犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

『道草』の中年危機

2023-11-28 21:12:00 | 日記

夏目漱石は、修善寺温泉で胃潰瘍の療養生活を送っていた時のことを『思い出す事など』という作品に残しています。それを読むと、当時43歳の漱石の病状が相当に重かったことが分かります。
大吐血して意識を失いかけている時に、医師二人が脈をとりながら、「駄目だろう」とか「子どもに会わしたらどうだろう」などとドイツ語で話し合っているのを聞いているのです。もっともこの時、漱石はよほど腹が立ったらしく「私は子供などに会いたくはありません」と大声で言い返したのですが。
このときの死を明瞭に意識した経験から、漱石の作品に変化が生じます。

河合隼雄の『こころと人生』(創元社文庫)によると、人生前半の悩みと、後半の悩みは全く異なり、後半の悩みは「中年の危機」などと呼ばれる症状で顕在化するのだそうです。これは精神の疾患だけではなく、身体の病気や人間関係のトラブルといったかたちでも現れます。人生前半の悩みとは、自分は社会に出て、どういう職業に就いて、どういう人と結婚し、どのように社会に貢献するのかといったものです。それらは外部との関わりにおいてある程度解決されうるものとも言えます。

これに対して、人生後半の悩みは、どれほど社会的地位を得ても、家族や人間関係に恵まれていても、それらによって解決しません。死を前にして何ほどの意味を持つものでもなくなるからです。
自分は何のために生きているのかとか、本当の自分とは何かということが、むき出しのかたちで問われるのが、人生後半の悩みです。したがって、それは人生前半の悩みとは比較にならないほど深く、難しいものです。
河合によると、人生前半の悩みは「いかに生きるか」が問題なのに対して、人生後半の悩みは「いかに死ぬか」と言い換えられます。

夏目漱石は、大病により死に直面することで、人生後半の悩みに向き合い、『彼岸過迄』『行人』『こころ』といった作品を生み出すことになります。漱石は明確な答えを見出すことによって、隘路を切り開くのではなく、奥深い悩みに触れながらも、なおかつ生きていかなければならない、どこか俯瞰した視点を身に付けたのだと河合は言います。後期の作品『道草』には、まさにそういう視線の移動が感じられるのです。

『道草』には、とうに縁を切ったはずの養父が、しきりに金を無心に来る話が出てきます。養父にお金を渡してしまう主人公に、妻は不満を募らせ夫婦仲に亀裂が入る様子が克明に描かれていて、そこに何とも下世話な感覚が滲んでいます。この養父との関係は漱石自身の実体験をもとにしているので、相当に吹っ切ることができなければ、小説の題材にできなかっただろうし、それを面白く詳細に描いて見せることなどできなかったと思います。

死に直面した自分の世界をじっくりと見回すことで初めて、漱石は自分自身を俯瞰し、作品として描くことができたのでしょう。『道草』の主人公は最後に「世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない」と述懐しますが、それはボヤきではなく、「いかに死ぬか」という問いへのひとつの答えのように聞こえます。


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