marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(509回目)日常生活の冒険(連休7~8日目)長崎・天草地方潜伏キリシタン関連世界遺産に思う

2018-05-07 03:22:42 | 日記
 ・・前回からの続き

◆僕のこのブログは文字だらけになってから、ずうっ~と考えてきたことは変わりません。表題のニュースが流れてきて、第504回目の投稿内容もあの鎖国が始まる時代、あの時代の海洋を制覇しようとしていた国々があった時代。どうして隠れ続けなければならなかったのかを真に学校で学ぶならば(否定的な意味だけでは無く、よいと言われるキリスト教が何故禁じられたか、僕らが為政者だったらあの時代、世界の動きを知ったらどうするかについて考えて見ることなど)、いつの世も世界の動きを見ながら内政も考えて行かなくてはならないことを知るならば、今も地球の裏で起こっているような大国同士の覇権主義の争いに少なくとも巻き込まれることはないだろうと思う。
 けれど、すでに核の傘のもとに組み込まれているこの国は、自国のアイデンテティーを保つその基盤がどのようなところにあるかを頭の隅に少しでも常に思考しつつ、生き生活しなければいけないだろうと思われました。情報や知識やそれを受け取る媒体がどんどん斬新になっている今、僕らも歴史から何を如何に学び、どう今を見つめ、将来を見据えて行かなくてはならないだろうとことを今更ながら考えさせられています。

◆天候の晴れ間が見え、田舎に山菜を採りに行きました。雨降りが数日ありましたので、いいワラビが短時間で沢山取れました。山の緑、青い空、川の流れに断層が遠い昔こんな山奥でもここは海だった事を示していました。少しいい汗をかきました。・・・ 


