自動車教習所で運転の仕方を学んでも、実際の現実の車社会の運転の仕方はまるで違う。
学校教育の現場も同じようなもので、いくら学校で優秀な点をとって、卒業しても現実社会に労働者として働くようになったその現場は学校とはまるで違う。
では学校とは何を教えるところなのだろうか?
若者はその学校と言うところで、若いうちの時間を無意味に過ごしているのではなかろうか。
そうならば、本当に現実に役に立つ教育を受けた方が良いのではないだろうか。
何度も感じる。
それでも実際の人の世の中に出た時、学んだ世の中の生き方と現実の乖離が甚だ大きいだろう。
現実というもの。
言葉では平和を歌っていて、その上で 平和第一主義を唱えている人たちがやっている事は、結果として、自分の主義主張以外を排除していく行為に他ならない。
言っていることと、やっていることがまるで逆。
それが人間の世の中なのであれば、戦い または戦争は永遠になくならない。
中国のスーパーコンピューターが弾きだした事を聞いた。
最終的に世界が平和になる、その結論は、中国共産党の排除だったらしい。
おそらく、人の世を平和にするためには、どうしたらいいかをスーパーコンピューターに問いかけたら、きっとこの宇宙から人間がいなくなることだと言い出しかねない。
だからお釈迦様は「何もしない、見ない、言わない、聞かない」を菩提樹の下で悟ったのではないだろうか。
それが「禅」なのか。
あるいは、イエス・キリストは右の頬をぶたれたら、左の頬を出せと言うような意味の、自ら滅ぶ道を選択する行為を唱えたのではないだろうか。
しかし、それを理路整然と説得するには、人間はあまりにも主観的な生き物だ。
従って、結果として、自分以外の主義主張を排除すると言う行為を最後には選ぶのであろう。
そろそろ人の世も終末期に入る。
できるだけ可能な範囲で本当のことを知った上で、この世を去りたいと思う年代になってきた。
気になることといえば、自分たちの子孫がどういう道をたどるのか。
残念ながら、自分の存在しないこの宇宙のあり方など確認しようがない。
死んだ後の出来事は知り様が無いから。
ただ、自分の有限の時間の中で祈ることしかできない。
それにしても、最近の悩みは、自分のこのコミュニケーション障害をどういう風に少しでも楽にしようかということ。
これもまた自分のエゴがなせる技なのだろう。
遥か過去から今までを観察して 人は進化してないなぁと、嫌でも納得せざるを得ない。
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