放映当時、シンがステラを連合に返還するというあの辺りのシーンを見つつ連想してたことがあるのです(遠い目)
その後も時々思い出して、繰り返しあーだこーだ考えたりしました。
なぜかというと、当時シンがすばらしく叩かれていたからなのですけど。
叩かれているシンを軸にいろいろ考えさせられました。
その1つは、医療のあり方について・・・です。
そんなのアニメみてて考えるなっ!って話ですけどね(^^;)
☆ ☆ ☆
話はちょっと飛びますが。
うちの下の子は生まれたときに内臓の病気でした。
「手術に失敗したらもしかして臓器移植が必要になるかもしれない」と言われていた時期があります。
目の前で命が弱っていくのをみるのは本当に苦しかったです。なにも出来ない無力感というか。その中でも可能性を探す努力というか。
手術は無事成功したのですけど、いつ再発するかわからない状態で育児休暇中ずっと入退院のくり返しでした。
一応冷静に振舞ってるつもりだったのですけど、もしかして必死な形相だったのかもしれません。周りの人や先生の、私を見るときの「同情してるけどもてあましてる」顔とか思い出します。「お母さんがそんな落ち込んでどうするの?」
そして当時私は煮詰まった頭で考えていました。
「どんな借金をしても子どもを助けたい」
「うちの子どもは私の内臓を分けてあげられる病気だけど。もし脳死移植しか道がないとしてもきっと私は助けたいと思うんだろうな。」
「ここに悪魔がきて契約したら助けてくれるっていったら、、、契約しちゃうかもなあ」
育児休暇が終わって仕事に復帰したてころのことです。ちょうどテレビで臓器移植について話があっており同僚がぽつんとこう言いました。
「自分だったら・・・そんな・・・移植してまで生きたいとは思わないな。善意とはいえ人の犠牲の上での延命なんて・・・」
その言葉はとても印象的でした。
それから私は考えるようになりました。
もし、自分が生きるか死ぬかのときはどうしたいか・・・
例えば臓器移植な状態になったとき、臓器移植をするか、しないでありのままの自分の状態を受け入れるか・・・
例えば末期に近いガンだったとき、最後まで戦うことを選ぶのか、それともホスピスで静かな死を迎えることを選ぶのか・・・
その2つは必ずしも同列に考える問題ではないと思うのですけど。
私自身は今のところ、最後はホスピスで静かにって考えています~。
でも実際にその場面に遭遇したらどうなのか・・・。
1%でも生きる可能性があれば生きたいと思わないのかな。
自分でなくってそれが自分の大切な人だったらどうなのかな。
どんな方法でも助けたいって思わないかな・・・
☆ ☆ ☆
たとえ軍規違反を犯しても、少しの可能性にすがってステラを助けたいと思ったシン。
ステラが死ぬとしても仕方ないことだと思っているミネルバのスタッフ。
シンはステラをかえすべきでなかったのでは・・・と、冷静な判断を述べるアスラン。
シンは大量虐殺者であるステラを逃がした極悪人と主張する視聴者。
その構図は私に自分の体験や医療場面を連想させました。
DESTINYを見て、「シンは正しくない」と何のためらいもなく糾弾する人達は、自分の大切な何かを無くしたことのない幸せな人なんだろうなっとか。。。~
ステラを返還すべきでなかったというアスランは、「自分ではそんな体験はしたことはないけど」したり顔で私をいさめる周囲の人に重なりました・・・。
でも、誰が正しいとかではないのですが~・・・
シンとステラのシーンを見つつ私は、人はそんなに簡単に大切な人の死を・・・または自分の寿命を受け入れられるのかなって思ったりしました。
それが感情に支配された行動でも生きたいとあがく人の気持ちを大切にしたいなーっとか。
☆ ☆ ☆
ホスピスでの静かな死というものに憧れています。
でも、個々の患者さんは・・・
きっともっともっと生きたいんだよね。
「静かな死」というのはただの2番目の選択だと思うのです。
☆ ☆ ☆
私はDESTINYがトラウマです。
トラウマすぎて、自分に当てはめることでいろいろ考えさせられたし、簡単に人を自分の尺度だけで計ってはいけないと強く思うようになりました。
まあ、ただのアニメなんですけどねー(ーー;)
初めに書いたように、なんか常軌を逸した展開の超アニメだったので、当時は・・・でした。
でも今だから思うのです。
見た人すべてにきっといろんな足跡を残した・・・そういう点で、とても価値のある作品だったのかも・・・と?!
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