世界のベストセラーを読む(508回目)日常生活の冒険(連休5~6日目)少し大切な小難しい事、自分の中のもうひとりとイエスの死

2018-05-04 13:20:09 | 日記
 雨が朝から降り始め・・・
◆家のあちこちが気が付くとだいぶ傷んでいて、業者に依頼すると(例えば、外部の簡単にできそうもないこと、具体的には外庭のモルタルの軒を支えている柱の根元が雨、風で腐っていて殆ど柱の役目を果たしていないなど・・・その他もろもろ)、作業の方がおひとり来られるだけで1万円(当然材料費は別で)はかかるので、DIYで修繕して見ることにした。・・・それにしても、実家はかなりの年月が経過していてあちこち傷んでいるので、今はセキスイ・ハイムとか大和ハウスとかの100年住宅とかものがあるが、そうではない昔の建て売りのものを良く見ると、かなり手抜きとか材質がよくないとか、見てくれだけ・・・とか、これも今は多くの方が、ネットなどで些細なことも調べて目が肥えているので、TVcmされていない業者の方は、理詰めでも細かな材質、耐久性、通気・・・等にも説明できないと生き延びれないのではないかと思ったりする。天候がよかった日、自前で修理をした。今までの準備もあって、あとわずか、でここに来て天候が崩れ中断。今は、DIY出来る材料や諸々の器具などホームセンターで何でもありなのだぁ。で、建屋がそうであるなら・・・
◆僕の「日常の冒険」というか、それは僕にとって実は「肉体の点検」でもある。さらに言えば、肉体に引きずられる言葉からの脱出を目論んでいるのである常に・・・、といってもそれは決して逃避ではなく。日記をつけている人は、おそらく意図せずにこのことが行われていることになるのだろうというのが僕の見解だ。それは、体験(肉体において経験)や、思い(肉体において外部刺激を受けなくてもいわゆる頭だけの)などを言葉化する過程。それは、今を自分の感ずる時でもある。自分の生きている証し。
 しかし、一人会話は(つまりここでは、日記をつけること、誰に対して? 今の自分? 読んでもらう為でも無く?)どうして行われるのか。昨年、亡くなったご両親様もメモのような日記を多数残して旅立たれた。ここで、たいていの人がおそらくしていないことは、その書いている自分自体を考えの対象とはしていないことであろうと思う。自分の肉体の消滅、それと生きている自分というもの、そんな小難しいことは頭にも浮かばない。ご両親様もそうだったろう、高齢になっても自分がこの地上から肉体が消滅することなどは頭の隅にもなかったようで、静かに眠って逝った。まさに眠ったのであって「生者のあらん限り死者は生きん」という遠い昔にどこかで聞いた言葉のように、覚えて生きている人がいる限り、去った人は生きているのである、そして、必ず再会できるであろうと思っている。
◆ただ、仏教では、ご住職が朝、夕のおつとめでそれを確認し、普段の人は自宅のお仏壇か、お寺さんにお任せとなるか、最近では墓了いというので墓石の処分場も膨大な敷地面積であるような、死生観が明瞭でないと思う。キリスト者は亡くなった人も過去のこととして始末はしない。彼らは生きて眠っているのであると、ですから洋映画にも時折、壁に生前の頃の家族の写真がよく飾られていたりする。過去帳というのは天上の住まいの記録簿に永遠に生きている者として記録される。地上においては、毎年覚えられる(毎週のところも)、死後の世界には、生前の審判が仏教にもキリスト教にもあるが、しかし、キリスト教はまさに、イエスという神の独り子が信者となるべく罪を担って十字架で死なれたからそれを信じた者であるが故に個人の如何ともしがたい罪は問われない、地獄には決して行かない(ことになっている)。生きて彼を信ずる者はそのため永遠に天国で生きるものとされる。したがって、僕はキリスト・イエスを皆さんに信ずることを心からお勧めする。最後の審判とは世界が裁かれることであり、ですから最後は個人のふしだらな罪がどうのこうのというより、イエスを信じたかどうか、あるいはその時点で問われるかもしれないが、そのことだけである、となる。知らずに亡くなった人はということは無いようで、死者にも福音は伝えられている(使徒信条、~(イエス)は死後 陰府にくだり・・・とある、又、手紙には死者にも福音は伝えられたとある)。
◆さて、ここで留意は、では後はこの世でラッキー、ハッピーなのか?で、ここで質の低下が時代が下ると必ず問われてくるのである。イエスを信じようとする時、人によって(否、多くは)必然的に障害を感ずるはずである。さらに、そこには、不完全な他人のよくも悪くも言葉の評価が混じり込んで来ないだろうか? 僕が”しがらみ、しがらみ”と行っているのは、それである。他人どころか、自分自身の中にもあるのだ。冷静に考えると、キリスト教を拒絶するのは必然的にそのことが生じてくる。
 僕には、旧約聖書の神の人と呼ばれて来た、あのモーセが、エジプトからの脱出劇から、目的地、乳と密の流れるカナンの地への脱出劇はいつの時代も僕らの今にも何かを訴え続けているように思われる。イエスが来られて、かつてのモーセや預言者が著したことは、つまり、現在の旧約聖書には、自分のことが書かれていると話されたとき、古い知識の集約満足、頭での知識のこねくりから、その歴史(今も流れる行く時間的経過<クロノス⇒これが時計クロックになった>から垂直次元の今という時点<カイロス⇒ギリシャのお話にはこのカイロスには後ろ髪がなかったようで、後ろ髪が引かれるような思いとはならないという逸話>、つまり、今もしこれを読まれている方が居れば、あなたのその時点に神(イエス)は同期して立たれているということになる。それは、あなた自身の負の部分を脱ぎ捨て(パウロは手紙で、「われわれは日々、死んでいるのである」と表現した)、「新しい人、欠点の無いキリストと同期せよ」とつまりはパウロはいうのである。「私はキリスト共に十字架につけられてた。もはや私が生きているのではない、キリストが我が内にあっていきているのである。今、私がこのように生きているのはそのキリストを信ずる信仰によって生きているのである」と語るのである。
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◆対話には、実体として、目で触れることができなくとも相手がいる筈である。自分は、ひとりであっても、もうひとりの自分と会話する・・・これは、自己の中のもうひとりの自分がいるというのは何となくでも分かっていただけると思う。
昨年紹介した僕の好きな小説アゴタ・クリストフ『悪童日記』(早川書房 文庫)二人の少年、実は一人ではないのか。最後の数節、自分(達)をそのような境遇に落としめた父親の死体を踏み国境を越え脱出する一人、もう一人の少年は(もうひとりの自分?)はおばあちゃんのうちに戻る。僕の中にも、脱出解放を願う僕自身とこの肉体を持つ人生の宿題を抱え、解決すべく苦心している自分がいるように思われる。
◆ある措定・・・イエスという神の独り子という方を言葉を肯定するのは、彼が「真の人間」(まことのひと)と呼ばれているから。つまり、神の独り子あるから欠陥がない「完全な人」と言われていることである。ドン引きするような宗教的な方、実は宗教というのには教祖と言われる方がいるのだろうが、キリスト教には教祖はいない。強いて言えばそれは、「天地万物を創造されたイエス・キリストの父なる唯一の神」ということになる。イエスご自身「神、お一人以外に『善い』と言われる方はいない」と申された。雑音の多いこの地上に人の形をなされて、キリスト・イエスが来られたのであるということになっている。対話ということが、他人との対話であるならば、その相手が自分であるならば、言葉自体が決して昇華しないし自家中毒ぎみになる。で、対話の相手は、完全な人と言われる、神の独り子イエスという方を措定する訳になるのです。僕は、そいう会話をする相手を選んだということである。選ばれたという言葉が、正しいということになるらしいけれど。太陽が出てきた ・・・ 

