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敗戦・天皇・日本人

2017-11-16 09:26:33 | 政治
>『敗戦と天皇制、日本人とは何か』

>日本人にとっての長年の最大関心ごとだった『日本人とは何か』の問いも、1949年の第二次世界大戦での日本の敗戦が大きく影響したのは疑いない。
>このときに日本人にとっての世界とは、『変え得るもの』では無く『変わり得るもの』と経験的に認識した(あるいは強制された)ことを、全国民的に確認したことに尽きるだろう。

日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制という者がない。だから、日本人には意思が無い。
意思が無ければ ‘変え得るもの’ は無く、’変えられるもの’・’変わりうるもの’ ばかりになる。

>日本人にとっての『世界』とは、欧米一神教世界や中国のように『改造』するためにあるのではなくて『解釈』するためにある。

そうですね。日本人にとっては、世界は ‘改造するもの’ ではなくて、’解釈するもの’ ですね。日本人は、傍観者の立場に立っている。

>『変え得る』と考えたのは例外的に極少数の共産党員程度で一般の日本人は誰も変えようとは望まなかったし、また変え得ようとは考えなかった。

世の中が変わったら大変なことになると考えていたのでしょう。

>一般の多くの日本人にとっては『変え得る』ではなく、自分が学校で学んだ教育勅語の『古今に通じてあやまらず』だったのである。

そうですね。我々は、どこにも行かない。日本語文法には、時制が無いですからね。過去・現在・未来の内容を、別々に考える必要は無いです。
時制があれば、我々はどこから来たか、我々は何者であるか、我々はどこに向かうかの問いに答えを用意しなくてはなりませんね。

>天皇家は万世一系で未来においても千代に八千代に弥栄えるはずでその権威は永久的なものであると信じられていた。

そうですね。時制のない考えは、静的ですね。太平の眠りに入りますかね。

>あるいは永久的だと仮定されていた。

お変りの無いことは、天下泰平のしるしですね。

>ところが無条件降伏で万事が変わってしまう。

そうですね。下駄はアメリカに預けられましたね。

>アメリカ占領軍は、これまで『永久不変である』と信じられていたもの(天皇の権威を頂点とする社会や精神の構造や国家体形)を根底からいとも容易く破壊してしまう。

アメリカ人は、序列制度を嫌います。

>しかもそれに代わるべき民主主義の構築には決して熱心ではなく第二次世界大戦終了直後から、すぐさま今までの同盟国ソ連に対する冷戦を開始している。

アメリカ人は、共産主義が嫌いですからね。

>日本軍国主義の陸海軍は解体したが天皇の権威を頂点とする官僚組織は解体される事は無く丸々温存して、トップの首の挿げ替えだけでお茶を濁してそのまま自分(アメリカ)の(天皇の変わりにGHQを最高権威とする)統治機構に鞍替えさせ現在に至っている。

日本を根底から作り変えることもできませんしね。

>有名な敗戦直後の米軍用従軍慰安婦や教科書の墨塗りの話も、決して占領軍の指示ではなくて日本側の忖度(過剰適応)の結果だった。

日本人は気か利く。おもてなしの心ですね。

>日本の官僚組織は優秀なので命令されれば即座に実行し、命令されなくても最高権威(アメリカ)に対しては忖度して先回りして実行する。

忖度・推察は、聞き手の勝手な解釈です。あまり得意にならない方がよいですよ。かえって相手が迷惑することがある。優秀とは言えない。

>今の官僚組織が対米従属命で売国的なのは本質的な問題点で、このように敗戦時に自分の主人を乗り換えて生き残った歴史的なものだったのです。

日本人は、身替わりが早いですからね。無哲学・能天気ですから、要領が良いのです。

>ところが占領時のアメリカは気前はよかったが曖昧な日本人以上に曖昧で複雑だったのである。 本音(好戦的な帝国主義)と建前(基本的人権、民主主義、政教分離)の深刻な二重構造だった。

何しろアメリカは、戦争をして独立を勝ち取ったのですからね。戦争なしには、自分たちの存在は考えられません。

>永久不変の絶対天皇制が、脆くも崩壊する現実を目の前で見た日本人は、『永遠であるものなど何も無い』ことを、『人間以外の何かが我々の世界を保証しているのではない』ということを、したがって『全ての文明は滅びる』ものであり、いわんや極東の島国の秩序は何時でも、『変わり得るものに過ぎない』ということを、変われば前の世界で通用していたものは後の世界ではまったく通用しなくなると言うことを、理論としてではなく経験として理解する。

そうですね。貴重な経験でしたね。

>要するに、自分たちの永遠だと信じていた世界は相対的であると理解する必要があったのである。>しかもこの場合に一番決定的で問題だったのは、『世界は(自分たちによって)変えられる。』ものではなく、『世界は(誰かによって)変わる』ものだった経験であろう。

日本人は無意思ですから、能動は考えられず、受動ばかりの解釈ですね。

>敗戦による一種の革命は外部から突然きて起きた変化として受け止められたのであるから、それなら本居宣長の『もののあわれ』や『無常観』が再確認されたのだろうか。

伝統的な無常観を再体験しましたね。

>日本以外の他の国々では、歴史的意識は一つの世界をその内側から壊して別の世界を築きあげる経験の蓄積でしか獲得されない。>そのときには古い現在の権威は、来るべき新しい権威によって否定される。

