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ロシア論

2022年06月01日 | 日本・国士
ロシア・ウクライナ戦争は、
本年二月二十四日に始まり、既に三ヶ月以上続いている。
当初アメリカの軍事筋は、ウクライナの首都キーウは、
ロシア軍の侵攻開始から三日で陥落すると伝えていた。
おそらく、この予想に基づいて
アメリカのバイデン大統領が、
二月十日前後の二、三日間で、
在ウクライナアメリカ軍事顧問団および一般アメリカ人の
ウクライナからの退去を指示した。
さらに、彼は、
「退去せずにウクライナに残留しているアメリカ人を
救うために、若い兵士を戦火のウクライナには行かせない」
と言った。
このバイデン発言が、
ロシア大統領プーチンヘの
二月二十四日侵攻のゴーサインであった可能性大である。

大統領プーチンは、ロシア国民に対して、
「ウクライナのナチズムを殲滅する」と煽っており、
我が日本国内にも、プーチンのウクライナ侵攻を、
「ウクライナ国内のロシア系住民を殺戮しているナチズム・反ロシア勢力」を除去する為であると正当化する見解がある。
また、「目に見えないロシア強奪を企てる勢力」
を除去する為にプーチンは戦っているという謀略論もある。
しかし、これらの見解は明確に間違いだ。
「謀略論」に嵌まると、
目が見えなくなるだけのことだ。
また、毎日TVで放映されるロシア軍の住民への無差別空爆は、
昭和二十年三月十日の
カーチス・ルメイが民間人の殺戮だけを目的とて立案した
アメリカ軍の東京大空襲と同じである。
ロシア系住民を救うという人道を目的とする軍隊が、
あのような
女性、子供、老人の殺戮を狙う、無差別爆撃はしない。

そこで、外務省東欧第一課長として
昭和四十八年十月の田中・ブレジネフ会談を演出した
ロシア・東欧問題の第一人者である新井弘一氏の
平成十二年六月における次ぎの見解を、
現在のプーチンの意図を、
ズバリ言い当てたものとして再び記しておく。

「地政学的、歴史的要因を背景に、ロシアでは、
安全保障上の不安と強力な中央集権的国家の要請という
二つの心理的状況が生まれ、
これらが綾をなして独特の安全保障観が形成された。
すなわち、百パーセントの安全では満足できず、
それ以上の安全を求めて空間を拡大するという発想である。」

つまり、この度のロシアのウクライナ侵攻は、
十八世紀のプロシャ・オーストリアとのポーランド分割、
一九三九年のナチス・ドイツとのポーランド分割と
フィンランド侵攻、
そして一九四〇年のバルト三国併合、
さらに一九四五年八、九月の
満州と南樺太と千島への軍事侵攻と同じなのだ。

嘉永六年(一八五三年)、
七月にアメリカペリー艦隊の黒船が東京湾の浦賀に来航し、
我が国に開国と通商を求めたが、
その一ヶ月後の八月、
ロシアのプチャーチンが、
樺太と千島という領土を求めて長崎に来航したのだ。
ロシアは、最初の対日接触から
我が国の領土の強奪を狙っていたことを、
決して忘れてはならない。
従って、このロシアの、
現在のウクライナへの動物的習性となった膨張を止めるには、
ロシア軍を徹底的に撃破殲滅してその力を奪うか、
独裁者プーチンを自滅させるか、
この単純明快な二つの方策しかないのである。

ここで、現代史において、
このロシア(ソビエト)が如何なる惨害を日本人に与えたか、
そして、
日本と日本人が如何なる世界史に残る人道的な行動をしたかを記しておきたい。

まず、昭和二十年八月以降の
ソビエト侵攻後の満州や樺太・千島における
民間の在留日本人と日本軍将兵約七十万人に対する
ソビエト軍による殺戮や強姦や虐待や略奪、
そして
旧ソ連全域とモンゴルに及ぶ強制連行の過酷さと惨状は
到底語り尽くせるものではない。
これらは、
戦時下であれば、どこの国の軍隊でも少々の逸脱はあるというレベルでは到底ありえない。
これは、日本民族が受けた史上最大の殺戮と陵辱と虐待である。
このこと、
長勢了治氏の膨大な六百十七頁におよぶ著書
「シベリア抑留全史」
原書房(Tel 03・3354・0685)に詳しい。