身近にあるところの「責任と判断」を考えてしまった、TOKIO会見の松岡君意見

2018-05-03 14:24:38 | 日記
坂上忍、松岡昌宏の「ずるい」発言に理解「普通で考えたら辞表は会社に提出する」

 今回のTOKIO山口君の事件についてのメンバーの一人、松岡昌宏くんの涙ながらの見解には、考えてしまった。「山口君のTOKIOに戻りたいといった話が出てくるような甘えの根が、TOKIOにあるならばそういうTOKIOは無くなってしまった方がよい」と言ったこと。

◆今回の山口君の事件は、私的と公的の境界のもやもや、実は身近にある事件なのだろう。組織の中にいるとわれわれは、その中の甘えに気づかぬものである。まして、それが、生きる手段の役割が公のアイドルという立場のメディアにも載っているものであるならば、尚更、その位置を考えなくてはいけないものだったのだと思う。鉄腕DASHの被災前の民家での暮らしや今も島の生活なんか時折、面白く見ていたんだけれどなぁ。彼は仲間内でも器用な人だったねぇ。お金を若い頃から稼いで、自分の立場を肯定してくれる仲間がいて、怖い物なしだったのになぁ。やはり怖い物は、自分の内にあったということなのだが、これは誰しもが持っているもの。これを如何に、自己の肉体から引きずられる欲求を制御し、社会通念に合わせ規正していくかのだなぁ。・・・ 

世界のベストセラーを読む(507回目)日常生活の冒険(連休3~4日目)それは確かに大切なことなのだが・・・

2018-05-02 02:31:13 | 日記
 カミュ『異邦人』小説ふうに・・・昨日は書きかけで、日常の雑事の消化に負われてしまう。雨が降っては出来ない事も多数あり、で・・・
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 5月中に完結して新たな季節に備えようと考えていたが、昨日は太陽がとてもきれいで(といっても直視出来る訳ではないから気分的表現ね)室内にいるのがとても時間的にもったいないと、主要な内容議事が終わったら、締めの「祈り」が終わる前に僕は会議が行われている礼拝堂から断って出てきてしまった。殆ど空には雲はなく、青空もとてもきれいで燦々というイメージがぴったりの太陽の光が木々の緑を反射させて外はとても気持ちがいい。
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 宗教オタク(これはとても失礼な言い方になるな、で小説ふうなので以下お許しくだされ)であるならまだしも、とても真面目な実は心に悩みがあってその解消に神を信じているとかだったりして、でもこれも心の中なので分からないこと、ああ、これも失礼な言い方だが、いずれにしろその人がどういう身の上心情の人などに係わらず、標準的なお勧めは「イエス、つまりあの方を信じなさい」ということだ。無論、盲信ではなく説明が自分の言葉で出来なければいけないとうことが肝心なところ、いくいく(漸次)にしても。ここにおいて実は、異邦人にとっては、心の中の成長過程で?長い長い道のりがたいていはあるらしい。
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 若いご夫婦であるなら、幼いお子さんが居られる場合、教会の尊いお役目になることは、お勧めしないというか、神様がお与えになってくださっているこの季節の自然の恵みに感謝して、それを体験、このような良き日、自然の草木の歓喜に共に家族共々、預かることの方がよほど神様はお喜びになられるのではないかと思ったりしたことが、何度かあったものだった。つまり、いろいろなお役目に推薦されてしまい、異邦人にはまさに貴重な休みの日の、しかも天気のよい日に礼拝後に教会に残ってご奉仕をしなくてはいけないとは・・・神様にご奉仕か、それとも神の創造されし自然のこの良き日を家族とともに太陽のよき青空の下、感謝すべきではないのか、というような心が異邦人であった僕などは、時折思ったものだった。
 ・・・ということで、これは誰しもが神と対等に対話するために(異邦人が)自律する途中では経験する事らしい。神様と対等にお話すようになるために些細な、けれど本人にとっては大真面目な事柄にもなる些細なことは他にも沢山経験していくのであるが、こういうことがあるから、キリスト教は嫌なのだと思う人が実は多いのではないかと、特に若者。それは当然、人生という個人史の中で若者は可能性の塊であるわけだからいきなり、いくら長い長い歴史があるとは言え、しかも内容的には自分の内省を迫る言葉を要求されるのであるからたまったものではないと感ずる訳だ。だから、逆に自分に係わる障害、苦難、困難をもっている方が「人生への何故」を自分の言葉で答えを得ようとして自分の言葉を模索する・・・途中でやめる事をしなければ、イエスの十字架にぶつかる。詩篇119編「苦しみあいしは我によきことなり、汝(神)の掟を知りたり」となる訳です。
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 ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」という小説ではないが、押しつぶされそうな気がするものだが、実は、生まれつきの宗教的人間という方には、ストレートに信仰を持つ方もいらして、そういう方は母の胎の中から選ばれしとあるように、ま、そう方も居らることは、文句を言わず、まず聞きなさい、と神は言われていることも通ずる訳だ。いずれ、その段階からは、自分の悩みからもっと、人という生き物は・・・とかなり高い次元の考えに以降していく訳である。思考する人間は誰しもがその時点まで登って行き、具体から抽象への概念を考察していくようになるもので、まだ、その段階に行かない方々は、その人には、その時点で、何故、そのような態度、対応をとるのかも分からず、不安となるから、その場、自分のその時点で裁判官となって決め込んでしまうのである。
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 ところで、僕は陪席での参加だったのだが何やら必ずこういう集いには落ち度があるのだが、会議の始まる前にやはり、資料を突然、41部コピーして欲しいのですがと言われ、つまり、準備するのを忘れたらしい、で急いでやってお役に立ったのが参加してよかった一つである。必ず、詰めの弱い方が居られて、どこか箍が外れているのであるのは、異邦人である世的厳しさから守られて許されていると思われるのか、観念的空論で満足する傾向に成りやすいもので、こういう意味では、世においては困難があると、厳しさを体現していないのは、また、準備に落ち度がありましたね、小事に忠なれば、大事に忠なりで・・・。僕などは、むしろキリスト教からかなり世的な合理性を学んだのである。マックス・ヴェーバーなどを少しでもかじってご覧なさい。目から鱗です。

