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個別的自衛権発動の問題!

2022年01月05日 | 日本・国士
いよいよ、東アジア動乱の年が始まった。
既に数度、指摘してきたように、
中共は、「台湾は中共のもの」を掲げて
世界の耳目を台湾海峡に集めながら、

尖閣を一挙に奪ってミサイル基地となし、
「南西の台湾」と「北東の沖縄本島」を掌中に入れる
一石二鳥を狙う公算大だ。
しかも、我が岸田総理と内閣は、
尖閣防衛に関しても、
台湾防衛に関しても、
明確な断固とした我が国の意思を中共に伝えてはいない。
この我が国の総理と内閣の状況と、
アフガニスタンからアメリカ軍を撤退させた
バイデンを見つめていた中共が、
尖閣侵攻は、「やれる!」と判断しても
「意外」ではない、ところまで来ている。
「平和主義者が戦争をつくる」、
というのが歴史の教訓ではないか!
(チャーチル「第二次世界大戦回顧録」)

私の考えを言うが、
台湾を守ることは日本を守ることであり、
日本を守ることは台湾を守ることである。
そして、尖閣は
台湾と沖縄本島則ち日本を守る要衝、
「キーストーン」だ。
岸田総理は、肩を揺すって歩くだけではダメだ。
明確に、日本の存立の為に何が必要かを
断固として発信すべき時だ。

現在、
二年前から武漢ウイルスの世界的蔓延によって台湾に訪問できないままだ。
台湾には、長年にわたって、
一年に二、三回ほど訪問してきたので、
台湾は、どうしているのかと、よく思う。
特に、
平成二十九年六月十三日に百三歳で亡くなった
門脇朝秀翁のことを思う。

門脇翁とともによく台湾を旅した。
門脇朝秀翁は、大正三年、朝鮮の大田に生まれ、
満州で関東軍特務機関情報将校として活動した。
戦後は、
五十回ほど中国大陸に出入りしたが、
田中角栄内閣による台湾との断交の後に、
台湾訪問を開始して
台湾の庶民の親日感情に驚き、
台湾原住民に接することを主題にして台湾行脚に専心し、
百歳になった平成二十六年六月二十七日から七月六日まで、
最後の台湾一週行脚を行った。
最後になった潮州の夜、
門脇翁は空を見上げて私に言った。
「僕は、この潮州に葬って欲しいなあ」

門脇翁の思いでは尽きないが、
私の台湾での心に残る三つのことを記しておく。
彼らを思い起こせば、
台湾を守ることは日本を守ることだと実感する。
則ち、台湾防衛は
「集団的自衛権発動」の問題ではなく、
「個別的自衛権発動」の問題である!

(1) 高雄の郊外で高雄中学同窓会の宴席に同席して
愉快に話をしたとき、
十数名の出席者は、
例外なく親族に蒋介石の白色テロによって殺された犠牲者をもっていた。
そして、話は尖閣諸島とその周辺の漁業権の話になった。
私は、話の最後の頃に言った。
「僕は尖閣に上陸してきた。間違いなく尖閣は日本の島だ。
尖閣を開拓したのも、尖閣周辺の漁業を始めたのも、
開拓者は日本人だ。
その日本人のなかには
台湾から来た日本人もいるんだ。」
会の人々は、皆、黙った。
その人々の目に涙があった。

(2) 門脇翁の死後、
台湾本島の西方の海にある澎湖島の馬公を訪れ、
港を眺める丘に立つ日本人殉難者の慰霊碑に参った。
明治四十一年四月三十日、
日清・日露両戦争を戦って練習艦となった巡洋艦松島は、
少尉候補生を乗せて馬公に停泊中、
突然、謎の爆発を起こして沈没し、
三百七十名の乗組員の内、
多数の少尉候補生を含む二百七名が亡くなった。
慰霊碑は、
彼ら少尉候補生の遺体が漂着した岸の上に建てられていた。
戦前は、毎年、命日に慰霊際が行われていたが、
戦後は、日本人は慰霊に訪れなくなった。
しかし、台湾の人々は、命日の慰霊を続けていてくれた。
ある日本人が言った。
「ありがとうございます」と。
すると台湾の人が答えた。
「当然のことですよ。
私たちは、昭和二十年八月まで日本人だったんですよ。」
それを聞いた日本人は、皆、涙ぐんだ。

(3) 台湾の東海岸の村にいるとき、門脇翁が来ているという知らせを受けて、
山から続々と原住民(高砂族)の家長が子供達を連れて降りてきて酒になった。
彼らは日本人に会った途端に日本人に戻るようだった。
ある男が西村幸太郎と名乗った。
何年の生まれかと聞くと、昭和十八年という。
私は、戦前、親父がよく台湾に行っていたと聞いていたので、
父親の名を聞いた。
ひょっとしたら「榮一」というかも知れないと一瞬思った。
母から、父は、高砂族の娘に「形見」としてピストルを渡して
日本に帰ってきたと聞いていたからだ。
彼は、父の名を「榮一」とは言わなかったので、ホッとした。
同時に、高砂族の娘達は、皆、綺麗で、
その踊る姿を見て父の気持ちが分かった。

一族の長老は元日本軍兵士で無口だった。
門脇翁には、完全に上官に対する態度をとっていた。
話をしているうちに、
モロタイ島で戦後五十年を過ぎて発見された日本軍兵士で高砂族の中村さんのことになった。
長老は、彼は同じ村の者だと言った。
私が、彼に会ったか、と尋ねると、
「会わない」とキッパリ答えた。
「何故だ」と聞くと、
彼は、軍人のような態度で言った。
「彼は、私の部下であった。
歩哨に立たしていたとき、彼は逃亡した。」
「逃亡兵とは会わない。」
彼は、今も、大日本帝国陸軍の軍人だったのだ。






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