馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

創業30年の記憶(5)棄てる神あれば拾う神あり。

2012-11-23 17:32:40 | 日記

11月22日(木)昼過ぎ、成田空港に着いたと、台湾の取引先社長から電話が入った。

昨日の接待へのお礼への電話だ。

昨夜、息子夫婦が浅草のホテルまで送っていった。

11月14日ブログ 「水落石出」に書いたが

http://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/7f7ef5ccbe9a0156cb51779d82336e14

仕入先の嫌がらせで仕入れが出来なくなり途方にくれた。

以前勤めていた会社の後輩の赴任先を頼り、台湾に出向いた。

私が在籍していた会社の台湾支店の撤退に伴い

商権の一部を引き継いだのだが、その一番大きかったのが

台湾筆記具メーカーの社長の存在だった。

創業30年の記憶(4)に書いた。

http://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/542a7976114ad956a3e481474ade4ccb

 

昭和時代から一気に平成の現在に至るが

息絶え欠けようとした私の会社が台湾メーカー社長のバックアップにより

新たなビジネスに歩みだした。

貿易実務の経験や外国語も話せない私は躊躇した。

台湾社長が日本語話せる台湾人担当を置くと言う。

そして金銭面は当初、撤退が迫っていた日本の台北支店が立替払いをしてくれた。

必死にセールスプロモーション用ボールペンを売り込んだ。

高度成長、バブルが始まろうとしていた。

台湾社長の信頼も得て元号が昭和64年から平成元年に変わる時

台湾社長から日本の展示会に出展要請がきた。

インターナショナルギフトショー出展費用、及び商品サンプル提供

日本語カタログ、社員派遣まで全て台湾会社が出したのだ。

雨垂れのごとき少ない仕事がシャワーのように振り注いだ。

その後27回連続出展をした。

派遣された台湾人社員は日本の大学に留学して台北に戻り勤めたばかりだった。

親日の30歳の青年だった。

社長と台湾人社員が私のその後の人生に多大な力を与えた。

台湾社長家族と私の家族同士の付き合いになった。

 

後に台湾人社員はその会社を辞めた後、台湾2部上場プレス会社の役員になった。

今でも互いに交流があり、助けてもらっている。

私の友人が台湾旅行すれば親身な案内をしてくれる。

 

私の息子も高校生時代無頼の生活に陥ったが

高校2年生夏、台北の筆記具工場で仕事させた。

次の年、夏、冬休みも工場で仕事させ

未成年だったが、怪しげなクラブにも出入りさせた。

台北で彼女も作った。

 

見守ったのは台湾人社長とその社員だった。

息子は日本の大学を卒業すると台湾に留学した。

保証人はもちろん台湾人社長であり

後見人は台湾人青年だった。

やがて無頼の生活から立ち直った。

 

昨夜、浅草橋で食事をした時、息子は結婚した報告と嫁さんを紹介した。

二人で宿泊ホテルまで見送った。

 

台湾人社長の父親は親日家で植民地時代が子供だった。

日本語が上手で台中でミカンを生産していた。

私が訪ねると、日本語のカラオケを歌い

日本人恩師との交流の手紙を見せた。

5年前に亡くなった。

 

私同様息子にとっても恩人なのだ。

 

決して恩を仇で返すことなど出来ない。

 

日本で「あんたには売らない」と言った社長。

 姦計をもって騙したつもりが逆になってしまったのだ。

当時として600万円の売上金額を自らの愚かな策略で失い

信頼までも失った。

私は新たなビジネスに乗り出したのだ。

 ビジネスモラルなき社長の行為は

私にとっては反面教師なのだ。

 

勤めた会社に棄てられ

その後、独立したら仕入先に捨てられ

澱んだ水が首から下まである古井戸に落とされ

這い上がる術のなかった私を外国人が引っ張りあげたのだ。

 

捨てる神あれば拾う神あり

 運命は分からない。

 

眼前の利益を求め理不尽極まりない人間もいれば

遠く大局観を持ち、大きな収穫を得ようとする人間もいる。

 

 

この世で生きてゆくということは、損得勘定じゃあない。
短い一生なんだ、自分の生きたいように生きるほうがいい。

山本周五郎