかつての情熱がどこかへ消え去ってしまったようで淋しさを感じる自分である。

そんなところへベトナム戦争の被害者と言ってもいいヤン・メイラン(呂?菱ルー・シュウリン)が逃げ込んでくる。
映画の構成的にベトナム戦争反対も当時の学生運動のスローガンの一つであった事と無縁ではない。
彼女とヤクザ組織のもめ事が原因で、これまた全共闘仲間で今はジャイアンツ狂いの秋川(石橋蓮司)が殺されてしまう。
その場面になって一番慌てふためくのが都議会議員となっている今井江里子(山口美也子)であるのは、社会的立場を重んじてきていることを伺わせて面白い。
郷田と李津子(桃井かおり)はかつて肉体関係があったようが、李津子は雑誌記者となって別の男性と所帯を持っていそうだ。
しかし李津子は郷田と共にヤン・メイランの救出に向かう。
深い絆で結びついているような郷田と李津子の雰囲気は何かしら暖かいものを感じさせられる。
なぜにそこまでヤン・メイランに肩入れするのかはよくわからないが、彼女がタイ国籍ながら元はベトナム人であることがその動機となっていると思うし、ベトナム反戦運動にかかわっていたことと無縁ではないだろう。
この二人が醸し出す雰囲気はすごくいい。
二人とも独特のセリフ回しを持っていて、特にけだるい話し方をする桃井かおりは面白い。
銃撃戦で腹部を撃たれて「撃たれたことがないからわかんなかったわよ」なんて最高だ。
再見すると、二人が寄り添うラストシーンは僕たちの者には郷愁をそそるたまらないシーンで、原田芳雄の渋い歌が流れると青春時代を思い出してしまう。

若松孝二はピンク映画の旗手というイメージのあった監督だが、やがて一般映画と呼んでいいジャンルの作品を撮るようになった。
社会性のあるテーマを持った作品を世に出したが、それらは難解なものではない骨太の作品だったように思う。
本作は僕にとってそれらの走りとなった作品である。

悪い奴ほどよく眠る

2020-08-15 10:38:56 | 映画
「悪い奴ほどよく眠る」 1960年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 加藤武 森雅之 志村喬
   西村晃 藤原釜足 三津田健 松本染升
   山茶花究 清水元 三橋達也 香川京子
   菅井きん 笠智衆 宮口精二 南原宏治
   土屋嘉男 中村伸郎 田中邦衛 藤田進

ストーリー
日本未利用土地開発公団の副総裁岩淵(森雅之)の娘佳子(香川京子)と、秘書の西幸一(三船敏郎)の結婚式は、異様な舞囲気に満ちていた。
政界、財界の名士を集めた披露宴が始まろうとする時、公団の課長補佐和田(藤原釜足)が、のりこんだ捜査二課の刑事に連れ去られた。
押しかけた新聞記者たちは、五年前、一課長補佐が自殺しただけでうやむやのうちに終った庁舎新築にからまる不正入札事件に、やはり現公団の副総裁岩淵と管理部長の守山(志村喬)、契約課長の白井(西村晃)が関係していたことを思いだした。
ウェディング・ケーキが運ばれてきたが、それは五年前の汚職の舞台となった新築庁舎の型をしていた。
しかも、自殺者が飛び降りた七階の窓には、真赤なバラが一輪突きささっていた。
その頃、検察当局には差出人不明の的確な密告状が連日のように舞いこんでいた。
そのため、開発公団と大竜建設の三十億円にのばる贈収賄事件も摘発寸前にあった。
だが肝心の証拠が逮捕した和田や大竜建設の経理担当三浦(清水元)の口から割りだすことができず拘留満期がきて二人は釈放された。
三浦は拘置所の門前で、トラックに身を投げ出して自殺、和田も行方不明となった。
翌日の新聞は、和田の自殺を報じた。
白井はその夜、自宅の街燈の下に和田の姿を見て、ショックのため気が狂った。
そんな白井が不正事件を発覚させないかと案じた大竜建設の波多野社長(松本染升)と金子専務(山茶花究)は岩淵と守山に白井の処分を命じた・・・。


寸評
「悪い奴ほどよく眠る」というタイトルがセンセーショナルで、巨大な権力の前では個人の力などは虚しいものであるとの皮肉が効いたものだが、その庶民の怒りの現れがズバリ「悪い奴ほどよく眠る」というタイトルで、もって行きようのない怒りの吐露として最後にもそのタイトルが表示されたのだろう。

オープニングは結婚披露宴の場面で、ベテランの新聞記者によって一気に登場人物の関係性を語らせ描き切っている。
長尺だし説明的な台詞が多いので、冒頭でまとめてやっておく必要があったのだろう。
開宴の前に公団の課長補佐が逮捕され、運ばれてくるビルをかたどった巨大なケーキでミステリー性を一気に高めるのだが、オロオロする事件の関係者はいいとして、その割には大騒動も起きず僕は少し物足りなさを感じた。
今見るとこの披露宴で違和感を感じるのはテーブル席の並びだった。
僕が出席した結婚披露宴で、このようなテーブル配置は見たことがない。
当時はそのようなものだったのか、カメラアングル的にそうしたのかは定かでない。

導入部としての披露宴のシーンが終わるといよいよ本筋が始まる。
西が和田の自殺場所にアッサリと現れるので、興味はどのようにして汚職の事実を暴いていくのかに移る。
ここで狂気の演技を見せるのが西村晃で、精神的に追い詰められていき、目はくぼみ、顔には死相を浮かべ、ついには発狂していく様子が面白い。
西はその目的のために岩淵の娘と結婚したのだが、香川京子の純粋さに触れ大いに悩みながら揺れ動くさまも描かれている。
そのことは後半で藤原釜足によって指摘されるのだが、前半の香川京子がグラスを落として倒れそうになる場面で、三橋達也を突き飛ばして寄り添う形で既に見せていた。
それでもその罪深さで妻を抱くことができず、香川京子の忍び泣きを聞かせて複雑な心境を描いているのは丁寧な脚本だ。
そして西に対する暴行シーンなどは描かずに、何が行われたのかを観客に想像させる演出も心理劇としての一貫した描き方だったと思う。

岩淵は可愛がっていた娘も欺く悪い奴だが、彼が電話でペコペコしている相手は一度も姿を現さない。
やがて選挙にも打って出ようとしている岩淵なので、その相手はおそらく大物政治家と思われるのだが、声も姿も出さない演出はタイトルからしてなかなかニクイものがあった。
所詮、その影の人物に比べれば岩淵も小者に過ぎないということだったと思う(森雅之は上手い)。
ただ西に「国民に代わって…」などと言わせたりするのは少し大層で、西が正義の味方みたいになってしまって緊迫感を削いだと思う。
和田に「役人は上司の迷惑なることは絶対に言わない」と言わせ、板倉に「チクショ!これでいいのか!」と叫ばせているが、告発映画としてこれでいいのかと思った。
これでは理不尽ではないかと、悲劇的な結末をより一層盛り上げるためだったのだろうが、やはり釈然としない。
「巨悪は見逃さない」と言った検事総長もいたんだがなあ…。

笑う蛙

2020-08-14 07:52:13 | 映画
「笑う蛙」 2002年 日本


監督 平山秀幸
出演 長塚京三 大塚寧々 國村隼
   雪村いづみ 三田村周三 南果歩

ストーリー
倉沢逸平(長塚京三)は、かつてエリート銀行員だったが、愛人に入れあげ顧客の預金を横領し立派な犯罪者となり失踪。
あとに残された妻の涼子(大塚寧々)は家を処分し実家の別荘に移り住む。
50歳を目前にし、逃亡に疲れた逸平が隠れ家にと思い出したのが、ほとんど使ってなかったこの別荘。
そして夫婦は当然の如くハチあわせ。
自首を勧める涼子と、逃亡を続けたい逸平の話は平行線かとおもわれたが、ここで涼子から「一週間かくまうので、出てゆくときに離婚届けの判を押せ」という提案がなされる。
涼子には現在、吉住(國村隼)という墓石屋の恋人がいて、再婚を望まれているのだ。
かくして逸平はこの別荘の納戸の住人となる。
そして壁の隙間から目にするのは、涼子と吉住の情事。
妻に対してとうに情は失っていると思っていたが、覗き見ているという状況も手伝って、逸平は激しい興奮を覚える。
目の前の涼子の姿態は、かつてないほど官能的であった。
僅かの距離であるだけに、絶対に手の出せない自分に逸平は激しく煩悶する。
涼子も逸平の目を意識しながら振舞っている自分が演技をしているのか、ありのままの自分なのか判らなくなってゆく。
妻という意識はとうに捨て去っていたはずなのに、夫の存在を体のどこかが勝手に感じて、それゆえにかつてない陶酔に溺れてゆく…。


