馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

ロシア兵の若者、万葉時代の東国の若者。

2022-03-02 08:30:43 | 日記

続きです。



死亡のロシア兵が母親とのやり取りrosia


ロシアの若い兵士が
お母さん、怖い、死にたくないとメール。
プーチンが斬首されない限りか
ウクライナの降伏
二つしかないか?


日本も千年も昔、
東国から徴集された若者がいました。




万葉集に採取された東国の若者が
九州大宰府に死出の旅路を母が歌った。
ネットよりの引用です。
防人
防人とは、古代、九州北部防備のために置かれた兵士で、大宰府に防人司が置かれた。大化前代以来の舎人制を引き継いだ制度で、663年(天智天皇)の白村江の敗戦以降に整備された。東国出身のものが大半を占めている。防人は難波に集結して、海路で大宰府に送られたが、負担が重く、逃亡・忌避する者も多かった。


防人の歌
 『万葉集』の時代、社会は律令制を基礎に動いていました。
そして律令制において民衆に課せられた数々の税のなかでもとりわけ厳しいものだったのが防人(さきもり)の役でした。防人に指名された農民は、道中の費用を自己負担して太宰府まで出向き、そこで3年にわたって軍役につかなければなりません。また、任期を無事遂げたとしても、労役で弱った体が故郷への帰路に耐え切れず、家族と再会できずに斃れることもありました。つまり、防人はまさに命がけの労役だったのです。当時の人々にとって、自分の家族が防人に出向く姿を見ることは、あたかも赤紙で戦地に送られる家族を見送るような気持ちであったことでしょう。『万葉集』には、防人に出向く夫を見送る妻の惜別の情を歌った短歌がいくつか収められています。そのうちの一首を紹介が次の歌です。


防人に行くは誰が背と問ふ人を 見るがともしさ物思ひもせず
訳:「防人に行くのはどなた?」と尋ねている人を見ると、うらやましい。物思いもしないで。
防人の歌は出征する防人が妻・子ども・恋人・父母などを歌ったものです。
   立ち鴨の 立ちの騒きに 相見てし 妹が心は 忘れせぬかも (4354)
    あわただしく出征させられて、急いで別れた彼女の心が忘れられない。


   ひな曇り 碓日の坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも (4407)
    まだ碓氷峠を越えたばかりなのに、彼女が恋しい。


   韓衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして (4401)
    母親もいない子なのに、取り付いて泣く子を置いてきてしまった。


   家にして 恋ひつつあらずは 汝が佩ける 大刀になりても 斎ひてしかも (4347)
    父親が出征する息子の刀になって守ってやりたいと願っている。
    見送る父が歌ったもの。


   海原に 霞たなびき 鶴が音の 悲しき宵は 国辺し思ほゆ (4399)
    大伴家持も防人の気持ちになって歌いました。
    鶴の鳴き声が悲しく聞こえる夜は、とりわけ故郷が思い出されることだ。


④ モンゴルの襲来を撃退できた理由




  「なぜ蒙古襲来を日本軍が撃退できたのか」については、さまざまな理由を挙げることができるでしょう。たとえば、文永の役における苦戦の教訓を生かして、防塁構築などモンゴル再来に備えて入念な準備をしていたとか、大風雨という偶発的な自然現象に助けられたとか。しかし、もっとも大きな要因として、次の二つのことは挙げられるでしょう。


 一つには、日本軍の戦意の高かったこと。


 日本側の徹底抗戦の意志は固く、1276(建治元)年と1281(弘安4)年には、日本側から敵国へ攻め入る計画まで立てられました。この時幕府は、九州地方の武士たちに「異国征伐」への従軍可能兵員の調査を命じました。その報告書が何通か現存しています(「北山室(きたやまむろ。熊本県)地頭尼真阿請文(あましんあうけぶみ)」建治2年閏3月3日付け。石清水八幡宮蔵)。しかし、「異国征伐」は結局は実行に移されず、北九州から中国地方にかけて防戦体制の徹底がはかられたのでした。


 幕府の指揮のもと、おもに九州地方の武士たちが命がけで奮戦したのが、蒙古襲来を撃退できた大きな要因の一つでした。


 二つには、元に征服された高麗や旧南宋の人びとの抵抗があったこと。


 元に投降した南宋の人々から成る江南軍は、戦意があまり高くありませんでした。高麗の人々は30年余りモンゴル軍に抵抗したのちに服属しましたが、服属後も三別抄(さんべっしょう)の乱(高麗王朝のもとで、3隊に編成されていた特別編成の選抜部隊(別抄)を三別抄といいます。元の侵入に頑強に抵抗しましたが、1273年に平定されました)などさまざまな抵抗を続けました。また大越(ベトナム)の人びとの間にも元への抵抗の動きがおこりました。


 こうした中、元の日本遠征はその後も計画されたものの、結局はフビライの死によって断念させられることになったのです。




防人に出かける夫を、お隣さんの奥さんでしょうか、誰か近所の人が「どちらのお宅の方かしら」と興味本位で見ていたのでしょう。
しかし一方で、この歌の詠み手である防人の妻にしてみれば、一家の大黒柱との別離は痛切な感情を伴うことは想像に難くはありません。そしてこの妻は、他人事のように無邪気に問いかける人に対して「ともし」(うらやましい)という気持ちを吐露します。句末にポツンと添えられた「物思ひもせず」が、妻が不条理をかこつような余情を醸し出しています。

いつの時代も若者は 邪悪な権力を持った無知の踏み台にされる。

孫ダンス1