川塵録

『インテグリティ ーコンプライアンスを超える組織論』重版出来!

コンプラを変え,会社を変え,日本を変える!

天爵と人爵

2025年04月08日 | 古典・漢籍
50歳になった。半年前ですが。50になると、天爵を考える。

孟子で教わった、天爵。たぶん、高校時代の漢文で教わった。

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孟子曰く、天爵なるもの有り、人爵なるもの有り。仁義忠信、善を楽しみて倦まざるは、これ天爵なり。公卿大夫はこれ人爵なり。

いにしえの人はその天爵を修むれば、而して人爵これに従えり。
今の人はその天爵を修むれば、以て人爵を要(もと)む。

既に人爵を得てその天爵を棄つれば、すなわち惑いの甚だしきものなり。ついにまた必ず亡からんのみ。

____________

この、とてもいい、伊藤仁斎の注釈:

天爵無くして人爵至るは、義にあらざるなり。これを受くべからず。
天爵有りて人爵これに従うは、義なり。まさにこれを受けるべきなり。
天爵有りて人爵至らざるは、命なり。これに安んずるのみなり。
これ、義・命の弁なり。


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西郷隆盛の「人を相手にせず、天を相手にせよ」というのも、

 人爵を求めず、天爵を求めよ

ってこと。西郷もこの孟子の一節を愛吟していたはずだ。
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不易流行

2025年04月04日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

不易流行

 「不易流行」と言われます。「不易」は「易(か)わらず」と読み、古今東西変わらぬ真理のことです。普遍的な価値です。カントやプラトンに由来する真・善・美です。

 一方、 「流行」は、時代の流れに応じて柔軟に変わる価値観です。インターネットの時代、SNSの時代、VUCAの時代、生き残るためには変わることが必要です。最も強い人は最も変化に適応できる人です。

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 古典を学ぶことは、「不易」を学ぶことです。それにより、不易と流行のバランスを取ることです。

 特に、戦後にアメリカ的価値観が入り、グローバル化が進む現代において、東洋的な古典から「不易」を学ぶ姿勢は廃れています。代表的な東洋の古典である『論語』を読んだことがある日本人は100人に1人もいません。

 皆さんにとって「不易」とは何でしょうか。私にとっては陽明学です。西洋の古典でも宗教でもいいですが、胸を張って「不易」と言えるものを持つと、自信になります。

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 祖先を顧みない者は、子孫を思うこともない

と保守の総帥エドマンド・バークは言います。

 時代を超えた長い時間軸で考えるからこそ、自己中心的で刹那的にならず、世のため人のために利他的になることができます。
 
 1本の木を切る際も「7世代先のことを考える」アメリカのインディアンがいました。今流行りのサステイナブルも7世代先のことを考えるということです。それが不易です。

 時代の篩にかけられて来た古典を自家薬籠中のものとする。これは古今の先賢が行ってきたことです。まずは好きな名句を暗誦するのがいいでしょう。
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得意淡然 失意泰然

2025年04月04日 | 古典・漢籍
安岡正篤が有名にした、

得意淡然
失意泰然

子どもの頃から目にしておけば、行く行くはどこかで役立つだろう。

と思って短冊に書いて、自宅リビングに飾っておきます。
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古典を読む価値 ー悠々たる天壌と遼々たる古今

2025年04月02日 | 古典・漢籍
古典から学ぶ経営、みたいな本を書いている。

古典を学ぶことの価値を端的に言おうとしている。

真善美が学べる、特に美しさが、とか書こうとしている。

その中でひらめいたのが、無窮の叡智へのリスペクト。
無窮の宇宙の、悠々たる天壌の、偉大な精神へのリスペクト。

そこで思い出したフレーズが藤村操の「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今」。巌頭之感の冒頭。

悠々たる天壌と遼々たる古今に思いを致し、己の卑小さを知り、謙虚になる。
無窮の知の広がりを知り、さらに知的好奇心と向上心をたくましくする。

その「彼我の圧倒的な違い」、つまり過去の叡智と現在の自分との桁違いの違いを感じることに、古典の価値がある。
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『弟子』 中島敦