寸評
前宣伝のストーリーを読むと、それはまるで谷崎潤一郎の世界を想像させるものだ。
納戸に隠れ住む夫が節穴から妻の情事を覗き見て激しい興奮を覚える・・・。
ところが実際は全くの喜劇で、そんなドロドロした本能の描写はない。
わずかに見える妻の姿態と、漏れ聞こえる歓喜の声は、実はマッサージをしてもらっているせいだったりする。
だから勝手な想像をして作品に対するイメージを持つと裏切られた気分になる。
前宣伝で紹介される物語の説明はペテンに近いものがあって、チョットひどいのでないかと思う。
しかしそれは宣伝部か配給会社の都合であって、平山秀幸の演出はそれとは関係なく冴えを見せる。

大塚寧々演ずる涼子の新しい恋人が國村隼という冴えないオッサンで、どうしてかっこいい男ではないのかと思っていたが、観終わると納得させられていた。
初めは中年男が入れ込んでいるだけの関係かと想像していたが、國村が立小便をしながら「お前もこんな所で出来ないと俺の嫁になれないぞ。広い墓ばかりじゃないんだから」などと高飛車に言う所をみると、まんざら一方的な関係ではなさそうな事が解る。
そしてそれが伏線になっていて、あるにわか雨の日、逸平が思わず洗濯物のシーツを取り入れたらその向こうに立ちションをしている國村がいて、その存在を悟られてしまうくだりなどは本当にうまいと思う。
出てくる人間は皆自分勝手で、國村演ずる吉住がいちばん素直なのも愉快だ。
もともと逸平は愛人(南果歩)をつくり、横領事件を起こして逃亡している男だし、妻の涼子も一番したたかな女で自分の人生を歩もうとしている。
母親の早苗(雪村いづみ)は男に貢いでいて別荘を処分しようとしているし、娘の咲子(金久美子)は反対にそのお金をあてにしている。
そのダンナ(きたろう)は中国人となにやら好き勝手なことをやっていて、どうやら愛人もいるようだ。
そんな風にそれぞれが勝手で、逸平に死んでもらうかどうかを多数決で決めようとしたりする。
そんなやり取りに人間のエゴが垣間見れて面白い。

雪村いづみが結婚しようとする相手役にミッキー・カーチスを持ってきたところなどは、かつての関係を知っている者にとってはそのサービス精神に思わず拍手したくなる。
時折やって来る刑事役の三田村周三も事件だけを追っかけているようで、大塚寧々にも気があるような感じもするし・・・。
大海を知らない井戸の中の蛙が笑ってしまうような人間模様だった。
蛙は何回登場したかなぁ?

わたしは、ダニエル・ブレイク

2020-08-13 08:21:47 | 映画
「わたしは、ダニエル・ブレイク」 2016年 イギリス フランス ベルギー


監督 ケン・ローチ
出演 デイヴ・ジョーンズ
   ヘイリー・スクワイアーズ
   ディラン・フィリップ・マキアナン
   ブリアナ・シャン
   ケイト・ラッター
   シャロン・パーシー
   ケマ・シカズウェ

ストーリー
イギリス北東部ある町ニューカッスル。
59歳のダニエル・ブレイクは、長年大工として働き、妻に先立たれた後も、一人できちんとした生活を送り、真っ当な人生を歩んでいた。
ところがある日、心臓病を患い、医者から仕事を止められる。
仕方なく国の援助を受けるべく手続きをしようとすると、複雑な制度に翻弄される。
お役所仕事に次々と阻まれ、ひたすら右往左往するハメに。
すっかり途方に暮れてしまうダニエルだったが、そんな時、助けを求める若い女性に対する職員の心ない対応を目の当たりにして、ついに彼の堪忍袋の緒が切れる。
彼女は、幼い2人の子どもを抱えたシングルマザーのケイティ。
これをきっかけに、ダニエルとケイティ親子との思いがけない交流が始まり、貧しくとも助け合い絆を深めていくが、厳しい現実を前に次第に追い詰められていく。


寸評
映画が始まると無映像のクレジットにかぶせて、ダニエルと役所のやり取りが流れてくる。
この時点で、心臓病なのに「手が挙げられるか」とか「帽子がかぶれるか」とかの全然関係ない質問をする職員の態度に笑ってしまうと同時にあきれてしまう。
マニュアル通りの対応をするのはファストフード店やコンビニのアルバイトの対応でも経験することだが、役所の門切り方の対応を苦々しく思っている経験のある者にとってはダニエルのイライラがよくわかる。
その挙句に「不支給」の結論がでたとあっては普通の人間なら爆発しそうなのだが、ダニエルは律儀に対応する。
その涙ぐましい態度に不謹慎ながら笑ってしまう。
抗議する電話をかければ1時間以上も保留音が鳴り続ける始末で、これも役所に限らず自動応答システムでよく経験することだ。
受付担当を番号で何度も答えさせ、やっとたどり着いたと思えば「ただいま混雑していますのでしばらくお待ちください」のアナウンスがいつまでも流れ続けけるということを経験していない人はいないのではないか。
イギリスの手当金制度がどのようなものなのかは知らないが、なにか複雑なものを感じさせる。
ダニエルは別の手当てを申請しようとすると、受付はオンラインのみだと言われ、パソコンなど持っていないダニエルは困ってしまうし、ましてやパソコン操作などできないのだ。
確かにいまはネットワーク時代で、何でもかんでもインターネットで手続きを行うようになってきた。
今のところ僕は困っていないし便利だと思うこともあるが、パソコンのない人や、インターネットが使えない人はどうするのだといった場面には時々出会う。
ダニエルが経験することはあまりにも理不尽だ。
この理不尽さに笑ってしまうのだが、その笑いはブラックジョークでもある。

国の規定という抗いようのないシステムと、そのシステムを運営する硬直化した組織にダニエルは挑むが、ことごとく跳ね返されてしまう。
融通の利かない社会システムと同時に描かれるのが貧困問題だ。
ダニエルは困っている人を見捨てられないあたたかい人物だが、自分も貧しいのでその対象者であるケイティを救うことが出来ない。
ダニエルもケイティも自身のアイデンティティを持っているが、それさえも奪われていってしまうのが貧困だ。
シングルマザーのケイティはどんどん崩れていってしまう。
「どうして彼等のような人たちがこんな理不尽な目にあうのだろう」との気持ちが自然と湧いてくる。
ダニエルに対して拍手喝采する人々の姿は、ダニエルへの励ましでもあり未来への希望でもある。
決してハッピーエンドではないが、「頑張れ!」の声援だけは送りたくなった。
そう思わせたのは、作品を通じて監督ケン・ローチの社会への抗議が伝わったからだろう。

私の男

2020-08-12 08:36:27 | 映画
「私の男」 2013年 日本


監督 熊切和嘉
出演 浅野忠信 二階堂ふみ 高良健吾 藤竜也
   モロ師岡 河井青葉 山田望叶 三浦誠己
   三浦貴大 安藤玉恵 竹原ピストル
   中野太賀 相楽樹 吉村実子

ストーリー
奥尻島を襲った津波によって、花は家族を失い孤児となってしまった。
避難所に身を寄せていた花のところへ、遠い親戚だという腐野淳悟が迎えに来て、花は引き取られる。
ふたりは雪と流氷に閉ざされた北海道紋別の田舎町でひっそりと暮らしていた。
高校生になった花をいつも気にかけてくれるのは、地元の名士で遠縁でもある大塩老人。
淳悟は海上保安官で、1度海に出ると10日ほど家を空けることになる。
大塩の孫・小町は淳悟と交際していたが、花と淳悟の濃密な関係に異様なものを感じ、淳悟と別れて東京に行ってしまう。
淳悟と花は肉体関係にあり、ある日2人が交わっている現場を大塩が目撃する。
大塩はふたりを別れさせようと花を説得するが、思いも寄らぬ事件が起こり、淳悟と花は逃げるように紋別を去って関東に移り、淳悟はタクシー運転手として生活する。
ある日、淳悟の元に田岡が来て、大塩の死体の傍に花の眼鏡があったことを告げる。
そのことで再び事件が起きてしまう。
受付嬢として働き始めた花に好意を寄せた尾崎は淳悟が花の面倒を見る様子に、父と娘の関係以上のものを見てショックを受ける。
花と淳悟の関係は、限界にきていた。
婚約した花は婚約者・大輔を紹介するために、父・淳悟を呼び出した。
3年ぶりの再会であったが、しかし淳悟と花との間に時間は関係なかった・・・。


寸評
禁断の愛を描いたドラマで、親子ではあるが親子ではない男と女の官能的な愛欲シーンは妙にリアルで生々しく、無垢な少女である花の感情表現がそのリアルさを引き出しているのだが、その花を演じた二階堂ふみがすこぶるいい。
二階堂ふみの二階堂ふみによる映画といっても過言でない。

