marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(511回目)心と頭の訓練に基本に戻ろうと思った:『生きる者と死ぬ者』 

2018-05-11 07:06:10 | 日記
 今日の歩数は、見ると11353歩(これは携帯の万歩計のみ)だった。天気がよいと室内の仕事も気分がよい。天気がよいということは、気圧の関係かなと思ったりする。諸般、個人的にもあり、基本に戻ろうと思った。
 それは、全く、世によける、生活の糧を得るための手段であるお給料を頂くための仕事を提供していただいている会社という組織から解放された時の事を考えてのこと。というのは、しがらみをつくる要因は、まだこの世にあったからだ。無論、公に目に触れるものだから具体的には書かないが、誰でもこの世に”いのち”を与えられているのだから、自分の身(肉)に繋がる者(としての血縁関係)などのこと。時代は新しくなる。この地上から脱出する準備をして行かなくてはいけない。

◆この脱出とは、どういうもので、何処へ、そしてどのようにあったか、いまはどうであるか、そしてどうなって今のぼくらに継承されているかは、僕のこのブログの通奏低音のように流れて書いてきたつもりである。もちろん自分勝手な思い込みかもしれない。
(以上は、2日前の記事)

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 昨日は9135歩だった。 

◆世界のベストセラーとは、イエス・キリストに関する聖書のことである。今では、文字からの学習を卒業し(読むことを身につけと言っていい)生きている今という自分の肉にしみこませ、イエスに係わるその言葉と行為に対して、さらに使徒パウロの書簡などに深い読み方をして普段と変わらないが、新しい人間が出来てきているように感じてしまう。二人の弟子がエマオという町に落胆しながら帰途に、復活したキリストに遭う。しかし、気づかない。気づいたその途端、イエスの姿は見えなくなったという場面がとても好きである。限界のある人が限界のある言葉で認識した瞬間、霊のその方は見えなくなった、というふうに解釈する。今も、いつまでもそうなのだ。イエスを思う時、彼は目には見えないがいつもその人のそばに立たれている。

◆使徒パウロがその手紙の中で、物わかりの悪いガラテヤ人よ、と書いたように自分という”しがらみ”からは、自分で解放される手段は絶望と言っていいほど作り出すことができない。いつの時代も、なにがしかの、そして土台としての自分の肉体に影響されることは生き物として死なない限り抜け出せないからである。気休めとしての解放の手段はいくらでもある。それが文化を生んできたと言えるかもしれない。けれど、何事も死んだら(生きているこの肉体は)お仕舞いだろうと、ここでも堂々めぐりとなる。
 それでも、人というのは、自己肯定して生きて行く。そこに他人からは、何やかや言われる筋合いのものではないし、言葉ではっきり他に(舞台上で相手の聴衆、一人でも多数でも)言葉で話さなくては分からない(ここでは初対面の人という条件が入るが)と考えている。

◆人というのはその自己肯定に対して不思議な生き物である。否、原始的な生か死かの選択肢には、必ずその傾向を含むものなのだろうと思わせられる。思考的自由を求めて、他の肉を(他人:使徒パウロが聖書の中で神学的に使う言葉)排他的する思考が働いている。普段の人は、他人を排撃することで、元気がでるようになっているもののようだ。いくらでも僕はこういう人に会ってきた。失礼ながら、女性に多いように思う。僕は、魂を持つ(霊を神から与えられている神から与えられている)人に対しては、自分から非難の評価は決して決定しないようにしている。それは何故か、空に向かって唾を吐いているようにどうしても思ってしまうからだ。使徒パウロは、その人の真意はその人の霊以外に誰が知ることができよう、といった。

 今朝は、少し寒い。 これから仕事に向かう。  ・・・