馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

ロシアがポーランド軍人2万5千人を殺戮したカティンの森。

2022-03-30 07:50:08 | 日記


ブックオフでカティンの森と題する物語を買った。
定価876円 販売価格246円



ずっと前、BS放送で見た。
記憶としてはかなり薄れた。
ロシアとポーランドへの侵攻で起きた
残虐事件を知った。
ポーランド軍人2万5千人を虐殺して
カティンの森に埋めた。
衝撃だった。


手元に本はある。
しかし、読むのには勇気がいる。
今も現実にロシアがウクライナ人を殺戮しているからだ。
約束を気に入らなければ、簡単に反故にする。
平和協定など、遵守する気など毛頭ない。
ないと言うより、その理念が無いのだ。


言葉は言葉に過ぎない。
ロシア言語には
「説明は説明に過ぎない」。
「約束は約束に過ぎない」。
安倍川もち、森喜朗の蜃気楼の森、鈴懸の径、
みんな騙されあしらわれた。
な~にも、かの政治家は表明してません。
サラリーマン時代、私を面倒みてくれた先輩の
御父さんはシベリア抑留され死んだ。
ロシア人を見ると、形相が強張り、
青い顔で睨みつける。
ウクライナが平和を取り戻したら
読もう。



カティンの森事件
概要
1939年9月3日、ダンツィヒの返還を求めてドイツ軍は西側よりポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発する。開戦前、独ソとの間に交わされたモトロフ=リッベントロップ協定により、ソ連軍も東側から侵攻を開始。軍事大国に挟撃されたポーランド軍はあっと言う間に倒され、降伏に至った。ポーランドの国土は独ソによって仲良く半分こされ、支配を受ける事となる。


ソ連の支配下となった東側では、ポーランド人はシベリア北部へと強制移住させられた。捕虜になったポーランド軍将兵は25万に達し、その身柄は秘密警察(NKVD)に引き渡された。このうち、ソ連の領土である西ウクライナ地方と西ベロルシア出身の兵士は解放された。捕虜は出身、階級、民族などに応じて8つの強制収容所に送られ、約7000人が銃殺。13万3000人ほどが強制労働や移動途中で死亡したとされる。


そして、3つの収容所に送られる予定だった1万5500人の捕虜が忽然と姿を消した。


カティンの森事件
ソ連は、捕虜にしたポーランド将兵を共産化させる再教育を試みたが、反ソの意志が強いポーランド人には通用しなかった。1940年3月5日、ソ連共産党政治局は「特別手続きによる処理」を決定。つまり捕虜全員を銃殺刑に処する事を意味していた。ちょうど対フィンランド戦(冬戦争)で新たに捕虜を獲得した事もあり、早急に収容所を空ける必要があったのだ。この決定はNKVD委員長べリヤによって提案され、スターリン以下政治局員7名の署名で実行に移された。1920年から翌年にかけて生起したポーランド・ソ連戦争でソ連が敗れており、スターリンがポーランド軍人に私怨を抱いていた事が引き金になったとされる。


毎朝、モスクワからコゼルスク特別収容所に電話がかかってきて、処刑が決まった捕虜の名が読み上げられる。該当者は突然「西へ向かう」とだけ言い渡され、駅で汽車に乗った。西へ向かうと言いながら進行方向は北東であった。4時間ほど揺られた後、グニエズドヴォ駅に到着。NKVDが厳重に警備する中、黒塗りの輸送車数台に乗せられて、カティンの森へと向かう。そこには高さ2mの金網に囲まれた、8つの穴があった。そしてスターリン直属の125名の処刑人が、ヴァルター拳銃片手に待っていたのである。ここで捕虜は「解放」ではなく「処刑」される事を悟った。穴のふちに立たされた捕虜は、後ろから銃殺された。抵抗する若い将校は両手と首を縛ったうえで銃殺された。遺体の多くに抵抗した跡があり、いかに理不尽な死であったかを静かに物語っている。処刑場は全部で3ヶ所あり、他の収容所から連れてこられた捕虜も殺されている。


2~3m掘られた穴の中に遺体を9~12体重ね、その上から土をかぶせて埋葬。遺体がある事がバレないよう、埋めた場所に松の苗木を植える徹底っぷりであった。最初の処刑は1940年4月3日から始まり、5月22日に全員の処刑を終えたと報告している。虐殺された将校にはポーランド・ソ連戦争の従軍経験者が多く含まれており、スターリンの怨嗟が見て取れる。ロンドンに亡命中のポーランド臨時政府は、消息不明になっている25万人の軍民が行方不明になっているとして説明を求めたが、満足のいく回答は得られなかった。