2025年04月01日 | 古典・漢籍
論語の本をたくさん読んでいると、引用回数がかなり多いのが、この中島敦『弟子』。

井上靖の力作『孔子』とかが引用されることはほとんどないけど。

『弟子』では、孔子と、その高弟・子路の交情を描く。

私が好きな「万鐘我において何をか加えん」(金銀財宝は私の価値を何ら高めない)も、この本から。

孔子とかの人間像を鮮やかに描いている、感動的な短編なので、論語の入門書として、実はとてもおすすめなのかも。

 
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古今ニ通ジテ謬ラズ、中外ニ施シテ悖ラズ

2025年03月25日 | 古典・漢籍
インテグリティ研究会の方に教わった。

教育勅語の「古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、中外ニ施シテ悖ラズ」がいい。

ウィキ訳:

この道は古今を貫いて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。

____________

これを見て思い出したのが、アンガーマネジメント協会で教わる怒り方。どうしても怒った方がいいときは、怒っていい。怒り方が問題。

いい怒り方は、「自分にとっても、相手にとっても、長期的に見て、健全(healthy)か」です。

永久に、長期的に、という視点。

短期的・地域限定的ではなく、永久に、長期的に、古今東西に通用する、ってのはいい基準かもですね。
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信頼は「しない」から生まれる

2025年03月24日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

信頼は「しない」から生まれる
 
やせ我慢というのは、欲望に自ら歯止めを効かせるということです。自制心を働かせるということです。人間の信頼は、この自制心から生まれます。孟子に

為さざるあるなり 而る後もって為すあるなり
 
という言葉があります。「まず『やらない』がある。その後に『やる』がある」が直訳です。

皆さんが一番頼りにする人をイメージしてください。なぜその人を信頼するのでしょうか。

その人がお金を稼ぐから、英語ができるから、仕事ができるから。そうではないと思います。人間の信頼は、「何かをできる」という「する」から生まれるのではありません。

我々が人を信じるのは、あの人ならこんなことはしない、ネコババはしない、ウソはつかない、という「しない」から生まれます。

人間の信頼は、「する」「できる」という能力・スキル・知性に対してではなく、「しない」「やらない」という品性に対して与えられます。

「何を言うかが知性、何を言わぬかが品性」です。品性とは自制心です。

自制心とはやせ我慢であり、自らに課す「しない力」です。

「私はそれをしない」というやせ我慢=品性が信頼を生みます。
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「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」の武道的解釈

2025年03月23日 | 古典・漢籍
朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。


この論語の文句がとてもインテグリティ的。これは先日書きました。

こちら(過去記事)

その続き。この句は、「武道的」ともいえる。

ちなみにこの句の訳が、五十沢二郎さんによれば

真に生きる道を知りさえすれば、肉体の死のごときは、もはやなにものでもありはしない。 

ってブッ飛んだ訳になる。

 

「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」は、反対解釈して、「道」にはゴールはない、永遠に道は続く。だから絶対に満足してはいけない、って意味に解釈している。

だから「道」はとてもインテグリティ的。

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スポーツと武道との違いで考えるとわかりやすい。

スポーツでは勝ったら喜んでよろしい。
武道では勝っても喜んではならない。

柔剣道で、全国大会とかの決勝あたりで勝ってガッツポーズして、勝利を取り消された例とかある(2012年全日本剣道大会の準決勝?)。

私も空手の黒帯を締めて極真指導員の末席を怪我しているため、「勝敗を度外視する」呼吸は身につけているつもり。

空手の試合では、試合時間終了直後に、「判定!」の号令とともに、主審+四隅にいる副審が旗を上げる。

その際、私は正面のみを見つめ、主審や副審が上げる「旗(の色、自分か相手か)を見ない」ことを美学としている。

試合では、日々の稽古の成果が出ているにすぎない。この試合の勝敗は単なる私の空手修行の過程にすぎず、勝とうが負けようが私の空手修行はずっと死ぬまで続く。

なのに自分がたかが一試合でキョロキョロして旗の上げ下げを観るのはみっともない、という痩せ我慢からです。

私の空手道における「道」において、審判員が旗を上げるか上げないかは関係ない、という強がりからです。

空手道における修行において、「道を聞く」(道を知る、目標を達成する)ということはあり得ない。永遠に果てしない道を歩み続ける。それが武道であり空手道。

こういうふうに、私の空手道、武道修行と、インテグリティにはつながりがあります。

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食人之食者死人之事

2025年03月23日 | 古典・漢籍
食人之食者死人之事 
(人の食を食む者は、人の事に死す)

