皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ

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英霊と西郷さんに会った。

2016年08月19日 | 日本・国士


平成28年8月19日(金)

 八月十五日に靖国神社で、
 英霊が今も日本を守っておられるのを感じた。
 英霊は、現役の自衛官や海上保安官とともに、日本を守っている。
 その「現場」は東シナ海である。
 
 リオ・オリンピックのレスリング競技で金メダルを獲得した女子選手が、
 亡くなった母親を上を向いて仰いでから、リングに上がった、と述べるのを聞いた。
 この選手の母は、
 子とともにオリンピックのリングに上がり子を励ましたのだ。
 同様に、英霊も、
 かけがえのない祖国日本を
 東シナ海の海上と上空で守っている自衛官達とともにいる。
 靖国神社の英霊を、
 過去の日付けの時点で亡くなった人々と思ってはならない。
 英霊は、現在の我々とともにあり祖国の運命を担っている。

 レスリングの女子選手は、
 亡き母を思はずしてはリングに立たなかった。
 だから、準戦時の今こそ、
 閣僚は、靖国神社に参拝せよと言っているのだ。

 相変わらず戦後政治の優等生が高位高官となり、
 別荘とか、海外とかでのバカンスを決め込んで、
 早々に東京を離れて、
 八月十五日には、目立つことなく過ごしていた。
 
 靖国神社が、そんなに恐いのか。
 臆病者。
 英霊は、銃砲弾の中を敢然と突撃した勇者なのだ。
 貴公ら、もう、二度と参拝するな。
 将来、再びケロリとして参拝すればもてはやされると思うな。
 かつて、ボディーガードを伴って昇殿参拝した総理大臣がいた。
 靖国神社の時の松平宮司は激怒した。
 祀られる英霊は、戦場で五体裂けて戦死された方々である。
 にもかかわらず、
 平時に自分の身を守るボディーガードを拝殿まで伴うとは何事か、と。
 彼は、明らかに参拝しないほうがよかったのだ。

 本日八月十九日は、七十一年前には、
 全日本国民が玉音放送による停戦を知らされてから五日目であるが、
 未だ千島列島最北端の占守島で我が帝国陸軍とソ連軍の戦闘が行われていた。  
 天皇陛下は、大元帥として、
 国民に対して、ポツダム宣言受諾の玉音放送をされるとともに、
 帝国陸海軍に対して大陸命と大海令を発せられ、
 各部隊の自衛以外の全戦闘行動の中止を命令された。

 占守島でも大陸命に従い、戦車の砲塔を外して武装解除の準備を開始した。
 しかし、八月十八日未明、八千九百余のソビエト軍が
 砲撃とともに占守島に上陸を開始する奇襲攻撃を仕掛けてきた。
 この攻撃に対して占守島守備隊は、敢然と自衛戦闘を開始したのだ。
 同日午前二時三十分、
 戦車第十一連隊連隊長池田末雄大佐は、戦車の砲塔を元に戻し、出撃を命令した。
 そして、日本軍は多くの戦死者を出しながら勇戦奮闘して、
 ソビエト軍に多大な損害を強いながら敵を海岸に追いつめる。
 仮にこの時、敵に対して総攻撃を敢行しておれば、
 我が軍は、敵を包囲殲滅し一人残らず掃蕩することができた。
 しかし、日本軍司令官は自衛戦闘以外を禁じる大陸命に従い、
 停戦の軍使をソビエト軍に派遣して二十一日に降伏したのである。
 優勢な日本軍が壊滅寸前のソビエト軍に降伏したのだ。
 ソビエト軍の損害は三千名、日本軍の損害は六百名である。
 
 その後、ソビエト軍は、
 武装解除したソビエト兵の命を助けた日本兵を最も苛酷なシベリアに送った。
 従って、占守島の戦いの実相は、戦後、我が国に伝わらなかった。
 しかし、占守島の戦いが、
 ソビエト軍の北海道侵略を阻止したことは確かである。
 池田末雄大佐はじめ占守島で戦死した将兵に、謹んで感謝申し上げる。

 次は私の行動記録である。
 十七日と十八日、霧島の大学時代の寮で仲良くなった友人の道場で泊まり、
 まず、鹿児島の萬世特攻基地を訪れ、
 次ぎに知覧特攻基地を訪れた。そして、
 西郷さんと、亡くなった若き同志である山下貞一さんに会ってきた。

 昭和二十年、萬世基地で沖縄航空作戦に従軍したパイロットである
 故苗村七郎元帝国陸軍少尉(大正十年、大阪船場生まれ)は、
 戦後の人生を萬世基地から飛び立って沖縄方面の敵艦船群に突入していった
 二百一名の若き特攻隊員の顕彰のために捧げられた。
 その苗村さんの心願が結実した、
 萬世特攻慰霊碑に敬礼し、
 萬世特攻遺品館において、
 特攻隊員の遺書、遺品、遺影を拝した。
 
 苗村さんは、言われる。
 「”特攻隊に遺骨はない”のですが、この世に書き残されたものはあるのです。
 そして、航空隊員にとっては
 燃料を積み、爆弾を抱いて最後に飛び立った基地『萬世』が本当の意味の
 ”戦死の地”なのです。」
 
 出撃直前、子犬を抱く隊員の周りに集まった数名の十七歳の微笑む隊員の写真!
 彼らの「戦死の地」である萬世は、きつかった。
 特攻隊員の、
 遺影や遺品や遺書が並ぶ中に入るだけで
 空間が一変して涙がにじんでくる。
 それにしても、十七歳から二十五歳までの特攻隊員の顔や墨跡、
 これほど気品のある凛々しい顔貌そして文字があろうか。
 彼らよりも、四十年から五十年も多く生きている俺は 
 一体この間、何をしてきたのか。
 彼らの足下にも及ばない。
 