冒頭で真っ暗な画面が明るくなると眩いばかりの真っ白な流氷が映し出され、主人公の花が海面から出てきて微笑むミステリアスなシーンに泥だらけの少女の顔が一瞬インサートされる。
その少女は花の幼い頃の姿で、奥尻島の津波の被害者であった花の姿である。
やがて被災者である花の様子が描かれるが、花はこの時点ですでに一風変わった子であることが想像できる。
一人ぼっちになってしまったのに泣くこともなく気丈な子であるようなのだが、体育館に収容された遺体を蹴飛ばしてその死を確認するような子供でもあり、屈折した心を持つ子だと認識させられる。
やがて淳悟が現れ、「今日からお前のものだと」告げる。
そこに至るまでの淳悟の態度も何かミステリアスで、先行きに対する不安感はどんどん大きくなっていく。
花は高校生になってもミステリアスな女の子で、淳悟と関係のある小町に出会た時に「この世の終わりだ」とつぶやくのだが、言われた小町にも観客にもそれがなんのことだか分からない。
しかし、その後に映しだされた墨絵のような荒れた海の景色を見ると、自分たちの周りを取り巻く環境の崩壊を意味していたのかもしれないなと思う。
二人は純粋に家族を作りたかったのだろうが、様々な思いと不器用さが重なり、どうしようもなく深みにはまっていく様が痛々しい。
そんな二人の心象風景を繊細に切り取るように挿入される冬の北海道の景色がとてつもなく美しい。
描かれるのは冬の北海道紋別の景色である。
それにジム・オルークによる音楽が重なると効果てきめんで、それだけで単純な僕などは感情移入してしまう。
流氷上での花と大塩が対峙するシーンや、血の雨に包まれていく花と淳悟のセックスシーンなど、まるでアートかと思わせる映像が散りばめられている。
そこに至る直前の帰宅シーンから朝食時のシーンへと場面が切り替わるに従って、ふたりの行動はエスカレートし血の雨の中での交わりとなる地獄絵が展開される。
心が欲しかった淳悟だが、感情が人を狂わした場面でもあり、神が許さない行為を花が許した場面でもあった。

淳悟は花の前に現れた男に対して異様さを見せ、尾崎には体の匂いに花を感じ、指の匂いでその行為を見抜くし、婚約者・大輔には「お前には無理だ」とつぶやく。
花を愛せるのは自分だけだとの思いでもあり、花が愛せるのも自分だけだとの思いでもあるのだろう。
ラストは衝撃的。
最後に花は何かを言うが、声は聞こえない。
僕は唇を読み損ねてしまったが、おそらく淳悟を誘う言葉ではなかったか?
淳悟が直前に花の結婚相手に発する「お前には無理だ」の言葉と相まって、ちょっと怖くなってしまうラストだ。
この二人の神に逆らう生活は続いていくことを予感させるが、しかし救われないよなあ・・・。


私が棄てた女

2020-08-11 08:29:12 | 映画
「私が棄てた女」 1969年 日本


監督 浦山桐郎
出演 河原崎長一郎 浅丘ルリ子 加藤治子 小林トシ江
   加藤武 岸輝子 夏海千佳子 江角英明 江守徹
   山根久幸 辰巳柳太郎 織賀邦江 大滝秀治
   小沢昭一 遠藤周作 佐野浅夫 園佳也子

ストーリー
自動車の部品会社に勤める吉岡努(河原崎長一郎)は、専務の姪のマリ子(浅丘ルリ子)との結婚を控えていたが、かつては学生運動に青春を燃やした自分が、いまは刹那的な快楽と利益を追う並みの人間の一人になっているのを自覚していて楽しくはなかった。
ある夜、努は旧友の長島(江守徹)らとクラブの女を抱いたのだが、その女から努はミツ(小林トシ江)の噂を聞いて愕然とした。
ミツは努が学生時代に遊び相手として見つけた女工だった。
愛情もなく、肉体だけのつながり、将来への希望もない中で努が肉体だけを楽しむだけ楽しんだ上、海岸におきざりにして逃げてきた女、それがミツだった。
下宿も変えた努に、ミツが子供を中絶したことなど知る由もなかった。
こうしてミツとの関係を断ってから、努は今の会社に勤め、マリ子から愛された。
社長一家との顔合せに向かう途中で努は偶然ミツを見かけ追いかける。
努の心には、ミツを無残に見捨てたことへの慚愧の思いがあったのだ。
とにかく、努はマリ子と結婚した。
一方、ミツはその頃、借金をかかえて失意の日を送っていたが、女工時代からの仲間しま子(夏海千佳子)から努の結婚のニュースを聞いた。
その頃、努は都心のアパートに新居を構えたが、何かしっくりゆかなかった。
ある日、努は業者の接待にきたホステスのしま子からミツの近況を聞きミツに会った。
いつか二人は結ばれたが、その様子をしま子の情夫武隈(江角英明)が撮影していた。
やがてマリ子の許にかつて努がミツに送ったラブレターが送られてきた。


寸評
「私が棄てた女」というタイトルであるが、読み替えれば「私たちが棄てたもの」と言えるかもしれない。
それは多分、「愛」だろう。
吉岡は打算的な男で、社長の孫にはご機嫌を取りながらも、陰では「あのクソガキ」とののしっている。
しかしこの態度はサラリーマンなら誰もが取るであろう態度である。
ゴマスリとまで行かなくても、不本意であっても社長のご機嫌を損ねないように振舞うのは当然な行為だ。
浅丘ルリ子がマリ子を演じていて、そして彼女は専務の姪ということで、吉岡の勤めている会社は大会社のようなイメージを抱いてしまうが、内容からして勤めている会社は中堅企業である。
サラリーマンの人数としては一番多い規模だろう。
それだけに誰にでもあるであろうと思わせる内容となっている。

タイトルからすれば森田ミツがメインとなる人物なのだろうが、登場の割には以外お影が薄く、マリ子や吉岡、そして、長島やしま子などののキャラクターが印象深い。
吉岡もミツも田舎の貧しい育ちだが、吉岡はミツの話す言葉に「正しい日本語を話せ」と都会面をして、さして器量が良くない田舎臭さも抜けないミツを見下している。
吉岡の母親は大学を卒業して出世街道を走る息子を自慢に思っているが、吉岡もそんな自分にうぬぼれているところがあり、吉岡から見れば上流階級にいるマリ子にも臆するところはない。
しかし、多分、マリ子たちの居る環境に対する反抗心は潜在的にあって、それが一族との顔合わせ場面で爆発したのだと思う。
泥酔した吉岡は前後不覚となり女たちによって介抱されるが、僕にはすごく生々しいシーンに感じられた。
吉岡は60年安保の挫折による反動で俗欲に徹した生き方をする長島と違って、彼と似たような身の振り方をしつつも彼ほどには割り切ったものがなく、煮え切らない部分を残しているという事だろう。

登場人物の中でミツだけは純真だ。
心底から吉岡を愛していたのだろう。
だから吉岡の子供を堕胎することになっても、決して吉岡を責めることも恨むこともしていない。
吉岡との思い出だけを大事にして生きている女である。
ミツの死は自殺ではない。
ミツは吉岡の重荷になることを恐れて死を選んだのではないかと思う。
破綻をきたしたかと思われる吉岡とマリ子だが、ミツの死後にマリ子も子供を宿し平穏を保っているようだ。
しかしマリ子が「どうして生きて私を苦しめなかったのか」とつぶやいたところで、ミツの写真や吉岡の出したミツへのラブレターを焼こうとも、マリ子の心の中からミツの存在は消えないだろう。
吉岡も平和な家庭に生きながらも、折に触れて自分が一番愛した女性はミツだったのだと思い出す欺瞞の一生を送るのだろう。
浦山のデビュー作である「キューポラのある街」のラストシーンには希望を感じたけれど、「私が棄てた女」には希望を感じさせるものはない。
それでも僕は、「私が棄てた女」が浦山桐郎の最高傑作だと思う。

わが母の記

2020-08-10 08:43:46 | 映画
「わが母の記」 2011年 日本


監督 原田眞人
出演 役所広司 樹木希林 宮崎あおい 三國連太郎
   南果歩 キムラ緑子 美村里江 菊池亜希子
   三浦貴大 真野恵里菜 赤間麻里子

ストーリー
1959年。小説家の伊上洪作は、父・隼人の見舞いに行った両親の家から東京の自宅に帰ってくる。
妻の美津、長女の郁子、二女の紀子が、伊上の新作小説にせっせと検印を捺している。
それはベストセラー作家の家族の大切な仕事であったが、三女の琴子の姿はない。
自室にこもって夕食にも降りて来ない琴子に不満を募らせる伊上。
深夜、持ち直したかに見えた隼人の訃報が入る。
1960年。父亡き後、伊上の妹・桑子が母・八重の面倒を見ているが、八重の物忘れはひどくなっていく。
1963年。八重の誕生日に、川奈ホテルに集まる一族。
伊上のもうひとりの妹・志賀子、夫の明夫、運転手の瀬川、秘書の珠代も参加しての盛大なお祝い会だが、八重の記憶はさらに薄れていた。
1966年。結婚した郁子が赤ん坊を抱いて里帰りした日、湯ヶ島は大騒ぎになっていた。
八重が、交通事故に遭って家で療養している明夫を罵倒するというのだ。
しばらく伊上が引きとることになり、琴子の提案で、八重は軽井沢の別荘で暮らし、琴子と瀬川、手伝いの貞代の3人で面倒を見ることに。
1969年。伊上が5歳の時から8年間、伊豆の山奥の土蔵で彼を育てた曾祖父の妾・おぬいの五十回忌の法要で、顔を合わせる一族。
琴子はプロの写真家になり、瀬川と付き合っていて、紀子はハワイへの留学を父に許される。
八重は夜に徘徊するようになり、もう誰が誰かも分からなくなっていた。
ある朝、おぬいに息子を奪われたという八重の言葉に感情を抑えられなくなった伊上は・・・・。


