皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ

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占領下の日付

2019年11月29日 | 日本・国士
占領下の日付に、
マッカーサーとGHQの狡猾さが暗示されている
先帝の御譲位と新帝の践祚によって令和元年となった本年、
我が国政府は、
天皇の譲位と践祚という
我が国家における皇位に関する最重要な一連の儀式を、
一貫して「マッカーサー憲法」の枠内で取り扱い、
それが不可能な領域(神事)に関しては、
「天皇の私事」として無視して無きが如く関与しない姿勢を堅持した。
そこで、私は、度々「時事通信」で、
この令和元年の譲位と践祚によって、
「マッカーサー憲法」が我が国の憲法ではないことが明白になった、
と記した。
この無効な「マッカーサー憲法」を今も墨守する日本政府つまり安倍内閣は、
今もなお、
マッカーサーとGHQの走狗である被占領下の内閣。
そこで、先ほど思いついたのだが、
メモとしてマッカーサーとGHQが
我が国で何をしたのか、
その日付を記しておこうと思う。
・WGIP開始
・東京裁判を初めとした戦犯裁判と処刑、
・言論の検閲開始による統制
・神道指令
・マッカーサー憲法(日本国憲法)の公布と施行
マッカーサーとGHQは、
これらを総て相互に関連させ連動さして日本占領統治を進めたのだ。
さらに、その日付からは、
マッカーサーという男(敵前逃亡兵)の実に嫌な性格が見える。
○昭和20年8月30日、14:05、マッカーサー、厚木着陸
マッカーサーは回顧録に、
関東だけでも二十二個師団30万の日本軍精兵部隊がいるから危険だと
幕僚に反対されたが、自分は敢えて危険を顧みず日本に乗り込んだと書いているが、
実は小便をチビってズボンの股を濡らしている。
厚木に到着したマッカーサーは、直ちに東条英機ら戦犯の逮捕を命じた。
○20年9月21日、最高司令官指令、日本放送遵則、日本新聞遵則、
つまり検閲開始。
検閲指針第1項は、
「SCAP(連合国最高司令官)に対する批判」
検閲指針第2項は、
「極東国際軍事裁判(東京裁判)批判
検閲指針の第3項は、
「SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判」
○20年12月15日、神道指令・・・日本精神の解体を狙う
○21年2月23日、山下奉文大将処刑
そして、マッカーサーは、
20世紀の名将山下奉文閣下の軍刀を
戦利品として母校ウェスト・ポイントに展示させた。
今も、閣下の軍刀はウエスト・ポイント陸軍士官学校に展示されている。
○21年4月3日、0:53、本間雅晴中将銃殺
昭和17年の4月3日、0:53、
この時、第14軍司令官本間雅晴中将は
バターン半島総攻撃を命令した。
そしてこの日本軍の攻撃で、
マッカーサーはバターン半島から部下をおいて
オーストラリアに逃亡した。
○21年4月29日、昭和天皇の誕生日に、東条英機らの起訴状 公開
○21年5月3日、東京裁判開廷、一年後のこの日、日本国憲法施行
○21年11月3日、明治天皇の誕生日に、日本国憲法公布
○22年5月3日、東京裁判開廷一周年、日本国憲法施行
○23年11月12日、東京裁判判決
 翌12月10日に、
事後法を禁じた「世界人権宣言」が
国連で採択されるので判決を早めた。
○23年12月23日、0:01、皇太子の誕生日
A級戦犯、東条英機、土肥原賢治、松井石根、武藤章の絞首刑執行
次に、
同、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の絞首刑執行
GHQは、占領期に、BC級戦犯を、約1000名処刑した。

令和元年十一月二十九日(金)





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