平成28年12月25日(日)
十二月二十三日の天長節を祝い、
改めて顧みると、
我が国の武人は、期せずして、微笑みながら大義を果たす。
最初に対馬の小茂田浜で蒙古軍と戦って玉砕した宗助國、
それから六十二年後に兵庫の湊川で自決した楠木正成、
そして、間近くは、
大東亜戦争におけるミッドウェー海域で
我が駆逐艦の魚雷で自沈する空母飛龍からの脱出を笑って断り艦と運命を共にした
山口多聞第一航空戦隊司令官、
そして多くの若き特攻隊員達、
彼らは、等しく、期せずして最後の微笑みを遺していった。
その微笑みは、
天皇を戴く我が国の「武の大義」と深く結びついている。
そのことに触れた一文を「月刊日本」一月号に寄稿したので次ぎに記しておきたい。
河内の楠木正成と対馬の宗助国。この二人の中世の武将は、
この世において相見(あいまみ)えたわけではない。
宗助国は文永十一年(一二七四年)十一月に対馬の小茂田浜において六十八歳で討ち死にし、
楠木正成はそれから二十年後に生まれて延元元年(一三三六年)五月二十五日、四十三歳で兵庫の湊川で自決している。
言うまでもなく、我が国史上最大の国難は、文永の役(文永十一年、一二七四年)と弘安の役(弘安四年、一二八一年)の蒙古襲来だ。前者は三万後者は十四万の蒙古軍の襲来である。そして、この国難のなかで我が日本の武人は、まさにいざ鎌倉と対外的に始めてお国のために一丸となった。
その蒙古勢と最初に遭遇して敵将忻都(きんと)を驚嘆させ、
「自分はいろいろな国の敵と戦ってきたが、このような恐ろしい敵と出会ったのは初めてだ」
と言わしめて玉砕した武士が、対馬の守護代宗助国主従八十余騎であった。
従って、大東亜戦争後に生まれた我々の世代が、大東亜戦争に従軍した父祖の世代の戦いぶりを知っているように、楠木正成も武人として、確実に宗助国の戦いを知っていた。そして、宗助国が、八十数騎で如何にして三万の蒙古勢を相手に数時間も勇戦奮闘しえたのか、同じ武人として、その戦いぶり(戦術)を徹底分析していたはずだ。
楠木正成は、少数の兵を以て、河内と大和の境に聳える大阪府最高峰の金剛山(標高一一二五メートル)の麓の両側を山脈に夾まれた細い道で連なる赤坂から千早城(標高六七四メートル)までの約八キロに及ぶ山岳地帯において、数万の鎌倉幕府軍を迎撃し、長期間のゲリラ戦を展開して大損害を与えて消耗させた。この楠木正成の千早赤坂の戦いによる幕府軍の蒙った打撃が全国に伝わり、足利や新田や赤松勢の対鎌倉蜂起を誘発し鎌倉幕府は滅亡する。この楠木正成が戦った赤坂から千早の地形は、宗助国が蒙古軍を迎撃した対馬の小茂田浜の地形とよく似ているのだ。
私は、小学生の時から金剛山には何十回も登っていて地形は頭に入っている。
また、対馬の小茂田浜もよく知っている。日露戦争の日本海海戦勝利百周年の平成十七年以来、毎年、五月二十七日の日本海海戦の日には対馬北端で行われる日露両軍将兵の慰霊祭に出席するために対馬に渡り小茂田浜も訪れているからだ。
その時、小茂田浜に立って現在よりも海岸線が数キロ奧にある八百年前の地形を思い描き、これは千早赤阪に似た地形だと気付いた。
対馬は、山岳の頂上付近が海から突き出ているような地形の島で、リアス式海岸が島を取り巻いている。約九百隻の蒙古の軍船が現れた対馬の西海岸での上陸適地は小茂田浜しかない。その小茂田浜は二つの山脈の間を流れる川が運ぶ砂で造られた浜で、八百年前の海岸は、数キロ奧の山に迫った入り江で、そこから奥に進もうとすれば、両側の山に夾まれた川の流れる狭い山道を細い縦隊で進むことになる。従って、浜に上陸した数千の蒙古の軍馬と兵士は、狭い浜に群れとなってひしめき合っていた。もちろん、蒙古の戦い方である騎馬集団戦は不可能である。その蒙古の群れ(軍勢)を宗助国らが迎撃したのだ。