そうですね。

>しかし1945年の日本の状況はそうではなかった。>来るべき新しい権威だった筈の『民主主義』は不完全にしか構築されなかったが、(永遠と信じられていた)旧来の秩序や生活の基盤となる権威の大部分は動揺し、くずれ、失われたのである。>このときに大多数の国民の意識の中で失われたのは『天皇の絶対的権威』ではなくて全般的な『権威そのもの』だった。

そうですね。それは、序列に基づく権威ですね。

>日本人の間に、民主主義の歴史相対主義ではなくて、目の前にあるどういう価値も信じないという末世的な現象が起きるのは当然の成り行きだった。

無哲学・能天気の民には、価値観の創設は難しいでしょうね。

>この権威一般に対する国民の不信感は深刻で、今の新しい最高権威である戦後『民主主義』自体にも向けられたのは当然な成り行きであった。

無哲学・能天気であっては、民主主義は衆愚政治になりますね。

>敗戦後に日本国でも民主主義が根づいたが、それは一面的表層的現象にとどまり、それ以前の社会の天皇の権威に代わる、『あらゆる価値を支える原理』としてでは無かった。

崩壊した序列に対する価値に代わるものが創設できないのですね。

>天皇を中心とした世界の崩壊により生まれた(民主主義原理を含む)権威一般に対する拭いがたい不信感(権威一般が信頼されない)虚無的な現在の危機的状況の克服に、日の丸君が代の強制や極右政治家安部晋三の復古主義(レジーム・チェンジ)などの、はるか昔に崩壊してしまったもの(天皇の権威)の復活によっては絶対に解決出来ないのは自明の理である。

もう、こりごりですね。

>『知識人の戦争協力と、国学(神ながらの道)』
> 日本の戦前の一般的な知識人においては『実生活』と頭の中の外来(おおむね西欧)の『思想』とは一致しておらず離れていて、基本的に無関係に近い薄い間柄だった。

そうですね。日本人の頭には、実生活・現実はあっても、思想・非現実はありませんね。

>そのため思想は、危機的な場合には、実生活の側からの要求に簡単に屈服してしまう。

哲学・非現実が無くては、時流に流されますね。現実の世の中を迷走しますね。

>その実生活とは、直接には小集団の内側の束縛(いわゆる絆?)を意味していたし、間接には一切の価値を超越し科学的な分析の対象であることをやめた国家・日本の精神的束縛(国家の絆?)を内容とするものであった。

内向きの姿勢ですね。

>実生活と離れた知識人の思想は、実生活に対して超越的な価値概念も、真理概念も作り出すには至らなかった。

考え・非現実を作文できないのですから、発言には意味もなければ、矛盾も有りません。自分自身の哲学は、構築できませんね。矛盾をいとわず発言すれば、それらは空想・妄想になります。

>先進的な外来思想は頭だけで理解されていたので、心情や生活感覚とは無縁の二本立て構造だったので当時の民族の伝統的文化とは切り離され、当時の知識人と一般大衆とを切りはなしていた。

そうですね。受け売りの外来思想と伝統的な歌詠みの二本立て構造でしたね。

>『かんながらの道と古事記』
>本来キリスト教の一神教世界(西洋思想)はプラトン的な観念論世界であり、そこでは価値や真理とは歴史的に超越的なものとして成立している。
>ところが日本では古事記の昔から日本の精神的構造の中に超越的な動機は含まれていなかった。

日本語は、現実描写の言語ですから超越的な表現はできませんね。日本語文法に時制というものがありませんから、非現実の内容を文章にすることはできません。非現実の内容は考えの内容であります。

>その後の日本の歴史に外から超越的な儒教や仏教が入ってきたが、日本的な超越的でない『かんながらの道』の伝統を、やはり根本的に変えることは無かった。

考えの内容は、和文にならないでしょうね。例えば、前世、現世、来世に対応する過去時制、現在時制、未来時制といったものは日本語文法にはありません。

>逆に儒教や仏教の方がその超越的な本質部分を変えて、物事をありのままにそのまま受け入れるという日本的な『かんながらの道』に変質しているのです。

非現実を現実にして見せるわけですね。現人神のようなものですかね。

>その意味で戦時中の知識人も、はるか昔の『かんながらの道』につながっていて、千年以上も実生活を超越することが出来なかった『思想』や『哲学』『宗教』が、超越性を獲得できないのは当然だった。

時制が無ければ、非現実の表現はできません。非現実の内容でなければ、考えでない。考えの体系でなければ、思想、哲学、宗教にはならない。ということでしょう。

>『国学』において日本を代表するものとしての『かんながらの道』は知識人の戦争協力のみならず、日本の近代思想を内側から解くかぎであり、その意味では本居宣長はその意味では正しかった。

‘かんながらの道’ とは、神道のことですね。戦争協力で近隣諸国から危険視されていますね。


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