その上で、これから、
それ以前の、ロシア革命期における事件と我が国の行動を記す。
これは、痛切な警告であるとともに、
神武創業の志である「八紘為宇」の理念の発現でもあり、
日本人として忘れてはならない。
これから、また動乱期に入るユーラシアを、
同じ東から眺める位置にいる我々は、
当時の日本人が敢行した、
世界列強がためらった人道的行動と勇気を鑑として、
これからの動乱に対処しなければならない。

一九一七年(大正六年)、
ロシア二月革命が起こり、皇帝ニコライ二世が退位する。
次の十月革命によってレーニン率いる共産主義ボルシェビキ政権が樹立されたが、
以後、このボルシェビキ(赤軍)と反ボルシェビキ諸派(白軍)の内戦が激化する。
そして、翌一九一八年八月、
南ウラルで赤軍と戦って孤立したチェコ軍団を救出するために
米英仏そして日本は、シベリアに出兵する。
この時、
ペテログラードのロシア人の子供達八百九十五人は、
南ウラルに疎開していたが、
内戦の激化とともに、YMCA関係者に発見されるまで
「ウラル山中をさ迷う子供たち」になっていた。
発見された彼らは、ウラジオストックからの救援隊によって、
一九一九年九月に東に六千キロ離れた安全なウラジオストックに到着して施設に収容された。
また、帝政ロシアは、
併合したポーランドから、数十万のポーランド人を
シベリアに送ってシベリア開発という重労務をさせていたが、
そのポーランド人を親に持つ孤児達七百六十五名が、
内戦のシベリアで放置されていた。
列強各国が孤児達の救出を尻込みしているなかで
シベリアに駐屯する日本の帝国陸軍と日本赤十字が協力して、
敢然と彼らを救出して安全なウラジオストックで保護していた。

しかし、一九二〇年(大正九年)五月、
北方の樺太北端の対岸にある
アムール川河口の港街ニコラエフスクを、
ロシア人三千名、中国人三百名、朝鮮人一千人の
赤軍パルチザンが攻撃して、
日本人軍民七百三十一名と
街の人口の半数に達する六千名のロシア人を惨殺した。
彼らが、殺すために日本人を閉じ込めた牢獄の壁には
「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」
と無名の犠牲者が書き残していた。
これが、歌にも歌われた
慟哭のニコラエフスク事件=尼港事件だ。

このように極東でもボルシェビキ(赤軍)が急速に勢力を伸張してくるなかで、
アメリカ人のシベリア救援隊は、ロシアの子供達を船でロシアに帰そうとし、
日本軍と日本赤十字もポーランド孤児達を船で日本に脱出させ、
日本からポーランドに帰そうと決定した。
そして、ポーランドの孤児達は、
すぐに日本の船で日本に渡り、
日本で栄養失調や病気を治して故国ポーランドに送り返された。
とはいえ、ポーランドに送られても
孤児には住む場所も家族もない。
そこで、日本はグダニスク郊外に
孤児達を収容する孤児院を建てるのに尽力した。

しかし、
ロシアの孤児達を乗せるためにアメリカ人のシベリア救援隊は、
各国の船会社に傭船を依頼したが、
アメリカも含めて各国に総て拒否された。
万策尽きたその時、
日本の船「陽明丸」(船長 葦原基治)が、
敢然とウラジオストックに入港して、
ロシアの八百九十五名の子供達と米国赤十字隊を乗せて、
まず日本の室蘭に入り、
太平洋を渡ってサンフランシスコ、パナマ運河、ニューヨーク
そして大西洋を渡ってフランスのブレストに入港してから
フィンランドの
コイビスト港(現在ロシアのプリモリスク)に到着して、
子供達は、順次故郷のサンクトペテルスブルクに陸路戻った。