寸評
母と子、父と娘の確執の物語だが、確執といっても激しいケンカがあるわけでもなく、和解といっても劇的なシーンが展開されるわけでもない。
母と子の自然な情愛、そして家族の絆が胸を打ち、じんわりと感動が押し寄せてくる静かな映画だ。
劇中で「東京物語」のことがほんの少し触れられるが、小津映画の現代版のような印象を持つユーモアと思いやりにあふれた作品だった。
母の八重は徐々に認知症が進んでいくのだが、これが微妙で、ボケているのかとぼけているのか分からないような言動を繰り返す。
都合のいいことだけ思い出したりして、その人を食った態度が笑いを誘い、深刻になりがちなテーマを和ませる。
作家の家族作品としては壇一雄家を描いた深作欣二監督作品の「家宅の人」などもあったが、そこに描かれたような愛憎劇はない。
吾川弘之のお嬢さんである阿川佐和子さんが「うちはあんなに静かじゃありませんでしたわ」とおっしゃっていたように、時折洪作の怒鳴り声があるものの、あくまでも静かに静かに物語は進む。
過去のトラウマで、自分の娘たちには必要以上に干渉してしまう姿や、反抗期の三女・琴子の洪作への反発や、二女の紀子が秘めていた不満も描かれるが、それらもいつの間にか全体の流れの中に吸収されてしまって、何事もなかったかのように処理されてしまう。
なんだか昭和の家族の温かさを思い出すような感じだった。
実は私も母親と少なからず確執が有って、なぜそうなったのかもわからないまま、十分にその溝を埋めきることもできず母を見送っている。
病院の風呂で自由が利かなくなってきていた母親の背中を流してやったことだけが重なり、沼津の海岸での情感あふれるシーンを羨ましく思った。

宮崎あおいのセーラー服姿は違和感がなく、まだまだ幅広い年齢をこなせる役者さんを実感させた。
役所広司と樹木希林の絡みは役者によるがっぷり四つの芝居という感じだが、宮崎あおいと樹木希林によるセリフのからみは実に自然で好感が持てた。
洪作の父・隼人の葬式の日、琴子がお父さんの小さい時はどんなだったかと聞く場面がある。
その時、樹木希林の八重は「海峡を探してた子だったねえ」と答え、琴子が「おばあちゃんて詩人・・・」という微笑ましい場面だ。
その海峡を探していたということの意味が後半で明かされて感動をもたらす。
洪作にとって海峡は自分と母をわけ隔てていたものだったのかもしれない。
女たちは強い。二女の紀子は留学して何人もボーイフレンドを代えるようになるし、琴子は作家志望の運転手である瀬川に自分を取るか、先生である父を取るかと迫る。
妻の美津は洪作の思い違いを知っているが、思い違いをしていた方が良い作品が書けるとして忠告しない。
とは言ってもこの作品、樹木希林の独断場でこんな役をやらせると上手いなあと感心させられた。
二人の妹役のキムラ緑子と南果歩が脇をガッチリと固めて、キャスティングの妙が見られた。
それにしても井上靖ぐらいになるといい暮らししてたんだなあ~と少しやっかみ気分。
ブーブー兄ちゃんの瀬川君のモデルはドイツ文学者の福田宏年氏であることを知る。

わが青春に悔なし

2020-08-09 08:26:33 | 映画
「わが青春に悔なし」 1946年 日本


監督 黒澤明
出演 大河内傳次郎 三好栄子 原節子 藤田進
   高堂国典 杉村春子 河野秋武 清水将夫
   田中春男 千葉一郎 米倉勇 志村喬

ストーリー
目のさめるような若葉の京都吉田山、野毛、糸川達大学生七人組とその師八木原教授とその奥さん、そして一人娘の幸枝などにとって今日は楽しいピクニックであったのだが、折からの陸軍演習の機銃音にその自由の夢も奪い去られた。
時、昭和八年、満州事変を契機に軍閥の帝國主義的侵略の野望強行のため八木原教授は追放され、常識家の糸川は残留、野毛は大学を去って左翼運動へいつしか踏み込んでいた。
幸枝は、秀才型で社交家の糸川より、熱烈な行動派の野毛に対して何かギラギラ眼の眩むような生活があるような気がしていたのであったが、刑を終えて出獄した野毛の転向ぶりには落胆せざるを得ない彼女だった。
昭和十六年、学園を追われた八木原は今では民間無料法律事務所を開設していた。
幸枝は東京に自活の道を求めて上京したが、計らずも今は検事となった糸川に逢い、野毛の出京していることを知らされた。
野毛は中国研究に名を借りて反戦運動に没頭していた。
自己の信念に悔いなしと改めて野毛に面会した幸枝はお互いに信じ合う仲となり、楽しかるべき同棲も束の間、野毛は国際スパイの汚名のもと検挙された。
幸枝も毒いちごと称する特高警察のあらゆる屈辱に堪え愛人野毛のために戦った。
ある日、上京した八木原は野毛のために弁護人に立つことを請願したが、野毛事件の担任検事糸川の口より野毛の獄死したことを聞かされ愕然とする。
この嘆きを包みかくして幸枝は良人亡きあと田舎で百姓をしている野毛の両親の下に走ったのだが・・・。


寸評
昭和21年と言えばGHQの指導によって民主主義啓蒙映画が盛んに作られていた時期だと思うが、この映画はその意向に沿っているとは言えお仕着せではない主張と力強さを持っている。
お嬢様女優の印象が強い原節子であるが、後半の農村での泥まみれの姿は別人の原節子を見るようだった。
この作品での原節子は実に強烈な自我の持ち主として描かれている。
幸せだが退屈な生活より、パッと輝くような自分に正直な生き方をしたいと考えている女性である。
正しいと思えばあとは真実一路で一切の妥協を許さずとことん進んでいく。
野毛の田舎で百姓をする幸枝を訪ねた糸川が「こんな人を心配することは無駄だと両親に言っておきます」と言わせるぐらに自分の道を突き進んでいる。
女性の自立を強烈に描いていたが、時期的に見て堂々と主張する女性を描いた最初の映画かも知れない。

話は幸枝を中心にして野毛と糸川を対比させながら進んでいく。
京大の学生たちが吉田山にピクニックに行くシーンから始まるが、そこで野毛と糸川がお互いに幸枝を好いていることが匂わされる。
そしてどこか引っ込み思案な糸川に対して、万事積極的で一途な野毛という性格描写も行われている。
幸枝は糸川の安全な生き方が理解できず、野毛の一本気な生き方に共感を覚えるが、糸川の変節とも思える態度は貧しさの中で息子に期待する母親の懇願によるもので、このことは幸枝が野毛の両親の元へ走る大きな伏線になっていたと思う。
母子家庭の僕も母親や親戚の者から「母親の期待を裏切るな。ゲバ棒を振り回す学生運動には参加するな」と諭されたもので、糸川の立場は理解できるのだがお嬢様育ちの幸枝にはそれが分からない。
野毛は逮捕され、出獄してきたときには変節してしまったような野毛に幸枝はがっかりするが、八木原教授は野毛の本心を見抜いていて野毛の活動の伏線になっている。
野毛との別れのシーンで、原節子がドアのところで立ちつくした描き方は、彼女の悲しむ色んなポーズをオーバーラップで描き、感情の起伏を見事に描いていた。
ここで用いられたオーバーラップはその後もあちこちの場面で用いられている。
特に田んぼのシーンではオーバーラップが延々と行われ、村八分にされながらも野良仕事を続ける迫力がひしひしと伝わってきた。
直前に描かれた村人たちの幸枝たちを白眼視する姿のカット数の多さも、より一層その姿を迫力あるものにしていたと思う。

八木原教授は「自由の裏には苦しい犠牲と責任がある」と言い、野毛は「顧みて悔いのない生活」と言う。
幸枝はかけがえのない二人の言葉をかみしめ、常識派の糸川は野毛の墓参を幸枝に拒否される。
戦争が終わり、実家に帰った幸枝が今度は婦人運動の指導者として頑張ることを決意して、再び野毛の両親がいる田舎へ帰っていく。
村人たちが尊敬の念をもって幸枝を迎えるのはあざといが、女性の未来を祝福するラストとしては良かった。
今は女性の活躍する場も増えてきたが、ますますその場を増やしていこうという政策が行われている。
しかし幸枝の様な、と言うより原節子が演じた日本女性はいなくなってしまったような気がする。

わが命つきるとも

2020-08-08 08:38:04 | 映画
「わが命つきるとも」 1966年 イギリス


監督 フレッド・ジンネマン
出演 ポール・スコフィールド
   ウェンディ・ヒラー
   レオ・マッカーン
   ロバート・ショウ
   オーソン・ウェルズ
   スザンナ・ヨーク