 私どもは、男子七名で遺品館に入ったが、
 皆、すぐに、離れてばらばらになって見学した。
 私は、涙を見られるのがいやだからである。

 次ぎに、知覧に廻った。
 萬世に比べれば、知覧は観光地化している。
 食堂の奥さんが、五、六名の特攻隊員とともに笑っている写真が飾ってあった。
 その写真を見て、その同じ奥さんが、
 戦後に進駐したアメリカ人兵士とともに同じように笑っている写真を思い出した。
 シベリア抑留から生還した荒木さん(九十二歳)が、
 その写真を私に見せて、
 手の平を返して敵と仲良くしやがって、
 突入していった特攻隊員が可哀想だと悔しがった。

 萬世と知覧は、雰囲気が異なるが、
 共通点は、地元の自治体などが、
 やたら、押しつけるように、
 「だから平和が大切だ」というような解説を付けていることである。
 つまり、解説によると、
 彼ら特攻隊員は、今の平和な時代とは断絶した
 別の世界で生きた気の毒な犠牲者であるかのように位置付けられている。
 
 しかし、生きた時代の状況は確かに違うが、
 彼らと現在の我々は断絶していない連続している。
 彼らは、我が国の英霊なのだ。
 
 従って、彼らが今生きておれば、絶対に、
 中共の軍隊が、東シナ海の我が国領土領海領空を侵すことを許さない。
 また、絶対に、同胞が北朝鮮に拉致されることを許さない。
 彼らの写真の笑顔が、このことを雄弁に語っている。
 その写真を観る今に生きる私を含む者たちが感じる負い目の
 依って来たる所以は、
 現在の我が国においては、政府内閣も国民も、
 我が領土を守ることよりも、中共のご機嫌を気遣い、
 北朝鮮に拉致された同胞を、
 断固として武力を用いてでも救助しようとしていないからだ。
 
 我らは、彼ら英霊に励まされて、
 断固として領土を守り、
 断固として、拉致被害者を救出しなければならない。

 次ぎに、十八日、西郷墓地に西郷さんに会いに行った。
 まず、城山の洞窟から岩崎谷の終焉の地まで約八百メートルを辿り、
 次ぎに西郷墓地を訪れた。
 西郷さんの墓前で、いつもするように、
 靴を脱いで正座し、深くお礼をした。
 私は、明治六年、東京から薩摩に帰った西郷さんの生き方と哲学を
 深く学ばねばならないと思うからだ。

 その西郷さんに会う前に、
 若き同志である山下貞一さんの祀られる鹿児島神社を訪れ参拝した。
 数年前の真夏の選挙の際、二十歳の東京海洋大学の学生である山下君は、
 大阪難波の街頭で、きっちりと制服を着て旗を持って長時間立っていてくれた。
 暑さのなかのその凛々しい姿が忘れられない。
 しかし、その数ヶ月後、彼は遙か北の八甲田山麓で不慮の事故によって、若き生涯を終えた。
 幽明相隔てたとはいえ、
 山下君は、鹿児島神社宮司のご子息であるから、
 鹿児島神社に参拝して彼に会おうと思ったのだ。
 参拝を終え、父君である山下剛宮司に、
 これから西郷墓地と南洲神社に参拝すると伝えると、
 山下宮司は、薩摩琵琶をとり、勝海舟作「城山」を弾いてくださった。
 三十分以上にわたる薩摩琵琶の弾奏と朗誦、まことに見事だった。
 
 「それ達人は、大観す。
 抜山蓋世の勇あるも、栄枯は夢か幻か、大隅山のかりくらに 
 真如の月の影清く、無念無想を観ずらむ。
 何を怒るか怒り猪の 俄に激する数千騎・・・」

 この「城山」の出だし、
 かつて亡き父が唸っていた。
 懐かしかった。
 私も、父と同じように、「達人の大観」を目指したい。
 
 それにしても、四弦の薩摩琵琶の弾奏と朗誦は、
 怒濤と急流が岩を打ち瀧となってほとばしるように、凄まじい。
 深く心を打ち、海舟の南洲への強烈な追慕の情が心に響いてくる。
 そして、戦闘の場面になると朗誦は止まり、
 薩摩琵琶は弦楽器ではなく打楽器になる。
 その大きなバチは、
 弦ではなく琵琶本体を叩きつつ
 時に弦を切り裂くが如くはじくのである。
 
 「討ちつ討たれつやがて散る、
 霜の紅葉(もみじ)の紅の、
 血汐に染めど、顧みぬ、
 薩摩武夫の雄叫びに、
 打ち散る弾は板屋打つ・・・」

 明治十年九月二十四日の午前四時の
 官軍から予告された総攻撃開始前に、
 西郷さんは城山の洞窟の前で宴を開き、
 中の独りが、薩摩琵琶を、
 叫ぶが如く啼くが如く狂うが如く切々浪々と弾奏した。
 西郷さんも、
 自決終焉の数時間前に
 薩摩琵琶の弾奏と朗誦を聞いたのである。
 
 この薩摩琵琶を聞いた上で、
 西郷さんに会いに行くことができたことを、
 鹿児島神社の山下剛宮司に、深く感謝する。
 従って、参拝後は、
 直来をしなければ申し訳がたたない。
 薩摩の河内源一郎が発見した河内麹で造られた酒を大いに飲んだのである。




西村真悟の時事通信より。




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