その後、
ポーランドの孤児達は成人し第二次世界大戦を迎えた時、
地下レジスタンス運動に参加したため、
ナチスがグダニスクの孤児院に強制捜査に入った。
その時、日本大使館から書記官が駆けつけ、
ここは日本の保護下であると明言した。
すると、孤児達は皆、
国歌「君が代」と「愛国行進曲」を大合唱した。
ナチスのドイツ兵は呆気にとられて引き上げていった。

阪神淡路大震災の後、ポーランドは、
かつてシベリアから救出してくれた恩返しとして、
日本の被災児数十名をポーランドに招いた。
一人の子が小さなバックを離さずにいつも肩に担っていた。
その中には焼け跡から見つけた
亡くなった両親と兄弟の形見や遺品が入っていた。
それを知ったポーランド人は泣いてこの子の幸せを祈った。
そして、
年老いて歩行もままならなくなった元孤児四人が、
日本の被災孤児を慰めに来て、
涙ぐみながら一人一人に赤いバラを手渡した。
二〇〇六年に、最後の孤児リロさんが九十歳で亡くなった。
リロさんは第二次大戦でユダヤ人を助けて
イスラエル政府から賞を受けていたが、
「日本人に助けられたからお返しにユダヤ人を助けた。
日本は天国のような所だった。」
と述懐した(週刊新潮、2012年11月29日号)。

他方、
サンクトペテルブルグに帰ったロシアの子供達にとって、
誰に感謝の思いを伝えたらいいのか全く手がかりが無かった。
現在、サンクトペテルブルクで
「『ウラルの子供たち』子孫の会」の代表をしている
オルガ・モルキナの祖父母は、
子供の時、共に「ウラル山中をさ迷う子供たち」になり、
ウラジオストックから「ヨウメイマル」で
郷里サンクトペテルブルクに帰ったので、
孫のオルガに、
子供時代に経験した驚くべき冒険譚を語り、
いつも深い敬意を込めて「カヤハラ船長」の名を語り続けた。
その結果、オルガにとって、
日本人「カヤハラ船長」は、
子供時代から伝説的なヒーローのような存在となった。
そして、二〇〇九年、
オルガは、サンクトペレルブルクで個展をしていた
日本人で篆刻家の北室南苑さんに出会い、
「ヨウメイマル」の「カヤハラ船長」を探して欲しい
と頼んだのだ。
すると、一年半後に、北室さんは、
陽明丸の茅原基治船長を突き止め、
彼の「船長手記」と親族そして墓を見つけ出し、
オルガに「カヤハラ船長発見!」と知らせた。
その後、オルガは、
日本に招かれ船長の墓前に参った。
北室さんは、
現在、NPO法人「人道の船 陽明丸顕彰会」
の理事長をしておられる。
そして、この劇的なドキュメントは、
北室南苑さん編著
「陽明丸と800人の子供たち」
(副題 日露米をつなぐ奇跡の救出作戦」)
という本になり
並木書房(Tel 03・3561・7062)から出版されている。

このポーランドとロシアの子供達の救出と、
後の一九三八年の
ハルピン特務機関長樋口希一郎少将による
二万人にのぼるユダヤ人救出、
一九四〇年の
リトアニアのカウナスにおける杉原千畝日本領事代理の
ユダヤ人に対する六千通の「命のビザ」発効は、
共に神武天皇が掲げた我が国創業の理念、
「八紘為宇の精神」
の発現である。
即ち、日本人にとって
「天地は一つの家であり、我らは一つの家族」なのだ。
改めて、
この我が国創業の理念を実践した
先人の静かなる偉業を思い、
まず、
横田めぐみさんら北朝鮮に拉致された同胞の救出という
国家的課題を実現できる日本を
建設しなければならないと切に思う。

(本稿は、月刊日本への掲載原稿に加筆したもの)

西村眞悟FBより。







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