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 誰でもの日常の課題。あれやこれやと雑用があって、と書くと、それでは本筋は何かと言えば通常は日常の生活、それつまり、生活の糧を得るための手段であるところのお金、つまり給料をもらうところへの社会の組織への自分の時間の提供に対する対価を得るため。例えばこれは考えの一例なのだが、人が生きる目的とか、手段とか、その途中の思いとか諸々、無論それ以上に意識化できない(つまり言葉にできない)限りなくあるその行動の起因となっている理由。結局、考えを抽象化していくと「手段を得ることが目的だった」というのは人というものは一体何なんだろうねぇ・・・  
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 古い課題と言えば、科学技術徒やらで僕ら人の環境が如何にその人の五感を満たすために発達しようと人の脳みその延髄とやらは、つまり古層の基盤は有機物質としては替わらないのだが、外部環境の刺激により神経系に変化をもたらし単線から複線、さらに無数に複雑になりマルチタスク(同時に仕事をこなす)に適応すべく、脳神経系は発達を遂げていく。でも、心情(情緒性)に関する人の、それは言葉にできないするとすれば、これがまさにこの国では、これがくせ者であることを心すべし。
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 そんなことを考えている人間は暇人だけだろうよ、とKがいう。
 カミュの異邦人のムルソーは、女に対する性的な欲求はあるのだが、それを世的ルールに当てはめて結婚することを願う女に対して、そんなことはどうでもいいのだが、と面倒くさいことは嫌になるという主人公。アラビア人を殺してしまい、それが太陽のせいだといい。懺悔を聞きに来る司祭にたいしても自分の肉体を自分で納得しているのだから抹香臭い面倒なことはやめろと胸ぐらをつかみ追い出す。そして、気分がすっきりしたと、死刑を待っている。
 思うところ、太陽の暑さ(湿気やそのためのだるさやいろいろなイメージが混在)に肉体のに思考が引きずられ、思考の神経系が脳みそ、前頭葉に行き届かない。脳神経回路、図では時折見る骨の関節のような形のシナプスという橋渡しをするドーパミンやらの伝達物質が総じて肉体の疲れという、それも厳密らしく言えば疲れのため、脳神経系がオーバーヒートしたため機能しなくなったという状態と言えばいいか。それで、カミュの手帖を読むと彼は、実際、結核を患っていた時があって、実はこれが肉体に引きずられているのであったのだろうなと思った次第であった。
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 連休に入り、今日もいろいろ諸行事に参加、その間、家のあちこち傷んだ修理を業者に頼まずDIY補修する。・・・