ストーリー
528年、英国。イングランド国王ヘンリー8世(ロバート・ショウ)は、若く精力旺盛であった。
彼は王妃キャサリンと離婚し、王妃の侍女であるアン・ブーリンとの結婚を考えていた。
しかしローマ・カトリックが国教であるイングランド国王の離婚には、ローマ法王の許しを得る必要があった。
王の2度目の結婚を法王に弁護できる者は、サー・トマス・モア(ポール・スコフィールド)だけだと考えられた。
モアは王の高等評議会の一員で信仰心あつく、ヨーロッパ中の人々から愛されていた。
ある時、モアがチェルシーの領地で、妻のアリス(ウェンディ・ヒラー)、娘のマーガレット(スザンナ・ヨーク)や友人たちとの宴を楽しんでいると、ウォルジー枢機卿(オーソン・ウエルズ)からの使いが来て、ハンプトン宮殿へ召喚された。
ウォルジー枢機卿はモアに離婚を法王が承認するよう取りはからうように依頼するが、モアはそれを拒否した。
1年後、ウォルジー枢機卿は王の離婚実現に失敗し、大寺院で寂しく死んだ。
今や大法官の地位に就いているモアは、モアの館を訪れた王に忠誠こそ誓ったがローマ・カトリックへの信仰から王の離婚に決して賛成しなかった。
間もなく評議会がカンタベリー大寺院で招集され、国王はローマ法王に対する忠誠を放棄し、自ら英国教会の主となることが発表され、そうして王はキャサリンと離婚し、アン・ブーリンと結婚式を挙げた。
大法官の地位を棄てて、一市井人として静かな生活を送っていたモアだったが、ヘンリー8世が発布した国王至上法に反対したため、大法官秘書クロムウェル(レオ・マッカーン)の策により、査問委員会にかけられる。
遂にモアは反逆罪で逮捕され、ロンドン塔に幽閉された彼は裁判で死刑宣告を受ける。
モアは長い沈黙を破り、こう宣言した。
「私は王の忠実な召使いとして死にます。だが王よりも第一に神のために死ぬのです!」と。


寸評
世界史の授業において宗教改革を学んだ記憶がある。
浅学非才の僕は各国に起こったその内容がどのようなものだったのかの知識を失っている。
それでもトーマス・モアやヘンリー8世の名前は記憶に残っている。
別人の記憶かも知れないがクロムウェルの名前も脳裏にある。
しかしイギリスで起きた宗教改革の裏で、ヘンリー8世の愛人問題と離婚問題があったことは授業の中で聞いた記憶がない。
歴史上の事件が女性を巡って起きていることは少なくないようなのだが授業の中で語られることはない。
この映画を見るとヘンリー8世の離婚問題が根底にあったことがよくわかる。
作品はその間の愛憎劇を描いたものではなくて、人が自分の信念を貫き通すことの崇高さを歌い上げている。
したがって渦中の人であるはずのアン・ブーリンは最後に登場するだけで、王妃キャサリンも登場しない。
アン・ブーリンを演じたのは当初マーガレット役として白羽の矢が立ったヴァネッサ・レッドグレイヴなのだが、監督たっての願いを受け入れたもので、彼女のクレジットはなくギャラも無報酬だったと伝え聞く(余談)。

トーマス・モアは官僚で最高位の大法官に就任したのだが、ヘンリー8世の離婚問題でその職を辞任する。
やがてクロムウェルが主導した国王至上法(国王をイングランド国教会の長とする)にカトリック信徒の立場から反対したことにより査問委員会にかけられ、反逆罪とされてロンドン塔に幽閉されてしまう。
トーマス・モアが大法官を辞任し、そして国王への反対運動を起こしているわけでもないのに処刑に追い込まれていくわけが僕にはよく理解できなかった。
自分は目的を達成しているのだから、あえてトマス・モアを処刑する必要があったのだろうか。
理由はあったのだろうが、そのへんの事情は描かれていなかったように思う。
国王のトーマス・モアへの何かしらの嫉妬があったのかもしれない。
例えば、ヘンリー8世よりもトマス・モアが庶民の間で絶大な人気を博していていて、それを快く思っていないとか。

トマス・モアは斬首刑に処されてしまう。
彼は「王より神に従う」と言って斬首されたのだが、彼が従ったと言う神とは何だったのか。
それは「ローマカトリック教会」か「法王」に従ったということではないのか。
僕が受ける印象としては、どうも主イエスに従ったと言う風に感じなかった。
すっきりとした感覚でこの作品に馴染めなかったのは、僕がキリスト教徒ではないことに加えて、イギリス史に詳しくないせいかもしれないなあと思ったりする。

その後のことがスーパーで表示される。
それを主導したクロムウェルもやがて同様に反逆罪で処刑され、ヘンリー8世は梅毒で死亡することになる。
功名心の塊で、偽証もした卑怯者のリッチは大法官に上り詰めている。
これが人生の彩と言うべきものなのだろうか。
リッチが大出世して大法官になるなんて、それこそ神様なんていないのかと思ってしまう。
この時代の作品として、衣装だけは素晴らしいし、イギリスの田園風景も作品全体の雰囲気を醸し出していた。

ワイルド・レンジ 最後の銃撃

2020-08-07 08:47:40 | 映画
「ワイルド・レンジ 最後の銃撃」 2003年 アメリカ


監督 ケヴィン・コスナー
出演 ロバート・デュヴァル
   ケヴィン・コスナー
   アネット・ベニング
   マイケル・ガンボン
   マイケル・ジェッター
   ディエゴ・ルナ

ストーリー
1882年、アメリカ西部の雄大な大自然の中で、牛を追う4人の男たちがいた。
牧場を持たずに草原から草原へと自由気ままに移動しながら牛を育てる“オープン・レンジ”とも“フリー・グレイザー”とも呼ばれる牧畜を行っている男たちだ。
「ボス」と呼ばれるリーダーのスピアマン、その右腕で銃の名手のチャーリー、太っちょで気の優しい料理人のモーズ、まだ子供のようなメキシコ人の少年バトンの4人である。
ある日、買い物に出かけたモーズが帰ってこないので、ボスとチャーリーは近くの町モーハン郡へ出かける。
すると、モーズは商店で暴れたとして留置場に入れられていた。
殴られたモーズの顔を見て、2人は保安官に真相を話すよう迫るが、逆に街の顔役である牧場主のバクスターから、もはや“フリー・グレイザー”の時代ではないとして町を出て行くよう強要される。
ボスたちは町外れの医院を訪れ、医者と美女スーにモーズを手当てしてもらった後、キャンプ地に戻り、モーズの回復を待つことにした。
そんなある日、遠くから4人の白覆面をつけた男たちが、ボス一行を威嚇する。
その夜、ボスとチャーリーは森の中でその男たちを痛めつけるが、キャンプ地に戻るとモーズは撃ち殺され、バトンは重傷を負っていた。
バトンを幌馬車に乗せて例の医院に連れてゆき、スーの治療を受けた後、ボスとチャーリーはバクスターとの対決を決意する。
町の人々は彼らに同情的だったが、バクスターの言いなりの保安官や手下のガンマンたちの恐怖支配に慣れてしまっていた。
雨上がりの朝、襲ってきた保安官たちを逆に縛り上げたボスとチャーリーは、チャーリーに想いを寄せるスーを残し、バクスターに挑戦状を叩きつけた。


寸評
西部開拓時代末期のアメリカ西部を舞台に、カウボーイたちの正義と名誉をかけた闘いを雄大な自然を背景に描いた本格的な西部劇だが、何よりもジェームズ・ミューローのカメラがいい。
冒頭から西部の自然が美しく切り取られ、カメラアングルやそれぞれのショットも決まっている。
物語は牛追いをしている男たちがたどり着いた町の牧場主から迫害を受けるところから始まる。
通常の西部劇だと、牛追いたちが度重なる嫌がらせに我慢に我慢を重ねているが、ついに堪忍袋の緒が切れて対決に向かうという筋立てで描かれるところだ。
しかし本作ではボスやチャーリーは最初から戦闘的で、無駄なシーンがない痛快な西部劇となっている。
モーズが痛めつけられたり、殺されてしまったりしているが、ボスやチャーリーは我慢することなく直ちに復讐行動を起こしている。
野宿している相手を襲う行動をすぐさま起こしていて、彼らをやっつける場面描写も手際のよいものだ。
牛追い人に圧力をかけるように現れた男たちは、白人至上主義を唱えるKKK団を思わせる目だけを出す白覆面をかぶっている。
警告を発するための装束なのだろうが、覆面姿である必要性はあまりなかったように思う。
白覆面効果が出ていたのは、幻想で襲われる場面を感じたチャーリーがとっさの行動を起こす場面くらいで、この場面の為に白覆面は用意されていたのだろうか。
しかしこの場面は西部劇におけるサスペンス的な効果を上手く引き出していたし、チャーリーの人格描写としても変化をもたらし良かったように思う。

