飲み屋に行った。
仲のいい友人三人といった。
飲み屋は以前同じ職場の同僚の女子がやっていたオープンなカフェバーである。
女子は以前は看護師を目指していたが訳あって今はカフェバーを営んでいる。
オープンしたてのお店である。
ドアもガラス張りで周囲の窓もガラス張りの相当オープンなカフェバーだから明るい雰囲気である。
夕方から入ってしばらく飲んだ。
飲んだと言っても自分はお酒は飲めないので何やらアルコールのない飲み物だけでお付き合いをした。
お酒が入るとみんなは色々と言いたいことを言う。
面白おかしく言う。
今の自分の近況とか周りの出来事とか不平不満などを面白おかしく話す。
専ら私は聞き役だった。
時間を忘れてダラダラ話す。
2時間くらいして一番アルコールに強いはずの身長190cm、大柄の友人が帰った。
なのも言わずにドアを開けてスーッと出て行った。
いつもそんな感じらしい。
彼はワリとそこの店に行きつけてるらしい。
他の二人もじゃあそろそろ的な雰囲気を感じた。
自分は「じゃあそろそろお勘定」と言って立ち上がった。
他の二人もお金は無さそうだったので何も言わない。
店の娘が「お酒飲んでないのにあなたが払うの?」と言った。
「いいよ」
そう感じた。
確かにそういったお店で支払いをするのはそこの席を支配した主人公であるはずかもしれない。
支払いを躊躇する理由はない。
自分は随分楽しんだから、と思う。
飲み屋の存在。
それは巷で言えない事を言い合うことができるから。
そう思う。
最近特に巷で多くの人が集まってワイワイガヤガヤ騒ぐとイケナイ風潮がある。
しかし、人は広く世間では言えないこと悪言罵詈雑言を言いたいものではないかしら。
なので、お酒の席で猥褻な言葉やメディアでの放送禁止用語などを言って開放的になる。
最初は善悪感情が働いてなかなか言い出せない。
だからアルコールの力を借りる。
ゴムは引っ張り続けたら伸びきってしまってそのまま老化して固くなりきれてしまう。
人の感情もそうではないか。
なので、伸ばしたら縮ませる。
緊張した生活であるならば弛緩させる必要がある。
真面目な生活をしてる人ほど飲み屋では悪態をつくといいのではないかしら。
「なの人、あんンな事を言うんだね」
それでいいと思う。
そう言う場を作ってやる。
その場が飲み屋であるのかもしれない。
まぁ、アルコールがあり、そこで飲まないといけない、という事もない。
したいことは言いたい事を言い離せること。
それで伸び切った自分の気持ちを正常にすること。
言うなれば、精神科のカウンセリングに近いかもしれない。
以前、精神科似通ったけれど、職業医師としてのカウンセリングは気分は晴れなかった。
こっちも意識するし、医師も仕事であるからそういう目線で対応する。
話したいことを話せない。
高額の医療費を支払って何度も何日も通い、やっと数%の話ができる。
私の場合は以前は母親であった。
年齢も20代後半、まだ独身で、田舎に住んでた頃。
まだまだ幼い人格だった頃は母親が自分の酒に付き合ってくれていた。
職場での悪口や悪態を言い続けた。
私の酒はからみ酒だ。
父も馬借をしてたけれどあまりに絡むのですぐに席を立つ。
母はずうっと自分に付き合ってくれていた。
泥酔寸前になると母が「そろそろやめな」と。
気持ちが崩壊せずに済んだのは母のおかげ。
菩薩様。
私にとって母は菩薩様である。
今、生きていられるのは母のおかげ。
産んでくれて見捨てずに最後まで見守ってくれる。
その母には子供の頃から迷惑をかけた。
迷惑の塊のような存在だった。
周囲の人も私をそう言った。
けれど、母は今でも自分を見捨ててない。
逆に自分は母を未だに蔑ろにしてる。
悪いやつだなぁ、と思う。
地獄に落ちても文句は言えない。
他人様との折衝なら色々とあるだろう。
開き直れる。
母なる地球という言い方を聞いたことがある。
地球なる母とは言わない。
地球は母のような偉大な存在だ、という事だろう。
地球よりも母親の存在は偉大だ、という事だろう。
まさに神だ。
若者が巷で酒をので暴れて問題になる。
飲酒運転で事故を起こして問題になる。
根っこにあるのはアルコールというよりもその存在とその必要性を考える。
飲み屋があるのはその人と人との出会いやコミュニティの存在なんだろうなと感じる。
今の社会に出てきたSNSの存在も似た感覚を持つ。
色々と課題は残っているけれど、人が語れない言葉や話題を言える場所を求めて様々な人が出会う。
それに出会える場所。
でも、広く罵詈雑言、禁止用語を使えない。
でも、それを言い放ちたい。
誹謗中傷したい。
そういうマイナスの部分をどこかで消化したい。
そうでないと解放されない心の抑圧が存在してるのだろう。
言葉で傷つく人がいる。
しかし、聞かなければ、見なければ何も無かったのと同じ。
ならば、そういうことができる別の世界はないものか。
私は生まれつき口が悪い。
だから周囲の人から「なんでそんな事をいうの?」と言われる。
私は逆に「?」となる。
どうして言ってはいけないの?と思う。
でも、逆の立場ならわかるのかもしれない。
私は猜疑心がつようにか、「本当にそうか」と、色々と考えてみたい人。
なので、逆の目線や他の目線、逆説、批判や非難など、様々な考えをする癖がある。
それを考えたら口に出してみないと気が済まない。
「本当のこと」を知りたい。
そう思うから、世間が決めたことだけに囚われたくない。
誰でも似た思いはあるはず。
それをどこかで解放しないと収らない。
飲み屋は限られた空間で色々と言えないことを言える場所。
ネット環境の中でもそういう場所があるのだろう。
自分が知らないだけだろう。
最近、ウクライナとかコロナと書くと注意書きが画面に現れる。
それはある意味、正しい。
でも、それを会話できないとするならば課題を残す。
先日、世間では禁句をされてる文字を書いてしまった時に「この表現は適さないので掲載できません」と出た。
確かに、それも正しい。
世の中から抹殺される文字や活字、用語。
それを私の存在に置き換えると、なんだか言い表せない感情が湧く。
飲み屋での2時間。
アルコールを摂取しなくても、ほとんどコップに手をつけてなくても、ほぼ、聞き役でも、それは問題ではない。
私は「いいよ~。◯◯ちゃんに会えて話ができたから満足だよ~。また来るね~」と言って支払いをした。
飲み屋はそれが仕事。
適当にお相手してお金を稼ぐ、と言うのは簡単だ。
でも、実際やってみたら大変だ。
きついだろう。
精神科のカウンセラーと同じ免許制にしたほがよくないか?などと言ってみる。
損をしたとは全く感じない夜を過ごして帰る。
それでいい。
昨夜はほぼ眠れず、今朝ほど そういう夢を見た。