虐殺の舞台になったグニエズドヴォ周辺では、1万人以上のポーランド軍人が銃殺されたとの噂が絶えなかったという。


発覚
1941年6月22日、300万のドイツ軍がソ連へと侵攻。大粛清で弱体化していたソ連軍は連戦連敗し、領土の奥深くにまで侵攻を許した。秋頃にはスモレンスクを攻め込み、カティンの森もドイツの勢力圏内に収まった。虐殺事件が発覚したのは、1943年2月18日の事だった。森の中にある埋葬地が発見され、その中からポーランド人捕虜の成れの果てが出てきたのである。異説では、2月27日に中央軍集団のドイツ軍将校が遺体を発見した事になっている。ともあれ3月27日に再調査が行われ、7つの穴から幾重にも積み重なったポーランド将校の遺体が発見された。


報告を受けたゲッベルス宣伝相はこの虐殺事件を世界的に公表し、ソ連の犯行と断言。当然ソ連は虐殺を否定し、ナチスが行った虐殺だと反論。他の連合国も冷ややかな目でドイツの動きを見ていた。しかし用意周到なドイツは第三国による国際医学調査委員会を設立させ、遺体発掘を依頼。各国の報道機関にも広く呼びかけた。さらに捕虜にした連合軍兵士を現地に連れて行くなど、着実に証拠を集めていった。ポーランド赤十字調査団も独自に森を調査。悪事が暴かれていき、焦燥するソ連は「ドイツの工作だ」と非難し続けた。数々の調査を経て、「虐殺は1940年春、犯人はソ連」と決定付けられた。


ポーランド臨時政府は、ソ連の仕打ちに激怒。ソ連も、勝手に事件の調査をスイスの国際赤十字社に依頼した臨時政府との断交を発表し、連合国内で険悪な雰囲気が漂い始めた。決定的な亀裂を避けるべく、アメリカとイギリスはこの事件をスルーした。一応アメリカ側も調査員をバルカン半島に派遣しており、ソ連の仕業だと突き止めた。しかしルーズベルト大統領に報告書を握り潰されて無かった事にされた。またドイツは虐殺の証拠品をクラクフ法医学研究所に送ろうとしたが、ソ連は刺客を放って輸送を妨害、失敗に追いやっている。


1943年9月26日、ソ連軍がスモレンスクを奪回。さっそく事件の調査にかかったが、調査員は全員ロシア人であり、連合国の立会いすら許さないという隠蔽する気満々の体制だった。証拠品を偽造して何が何でもドイツに罪をなすりつけようとしたが、住所の地名をスペルミスした事が仇になって看破されてしまった。他にも作り話や嘘の証言をでっち上げたりしたが、いずれも矛盾点があった。ソ連の公式見解は「カティンの森で起きた虐殺はドイツ軍によるもので、地元住民を脅してソ連の仕業だと証言させた」とした。


戦後
1946年に開かれたニュルンベルク裁判で一時的にカティンの森事件が取り上げられたが、問題解決には至らなかった。戦後はポーランドがソ連の衛星国になったため、この事件に触れる事自体がタブーとなった。1951年から翌年にかけてアメリカ議会がカティンの森を調査しているが、ソ連の責任と認定している。それでもソ連は事件を否定し続け、ナチスを全否定して再スタートした西ドイツもソ連に真相究明を言い出せず、長らく謎に包まれていた。


1987年にゴルバチョフ政権へ変わった事で真相究明へと動き始めた。1990年4月、モスクワでポーランドのヤルゼルスキ大統領と会談した時に初めて公式に事実を認めた。そしてソ連公文書館で発見された極秘資料を彼に手渡し、全容が明らかにされた。またゴルバチョフ大統領が自国の犯行と認め、ポーランドに謝罪。更にソ連崩壊に伴って隠されていた機密文書が白日のもとにさらされ、遂に全ての謎が氷解する。


2000年にロシアとポーランドが共同で「カチン・メモリアル」という慰霊施設を建立。


2010年4月7日、事件からちょうど70年の節目に行われた式典でプーチン大統領は「スターリン体制の犯罪はどんな形であれ正当化できない。数十年間、カティンの銃殺について真実を汚そうとする嘘が続いてきた」と述べ、犠牲者を追悼した。事実上、ロシア政府が事件を認めたと言えよう。この式典にはポーランドのトゥスク首相が招かれており、これでポーランドとの関係改善に向かうかに思われた。しかし事件は起きる。ロシア主催の式典とは別の追悼式典に参加しようとしていたレフ・カチンスキ大統領を乗せたポーランドの大統領専用機(ロシア製のツポレフ)が、4月10日にスモレンスク近郊で墜落。カチンスキ大統領やその妻、家族など96名全員死亡する大事件になってしまう。カチンスキ大統領はカティンにおけるソ連の蛮行を決して許さず、ロシアからの和解案を全て蹴っていた強硬派であり、ロシア主催の式典に招かれなかったのもロシアに高圧的な態度を取り続けていたからだった。このため疎ましく思ったロシア政府によって殺されたとする説が浮上した。

映画「カティンの森」アンジェイ・ワイダ 予告編