小茂田浜にある「元寇の古戦場」と題された説明盤には「十月六日寅の刻(午前4時頃)戦いは始まり、辰の下刻(午前9時頃)乱軍の中に武将達は戦歿した」と書かれている。実に、宗助国らは八十余騎で数千の蒙古軍を相手に約五時間も奮闘した。その戦法は、千早赤坂の楠木正成の戦法と同じく山岳の地形を利用したゲリラ戦で、まず暗い中での最初の攻撃は、軍馬とともに浜にひしめき合う蒙古勢に対する矢の集中連射、その次は、狭い山の道に入った蒙古兵の各個撃破、矢が尽きたあとは白刃での攻撃、そして、最後は浜にいる敵の指揮官を目がけた騎馬での突撃であったと思う。その時、宗助国ら主従は、微笑みながら突撃した。宗助国の胴を埋葬した「お胴塚」と首を埋葬した「お首塚」は、川沿いに別々に造られている。五体裂かれての戦死。戦闘の凄まじさが偲ばれる。
この時、対馬の二人の郎等が必死で船を漕いで、百数十キロ南の太宰府に蒙古の襲来と守護代宗助国らの玉砕を伝え、それが直ちに鎌倉に伝わる。そして、若き執権北条時宗の元で日本が初めて一丸となる。
さて、蒙古軍の将忻都は、戦った宗助国ら日本の武士に対して、「このような恐ろしい敵」は初めてだと言った。その理由を探る。
文永八年(一二七一年)に高麗から蒙古に日本襲来の計画があることが鎌倉幕府に伝わってから、しばしば蒙古の使者がやってくるようになる。その最後の斬られずに帰された使者が蒙古のクビライに日本を討つべきか否か諮問された時に、彼は次の理由を挙げて「討つなかれ」と答えた。
「私がしばらく日本にいて観察したところによりますと、日本人は狼の如く勇ましく、人を殺すことが好きです。礼儀がありません。山や川ばかりが多く、農地や桑畑がありません。・・・しかも海を渡らねばならないのに、風の吹き方が不定で、どんな損害が生じるか知れません。こんなところに出兵するのは、有用な人間で底なしの谷を埋めるようなものです。」
この報告を読んで、連想したのは、三百年後のキリシタン宣教師がスペイン国王に対して送った日本報告で、蒙古の使者と同じ理由を挙げて「日本征服不可能」としていることだ。
さらに、日露戦争の黒溝台の会戦におけるロシア側記録を思い出した。
そこには、突撃してきた日本兵は「狼のように凶暴だった」と書かれている。
つまり、軍司令官忻都も使者も遙か後年のロシア兵も、戦いを挑んでくる日本兵を狼のようだと思った。
三万の軍を率いる忻都が、宗助国らたった八十余騎の武士を恐ろしい狼のようだと思ったということは、
彼らが死ぬことを全く恐れていなかったということだ。
恐れるどころか、彼らは、これぞ大義に殉じる男子の本懐と、微笑んで討ち死にしていった。
従って蒙古の忻都は、このような敵と今まで遭遇したことはなかったのである。
では何故、大陸で何度も戦を経験してきた忻都は、
日本の対馬で「このような敵」と初めて遭遇したのであろうか。
その理由は、大陸にある軍事思想(兵法)と
我が国の万世一系の天皇を戴く国体から生まれる軍事思想の決定的違いからもたらされる。
言うまでもなく、大陸にある「孫子」の兵法と
我が国にある「闘戦経」が示す軍事思想の違いである。
「孫子」は、「兵は詭道(きどう)なり。故に、能なるも不能を示し、・・・近くともこれに遠きを示し・・・利にしてこれを誘い・・・強にしてこれを避け・・・」と説く。
つまり、兵法とは敵を騙すことだという。
何故、騙すことが兵の中心思想なのか。
それは簡単、つまり、死ぬのが恐いからである。
それと同時に、彼らの兵法の目的が異民族を殲滅することにあるので、
その敵に対する「道義」などこれっぽっちも重んじる必要はないとしているからである。
しかし、我が国の「闘戦経」が示す思想はそうではない。
我が国の兵は、異民族を絶滅させる為ではない。
誠心誠意の精鋭である。それが我が国の武士の大義である。
天皇の元にある者は皆家族であり異民族ではない。
従って、世が乱れたときに為すべきことは、
天皇の元での「和」をもたらすことである。
その大義に命を懸けること、
それが武士の本懐つまり我が国の軍事なのだ。
楠木正成が遺訓に言う、
一人を殺して千万人を扶(たす)ける、殺すことによって博愛をなす、
これが兵である。
小茂田浜での宗助国らの微笑みは、
その千万人を扶ける大義の元に永遠に生きる確信の証(あかし)である。
西村眞悟の時事通信より。