牛追い人のボスとチャーリーのコンビネーションが抜群で、特にボスのロバート・デュヴァルが重厚な演技を見せて作品を引き締めている。
ボスはアメリカの良識を体現する男で、過去の経験から過激な行動に走りがちなチャーリーを押しとどめる役割を担っている。
説教じみた正論で諭すのではなく、ユーモアを交えながらまるで父親のような態度でチャーリーの暴走を止める。
チャーリーはそんなボスを尊敬していて、言い争うこともあるが10年間も一緒にいる。
この二人のやり取りはなかなか味のあるものとなっていて微笑ましい。
モーハンという町のセットもなかなか良いし、嵐がやって来て通りが濁流の様になっていく様子も違和感がない。
店の女性が「何年かに1回の割で大雨がやって来るが、同時に悪いところも洗い流してくれる」と言っているのだが、自然がもたらす大雨もそうだが、ボスやチャーリーたちも大雨に匹敵する存在であることを暗示している。
この町で行われる銃撃戦はリアリティがあって迫力あるシーンとなっている。
相手にも凄腕ガンマンがいるようなので、普通ならここで主人公との対決となるはずだが、即座に頭に銃弾を撃ち込まれれて即死してしまっている。
その後に起きる銃撃戦では肩を撃たれて転げまわる者、建物の影から出ていた足先を撃たれる者、背中を撃たれてのたうち回る者などが出てきて、見せ場になるリアリティのあるガンファイトとなっている。
チャーリーがバクスターを狙う場面では、チャーリーがしゃがみ込んで相手を狙うという格好がいいとは言えないスタイルだし、至近距離からショットガンで撃たれた男は吹っ飛んでいる。
最後はチョット甘すぎるかなと感じたが、ハッピーエンドとしては及第点だろう。

ワイルドバンチ

2020-08-06 09:03:32 | 映画
いよいよ最後 「わ」にたどり着きました。


「ワイルドバンチ」  1969年 アメリカ


監督 サム・ペキンパー
出演 ウィリアム・ホールデン
   アーネスト・ボーグナイン
   ロバート・ライアン
   エドモンド・オブライエン
   ウォーレン・オーツ
   ジェイミー・サンチェス

ストーリー
1913年、テキサスとの国境の町。
パイク(ウィリアム・ホールデン)をリーダーに、ダッチ(アーネスト・ボーグナイン)ら5人組は鉄道の駅舎で、突如、物騒な強盗作業を開始。
事を運んだかにみえたが、鉄道会社の経営者が雇ったガンマンたちに逆襲されて大混乱。
こちらのリーダーは仮釈放中のソーントン(ロバート・ライアン)である。
パイクたちが再び集まったのは老ガンマンのサイクス(エドモンド・オブライエン)の牧場だった。
そしてサイクスも仲間に割り込んできて再び旅が始まった。
ソーントンとバウンティハンターたちが追う。
1ヵ月以内にパイク一味を捕まえればソーントンの罪は帳消しになるのだ。
やがてパイク一味はメキシコ人の小さな村にたどり着くが、そこは一味の1人、エンジェル(ジェイミー・サンチェス)の故郷だ。
だがエンジェルの恋人テレサが、マパッチ(エミリオ・フェルナンデス)をリーダーとする野盗の群れに掠われた。
一味は彼を追って、さらに奥地へ行くがパイクもマパッチも、悪党であることに変わりはない。
やっとのことで追いつき、商談らしきものが成立したが、そこは双方だまし合い。
あげくの果てに悪と悪との壮烈な戦いとなり、すべてが死に絶えるというさま。
そこへソーントンの一行がやって来て死体をめぐって仲間割れし、ソーントンだけが生き残った。
だが、そこへ現れたのが、サイクス老人だ。
彼はパイク一味の仲間入りしたにもかかわらず同行せず、すべてが死んだ後に1人でやって来て、原住民と商取り引きを始めた。
金のないソーントンなど手を出すすべもない。
悪の中でも最高の悪が勝った開拓時代の1エピソードである。


寸評
この映画の特徴とも言えるのが、全体を通したカット数の多さだ。
特に冒頭に描写される強盗シーンでの銃撃戦と、ラストでのマパッチ軍との銃撃シーンではその傾向が顕著だ。
スローモーションも適度に挿入されて緊迫感がさらに緊迫感を増していく。
屋上のガンマンが撃ち落とされて地面に落ちていくのがスローモーションで映し出される。
普通の映画だと落ち始めから地面に叩きつけられるまでを1カットのスローモーションで追い続けるのだが、ペキンパーの演出はその間に何カットも銃撃による犠牲者の姿を短い秒数で挟み込む。
その演出方法は異様なまでの緊迫感と臨場感を生み出している。
通りすがりの女、子供を巻き込んでの銃撃戦は、大量の弾丸が飛び交い、画面の切り替えは凄まじい。
時代を席巻したマカロニ・ウェスタンに対するハリウッドの反撃とでも言っていいような描写である。
スローモーションは、砂漠での馬の転倒シーンや、橋の爆破シーンで追跡隊が川に落下するシーンなどでも効果を上げていた。
物語の場所がアメリカとメキシコの国境線を挟んでの出来事なので、描かれている追跡劇がリアリティを醸し出していて、その設定も良かったのではないか。

そして登場する人物が初老というのもいい。
主人公の3人(ウィリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアン)が渋い雰囲気を出している。
ウォーレン・オーツとベン・ジョンソンの兄弟もなかなかいい味を出している。
そしてリーダーであるパイクもソートンも仲間を力でねじ伏せている絶対的な親分でないのもいい。
パイクは時々反抗されるし、イヤミも言われたりするリーダーである。
険悪ムードになったかと思えば、そのあとで笑い声が起きる妙なグループを率いている。
一方のソートンは出来の悪い囚人を率いていて、彼らの無能ぶりに手を焼いているリーダーだ。
それでもソートンの力量は、米国軍隊の馬鹿リーダーなどは比べ物にならないものがあり、逃げるパイクたちにプレッシャーをかけ続けるのだが、かれのエネルギーが二度と監獄に戻りたくないという事情からきているのが執拗な追跡劇を納得させる。

パイク一味は愛嬌があったりして憎めないのだが、それでいてヒーロー的には描いていない。
彼らも悪の一味なので、時折理不尽な行いをしでかす。
リーダーのパイクもそれを咎めることはしない。
12ペソの約束で買った女に、2ペソしか払わないで泣かせているなどはその一例だ。
悪役が悪役に追いかけられ、さらに悪役が別の悪役に反撃を試みるという、早い話が善人なんかは1人も出てこない悪者オンリーの作品となっている。
マパッチ将軍もとんでもないキャラクターで、キャラクターの異様性では際立っているが、彼を終局の敵として描いていないので、その最後は呆気ない。
その手際の良さも良かったと思う。
僕にとって、公開時に見たときの衝撃は大きなものがあって、もっと評価されても良い西部劇だと思う。
支持する人にはエポックメイキングな作品で、僕は秀作の部類に入る作品だと思っている。

ロミオとジュリエット

2020-08-05 08:53:08 | 映画
「ロミオとジュリエット」 1968年 イタリア


監督 フランコ・ゼフィレッリ
出演 レナード・ホワイティング
   オリヴィア・ハッセー
   マイケル・ヨーク
   ブルース・ロビンソン
   ナターシャ・パリー
   ロベルト・ビサッコ

ストーリー
十五世紀中頃、春まだ浅きベロナの町。
二大名門として知られるモンタギュー家とキャピュレット家は、家長はもとより下男にいたるまで仇敵視しあう仲で血で血を洗う争いが絶えなかった。
ある日、舞踏会で出会ったロミオとジュリエットは、一目で魅かれ合うがお互いの素性を知って嘆き合う。
しかしバルコニーで恋の苦悩を訴えているジュリエットを見かけたロミオは、いたたまれず熱烈な愛の告白をし、二人は結婚を誓い合う。
翌日二人はロレンス神父の手により結婚式をあげたが、その帰り道、キャピュレット家のティボルトとモンタギューのマキューシオが争っているのに出会った。
ロミオの止めるのも聞かず二人は剣をぬき、ティボルトはマキューシオを刺殺してしまった。
ロミオは逆上しティボルトを刺し、ベロナの町に再び血が流れたことにより、ロミオは追放の身となった。
だが発つ前に、ジュリエットの乳母や神父のはからいで二人は会うことを許され、結ばれたのである。
ちょうどその頃、キャピュレット家ではジュリエットと、領主の遠戚であるパリス伯爵との婚約を進めており、ジュリエットの意向も聞かず結婚の日取りまで決めてしまった。
ジュリエットはロレンス神父のところへ相談に行った。
すると神父は四十二時間仮死状態が続くという薬をあたえ飲むようにといった。
そして墓地に運ばれたらロミオが助けにいく--という手はずをととのえたのだが・・・。


寸評
シェークスピアの4大悲劇とは「ハムレット」、「オセロー」、「マクベス」、「リア王」ということになっていて、いずれも人生に対する深い洞察を示していると言われているが、僕にとっては シェークスピアの悲劇といえば他の作品を知らなおこともあり「ロミオとジュリエット」である。
何度も映画化されているが、僕にとっての「ロミオとジュリエット」はこの1968年版以外にありえない。
そう思わせるのは一にも二にもジュリエットを演じたオリビア・ハッセーの存在である。
この映画で人気を得たオリビア・ハッセーはその後に何本かの作品に出演したが、瞼に残るのはいつまでたってもジュリエットの彼女である。
そのオリビア・ハッセーがカネボウ化粧品のCMに出演した際、そのCM曲「君は薔薇より美しい」を歌った歌手の布施明と1980年に結婚したのには驚いた(一男児をもうけたが1989年に離婚)。

