私は文字を書くのが苦手です。
かなり汚い文字しか書けません。
むしろ読めないことも多々あります。
なぜなんだろう、と。
そうしたら、きっと、今の生活の癖が大きく関与してる様な気がして来てます。
昔の人は毛筆を嗜みます。
文字、そのものがArtです。
筆を使い流れるような墨の線を引きます。
墨が滲まない。
ところで
最近、私は娘にもらった万年筆で日記を書きます。
激しく汚い字です。
さらに、そのもらった万年筆が太字のペンなのです。
万年筆ですから鉛筆のように消せないばかりか、とても滲むんです。
ここで、わかるのが、一つ一つの線を丁寧に引いていない。
その上、一定のスピードで引けてない。
ダラダラと肉筆の厚いインクを押し付けてる。
と、それでは、ダメでしょう。
一つの線、そのものがArtなのでしょうから、一筆入魂です。
そして全体のバランスを気にしながら指を動かす。
これはまさしく芸術ですな。
日常生活の中に芸術活動が紛れている。
かつて髷を結って刀を脇に刺して歩いていた武士の時代。
武士の生活の中にすらそんな芸術が紛れていたんでしょうか。
むしろ生活そのももが芸術なのでしょうか。
今はデジタルの時代となりました。
ディスプレイの向こうにあるのはデジタル芸術っていうのでしょうかね。
一つの呼吸のし方で文字が歪むのが昔のArt。
一瞬ですべてが決まる。
それに比較して何度でも合成できるし過去をかえることすらできるデジタル時代の芸術。
人の感性はどっちを望むのでしょう?
生活の豊かさ、っていうものは静かな呼吸や感情の震えや心の疼き等のように、安易に見せるという行為すらできない、そんな次元に潜んでる気がします。
休みの日に、日がな一日、草原に寝転んで空をボーっと見てることができますか?
きっと私にはできません。
イライラして、時間がもったいない、と思うでしょうね。
それくらいの時間があったらスマホでゲームしてる。
っそういう時代に心のオアシスって言えるような時間を持てるのかどうか?
心が一筆に相当の時間を費やして一筆入魂ができるならば
朝から晩まで寝転んで空をボーっと見てることも容易くないですか。
どっちが人の感性を正常に純粋に健全に保ってくれるのか?
あくせくしたくない。
そう感じながら定年を迎え、さらにアルバイトで時間を気にしてる。
私たちの時代は「心の不幸を望んで生きている時代」なんじゃないか、と思ってしまいます。
オリンピックの選手たちは一つの競技に多くの時間をかけて他のことを犠牲にしてる。(そうでない場合もあるでしょうけれど)
極端な表現をすれば「一つのことしかできない片端者」(これは差別用語ですがここでは敢えて使います)
何故敢えてこの言葉を使うのか?
それはそのほうが人として正常な「人」だと思うから。
現代人の一般の生活の方が非正常なのじゃないでしょうかね。
「楽」は本当の楽であってほしい。
例えば「音楽」は音を楽しむこと。
音を楽しんでたらそれだけで音楽。
それが日常の中で生きる。
そこの最たるものはむしろ「鼻歌」でしょ。
もっと、本当のことを知りたい。
本当の自分の生き方をしたい。
今、私は生きてると言えるんだろうか、、、、