劇場で鑑賞していた僕は、オリビアが赤いドレスを着て初めて窓から顔を出すシーンで衝撃を受けた。
彼女の目元と口元が幼なじみのⅠさんとよく似ていたからだ。
Ⅰさんは腎臓を患い、その後少しふっくらされてオリビアとは似なくなってしまったが、闘病前の顔立ちはオリビアを思わせるものがあった。
ジュリエットは14歳という年齢だが、この時のオリビアは16歳で実年齢に近い。
そのこともあって実に瑞々しいジュリエットとなっていて、オリビアなくしてこの映画はない。
キャピレット家で催されたパーティに参加したロミオはジュリエットに一目ぼれする。
ジュリエットもやはりロミオに一目ぼれするのだが、そんなに簡単なものなのかと思わぬでもないが、ロマンチックな淡い恋は観客をうっとりさせるに十分だ。
二ノ・ロータの音楽も映画音楽史に残るもので、二人が出会う場面ではテーマ曲に乗って歌声が響き渡り、そのメロディはいつまでも耳に残る。
14歳で結婚話が持ち上がっているから、この時代においてはそれぐらいの年齢で結婚していたのだろう。
モンタギュー家とキャピュレット家はいがみ合っているが、なぜ敵対しているかは分からないし、大人たちよりも下男の子供たちが事あるごとに争っている。
少年が縄張り争いをしているようだが、僕が子供の頃にはいたそんな少年の姿はもう見かけなくなった。
彼等の争いを通じて両家の憎しみと敵対を描いていたと思うが、生まれながらの環境による悲劇という点が4大悲劇と一線を画しているところだろう。

「ロミオ、あなたはどうしてロミオなの」という聞きなれたセリフもオリビアによって語られる。
ロミオのレナード・ホワイティングも頑張っているが、僕にはオリビアが登場すると輝きを見せた作品との印象が強いし、オリビアの豊満な肉体も印象深い。
ジュリエットが神父から貰った仮死状態になる薬を飲むシーンでは、ベッドのカーテンが引かれそれがソフトフォーカスの役目を担い美しいオリビアの横顔がアップとなる。
ウットリしてしまうシーンだ。
そして悲劇が起こり領主の叫びでエンディングに向かうが、領主の叫びはあまり心に響かない。
それにしてもオリビアだなあ。

ロッキー

2020-08-04 08:04:33 | 映画
「ロッキー」 1976年 アメリカ


監督 ジョン・G・アヴィルドセン
出演 シルヴェスター・スタローン
   タリア・シャイア
   バート・ヤング
   カール・ウェザース
   バージェス・メレディス
   セイヤー・デイヴィッド

ストーリー
フィラデルフィアのスラムに賞金稼ぎボクサーとしてヤクザな生活をしているロッキーがいた。
今、彼には新たな生きがいがある。
ペット・ショップに勤めるエイドリアンに恋心を抱き始めたからだ。
素朴な彼女は精肉工場に勤める兄ポーリーと共に暮している。
4回戦ボーイのロッキーは、今日もラフファイトぶりで勝利をおさめるが、『お前のようなガムシャラなファイトぶりではゼニにならん』と、ジムをほうり出されてしまう。
酒場でロッキーはポーリーと飲み交い、ポーリーはロッキーの妹への好意に感謝する。
数日後、ロッキーに人生最大のチャンスが訪れた。
近づく建国200年祭のイベントの一つ、世界タイトルマッチでのアポロの対戦相手がケガをしたため、代役としてロッキーが指定されたのだ。
ロッキーに元ハードパンチャーとして鳴らしたポーリーと、かつてのジムの老トレーナーのミッキーが各々彼への協力を申し出、そしてエイドリアンとの愛も育っていった。
ロッキーの短期間の猛訓練が始まった。
そして試合当日、賭け率は50対1でゴングが鳴った・・・。


寸評
スポーツ映画の金字塔の一つに挙げてもいい作品だ。
ストーリーは単純でひねったところがなく、そのシンプルさが素直な感動を呼ぶ。
三流ボクサーが世界チャンピオンと互角の試合を行うというサクセスストーリーは目新しいものではない。
弱者が強者に対して戦いを挑み勝利を得ると言う話は、形を変えて幾度も映画化されてきた。
その頂点に立つ作品と言っても過言でないくらいに上手くまとまっている。
前半はロッキーのすさんだ生活と、ペットショップに務めるエイドリアンとの恋が描かれる。
ロッキーは3流ボクサーで、借金の取り立て役で生活を維持している。
そんな生活に愛想をつかされ、ジムのトレーナーであるミッキーにまともな面倒を見てもらっていない。
恋心を寄せるエイドリアンは引っ込み思案んで男性と上手く付き合えない陰気な女性である。
エイドリアンと同居している兄のポーリーは精肉店に努めているが、ロッキーの仲立ちで街のボスに取り入ろうとしているヤクザな男で、登場人物は下層階級のあまり恵まれていない人々だ。
不良少女に意見するロッキーもどこかすさんでいる。
この前半は少しくどいところがあり、歯切れも悪いので僕は少々だれるところがあった。
ところがこの前半に溜まった鬱積みたいなものが後半に入るや否や一挙に爆発する。

上映時間的にも世界チャンピオンのアポロから対戦のオファーが入るところからが後半と言える。
一挙に映像が輝き始めるのがトレーニングシーンだ。
ステディカムという手ぶれを吸収してしまう手持ちカメラを駆使した映像が気分を高揚させる。
夜明け前のランニングでのフィラデルフィアの街並み、美術館前の広場で両手を挙げて街を見下ろすシーンの何と爽快なことか。(この階段は映画のヒットを受けて、ロッキー・ステップと呼ばれるようになったらしい)
僕が一番好きなトレーニングシーンは、ロードワークで市場の中を走り抜けるシーンだ。
狭い道路の両側にはいろんな店が並んでいるが、その中を声援を受けながらロッキーが走っていく。
やがて果物屋の店主がロッキーにオレンジを投げ渡し、それを走りながらロッキーがキャッチする。
小市民たちが一体化した瞬間だった。
そして後半の後半になると、いよいよアポロとの試合となる。
対戦前にロッキーはすでに敗戦を覚悟しているが「俺はクズだったが、もし15回にはいっても立っていたならクズでなくなる」との思いをエイドリアンに告げている。
エイドリアンは試合を見ることが出来ず、控室で待っていると言ってロッキーを送り出す。
ロッキーのテーマが鳴り響き気分はいやがうえにも高揚する。
ビル・コンティのこのテーマ曲は日常でも流れてくると力がみなぎってくる名曲だ。
試合シーンはアメリカ映画お得意のもので、臨場感もあり迫力がある。
ロッキーは最初のダウンを奪うが、それで本気になった世界チャンピオンとの死闘を演じる。
分かっているけれど、倒れても倒れても起き上がってくるロッキーに誰もが感情移入してしまう。
そしてラスト・シーンとなり、エイドリアンの名前を呼び続けるロッキー。
観客をかき分けリング上のロッキーに抱き着くエイドリアン。
負けたけれど二人の愛が確かめられるというエンドで締めくくる見事な脚本だった。

ロシュフォールの恋人たち

2020-08-03 08:09:50 | 映画
「ロシュフォールの恋人たち」 1966年 フランス


監督 ジャック・ドゥミ
出演 カトリーヌ・ドヌーヴ
   フランソワーズ・ドルレアック
   ジョージ・チャキリス
   ジーン・ケリー
   ジャック・ペラン
   ダニエル・ダリュー

ストーリー
フランスの海辺の街ロシュフォールは、年に一度の海の祭を二日後にひかえて、陽気に浮き立っていた。
美しい双児の姉妹のソランジュ(フランソワーズ・ドルレアック)とデルフィーヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)は希望に燃え、自分の道を歩んでいた。
ソランジュは音楽家を、デルフィーヌはバレリーナを志していたが、彼女たちにはもう一つの夢があった。
それはいつの日にか、素晴らしい恋人にめぐり逢うことだった。
また姉妹の母親イボンヌ(ダニエル・ダリュー)はカフェーの女主人で、彼女の気さくな人柄は大勢の客をすぐ馴染ませてしまうのだった。
常連の中には、祭の見本市でオートバイの曲乗りを見せるというエチアンヌ(ジョージ・チャキリス)とビル(グローバー・デール)の二人組や、絵の好きな水兵のマクザンス(ジャック・ペラン)がいた。
お祭の日がやってきて、広場には舞台が組立てられ、趣向をこらしたショウが次々にくりひろげられた。
ソランジュとデルフィーヌの姉妹も、エチアンヌ、ビルの二人組と一緒に舞台に立ち、オートバイの曲乗りのあとで、歌と踊りを披露した。
エチアンヌとビルは、これからも一緒に仕事をして歩けばパリにも行かれると、姉妹を誘った。
彼女らはパリへ行って大芸術家になろう、また恋人にめぐりあえるかもしれないと心を決めた。
だが青い鳥はすぐ近くにいるもので、ソランジュは以前、通りで見かけた魅力的な青年アンディ(ジーン・ケリー)に再会出来た。
イボンヌも十年ごしの恋人で楽器店を経営するダーム氏(ミシェル・ピッコリ)と結ばれた。
デルフィーヌは幸福そうなソランジュたちと別れ、エチアンヌやビルと一緒にパリへ向った。


寸評
ジョージ・チャキリスたちがトラックに乗ってやって来て車ごと運ぶ渡し船に乗り込む。
長旅だったらしく彼等は車から降りて背伸びをすると、それが静かなダンスへと転じ、キャスティング・クレジットが表示されていくというオープニングなのだが、この出だしだけでこの映画のもつ雰囲気が伝わってくる。
感情の高ぶりと共に台詞が唄に、芝居が踊りに転ずるというミュージカルの王道が展開される。
ミュージカルといえばアメリカ映画の専売特許のような所があるが、「ロシュフォールの恋人たち」はそんなアメリカ製ミュージカルに挑戦状をたたきつけたようなフランス製ミュージカルの傑作だ。

アメリカからジョージ・チャキリスとジーン・ケリーを招いているが、ソランジュとデルフィーヌという双子の姉妹に実の姉妹であるフランソワーズ・ドルレアックとカトリーヌ・ドヌーブを起用しているのが面白い。
ミシェル・ルグランのジャズっぽい軽快な音楽がウキウキさせるし、ジャクリーヌ・モローと マリー・クロード・フーケによるカラフルな衣装が目を楽しませる。
凝った衣装ではないが、さすがにファッションの国フランスを髣髴させる洗練されたもので、背景を行く通行人や子供たちまでが単色系の衣装で画面を飾っている。
ギスラン・クロケのカメラはそんな衣装、町の様子を原色で展開し港町の活気を描き出す。
海は画面に一度も登場しないが、まぎれもなくここは港町なのだと感じさせる。

話がロマンチックすぎるほどロマンチックなので、それだけでウットリできる内容だ。
言ってみれば、恋に恋する物語だと思うのだが、女子高生のような未成年ではなく年齢を高めに設定しているので、大人の観客はよりスムーズに作品にのめり込むことが出来る。
恋物語としては、これまた王道の一つともいえるすれ違いものだ。
ジャック・ペランは理想の恋人の肖像画をイメージで描いているが、それはカトリーヌ・ドヌーブその人である。
母親の経営するカフェという共通する場所に頻繁に出入りしているがなかなか出会わない。
ジャック・ペランからその絵の話を聞いている母親は店があり、なかなか見に行くことが出来ない。
この母親は、ミシェル・ピコリが別れた後も思い続けている女性であることは、姉妹への話から観客にはすぐに分かるが、これもなかなか巡り合う機会がない。
ミシェル・ピコリの友人がジーン・ケリーで、彼は偶然出会ったフランソワーズ・ドルレアックに恋し、彼女も彼に一目ぼれしているが、パリで出会う相手のはずなのにお互いに知らないでいて、なかなか再会しない。
観客が抱いてきたイライラ感と、彼らの愛と音楽の情熱がクライマックスの祭で弾け、吸い寄せられるように出会っていくのは分かっているとは言え、見ている僕たちにほっとするような幸せ感を運んでくれる。
祭りが終わり旅立ちへのフィナーレが待っているが、カトリーヌ・ドヌーブとジャック・ペランの恋のゆくえを想像させる余韻は至福感に涙ぐんでしまうほどの爽やかさを残すエンディングとなっている。

ソランジュとデルフィーヌという双子の姉妹が舞台で踊るが、その時の後姿では背中のホクロまで同じ位置にあったけど、あれは細かい演出だったのかな?
父親の友人という老人が店に訪れてケーキのカットを頼まれ、切れないと断るのは無くてもいいようなエピソードだが、フランス映画らしいウィットに富んだもので、エグイ内容の割には明るい処理の仕方でくすぐったかった。

64-ロクヨン-前編

2020-08-02 10:23:15 | 映画
「64-ロクヨン-前編」 2016年 日本


監督 瀬々敬久
出演 佐藤浩市 綾野剛 榮倉奈々 夏川結衣
   緒形直人 窪田正孝 坂口健太郎
   筒井道隆 鶴田真由 赤井英和 菅田俊
   烏丸せつこ 小澤征悦 柄本佑 椎名桔平
   滝藤賢一 奥田瑛二 仲村トオル
   吉岡秀隆 永瀬正敏 三浦友和

ストーリー
昭和64年1月、関東近県で7歳の少女・雨宮翔子が誘拐される事件が発生。
三上と捜査班班長の松岡が雨宮家に向かうと、自宅班の幸田、日吉、柿沼が待機していた。
三上は追尾班として、身代金2000万円が入ったスーツケースを運ぶ被害者の父・雨宮芳男の車を追うが、土地勘がある犯人に翻弄され続け、身代金は奪われてしまう。
事件発生から数日後に廃車のトランクから翔子の遺体が発見された
わずか7日間でその幕を閉じた昭和64年。
いまも未解決のその事件を県警内部では“ロクヨン”と呼んでいた。
刑事部で長く活躍しロクヨンの捜査にも関わったベテラン刑事の三上は高校生の娘が家出失踪中という大きな問題に直面していたが、この春から警務部の広報室に異動となり、戸惑いつつも改革に意欲を見せていた。
折しも県警ではロクヨンの時効まで1年と迫る中、警察庁長官の視察が計画される。
そこで、長官と被害者の父親・雨宮芳男との面会を調整するよう命じられた三上だったが、なかなか雨宮の了承を得られず困惑する。
そんな中、ある交通事故での匿名発表が記者クラブの猛烈な反発を招き、長官の視察が実現できるかも不透明な状況に陥ってしまう。
自らもなかなか捜査情報を得られず、県警と記者クラブの板挟みで窮地立たされた上、刑事部と警務部、あるいは本庁と県警それぞれの思惑が複雑に絡み合った対立の渦にも巻き込まれていく三上は、それでも懸命に事態の収拾に奔走するのだったが…。


寸評
横山秀夫の原作が出版された時、これを読んだ安倍首相が面白いと発言したという記事を発見し、僕もすぐに購入し読んでみたのだが、実際この推理小説は面白くて久しぶりに堪能した単行本だった。
暫くしてNHKでピエール瀧を主演にドラマ化された。
視聴率は取れなかったが、僕はよくできたドラマになっていたと思う。
出演者は地味だったが、映画版は主演を佐藤浩市が務め、共演は綾野剛、瑛太、榮倉奈々、三浦友和、吉岡秀隆、夏川結衣、永瀬正敏、仲村トオル、椎名桔平、滝藤賢一らで、売れっ子ばかりを集めたという感じだ。

昭和64年1月7日に昭和天皇の崩御が伝えられた。
僕はまだ会社勤めをしていた時期で、会社も午前中で仕事を終えて日本中が喪に服したことを覚えている。
したがって昭和64年は7日間しかなく、映画の発端はその時期に起きた少女誘拐事件である。
これがメインの話ではないので、この事件の様子を詳しく描いているわけではなく疑問に思うシーンもある。
誘拐事件に付き物の、刑事たちが被害者宅に身分を隠すように入り込むシーンはない。
最初から大勢の刑事たちが被害者宅にたむろしている。
これだけの人数がどうして犯人に悟られずに入り込めたのかと思ってしまう。
さらに身代金を運ぶ少女の父親・雨宮氏の運転する車を尾行する警察車両が連なって走っているのも違和感があったのだが、さすがに山道に差し掛かるところでは三浦友和の松岡刑事が不自然だから尾行車両を減らすように指示している。

そうして始まった「64ロクヨン」だが、担当刑事だった三上(佐藤浩市)は現在広報部に左遷となっている。
見ているとどうやら警察署の広報部は恵まれていない部署の様で、三上は左遷されたように見える。
前半で描かれるのは、刑事部と警務部の対立や、広報と記者クラブの対立、キャリアとノンキャリの対立、さらに警察組織のゆがんだ人事状況などがこれでもかとばかりに描かれる。
最初に描かれるのは警察の隠ぺい体質で、交通事故の加害者が公安委員会会長の娘だったことで、加害者名が匿名とされたことである。
しかもその事実が広報官に知らされていなかったために、広報部は記者クラブの突き上げに四苦八苦する。
観客はキャリア組の高慢な態度に反感を抱くという描き方だが、それでも三上は職務に忠実で、記者連中が本部長室へ押しかけるのを必死で阻止する。
三上の態度にはサラリーマンの悲哀を垣間見た気がする。

キャリアとノンキャリアの溝は理解できるが、警察内部の組織間の対立がなぜ発生しているのかは映画を見ている限りにおいては分からない。
売れるものを作らない企画部と、作ったものを売ることができない営業部との軋轢のようなものだろうか。
そう言えば僕の会社でも総務部と営業部の根底にはお互いに批判めいた感情を有していたから、どこの組織においても部門間の対立は存在しているのかもしれない。
前編は第2のロクヨン事件が発生したところで終わるが、後編も見たくなる終わり方だ。