人の禄を食むものは、その人のために死す。
主君に忠誠を尽くすってこと。

榎本武揚が、戊辰戦争で非道に死んだ部下たちのために書いた碑。


以下の本で知りました。


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1,000億人で1番

2025年03月22日 | 古典・漢籍
最近、よく、「1,000億人で1番」を意識しています。

筋トレのときとか。

佐藤一斎が言志四録で「世間第一等なんか小さい、古今第一等を目指せ」って言っている。

世間第一等の人物とならんと欲するは、其の志小ならず。余は則ち以て猶お小なりと為す。(中略)
志ある者は、要は当に古今第一等の人物を以て自ら期すべし。

30年前からこの文句が好きで、古今第一等を目指してきた。全然届いてないけど。

「古今第一等」って、定性的で抽象的。定量的に考えると「1,000億人の中で1番」です。古今東西の人類(ホモ・サピエンス、最古は20万年前)って、累計で約1,000億人いるから。

だから最近私は、筋トレするときも、

  • この30秒で、1000億人で1番、筋トレの効果を上げてやる
  • この30秒、1000億人で1番、美しいランニングフォームで走る
  • この30秒の腹筋で、1000億人で1番、自分をいじめてやる

って思って筋トレしています。ちなみに、なんで30秒ばかりかというと、私のやっているHIITトレーニングが30秒インターバルなので。

今日も、仕事、家庭、交流、頑張った。1000億人で1番頑張ったと言えるかどうか。

明日も、1000億人で1番、充実した一日を送りたい。

 
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儒教への批判

2025年03月18日 | 古典・漢籍


に、浅野裕一氏の論として、論語が復讐の本だ、とあった。

気になって浅野さんの本を読んだ。



すごい。

こんなに儒教に詳しく、それで、こんなに儒教に批判的な人がいるんだ。

情報量多すぎな本で、いまいちパッと読んだだけでは論旨が不明な本ですが(読者としての不明を恥じます)、よかった。

何事も批判的視点を持つのはいい。

孟子が「亜聖」として孔子を継いでいるが、その浅ましさよ。

(たしかにめちゃめちゃな論理で自分をパウロ扱い? 孔子の衣鉢を継ぐのは俺だけだという妙チキリンな独占をしている)


宋学=朱子学が、「聖人は崇めるものではなく、到達すべきもの」とした。

仏教や道教の影響で。


へぇ。こういう考えがあるのは勉強になりました。

なお、キリスト教でも「聖者を目指すべし」と考える(例えば“Be perfect“ マタイ5:48)。

だから、浅野さんが「キリスト教では聖人は崇めるものであって、目指すべきものではない」と考えるのに賛成できません。

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陽明学とは

2025年03月15日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

陽明学

渋沢栄一が学んだ陽明学は、1500年頃に明の官僚・軍人の王陽明が始めた考えです。

思ったことを迷わず行動に移せという積極的な「知行合一」を特徴とし、幕末の志士に大きな影響を与えました。

陽明学のみならず修養一般に役立つ言葉ですが、王陽明の有名な言葉として
 
山中の賊を破るは易く 
心中の賊を破るは難し

があります。山賊を打ち負かすよりも自分の怠け心や弱い心に打ち克つことが難しいという意味です。

幕末に陽明学を有名にしたのは佐藤一斎という儒学者で、今の東大名誉教授の地位にありました。

彼の言行録『言志四録』にはいい言葉がたくさんありますが、中でも以下の言葉が陽明学的です。

一燈を提げて暗夜を行く
暗夜を憂うることなかれ
ただ一燈を頼め
 
暗闇の中でも恐れずに自分の心を頼りにして生きていけ、つまり環境に不満を言わずに自分の信念を貫け、という意味です。

この『言志四録』はとても有名で、約20年前に小泉純一郎首相(当時)が国会演説で以下を引用しました。

少にて学べば 壮にして為すことあり
壮にして学べば 老いて衰えず
老いて学べば 死して朽ちず
 
解説は不要でしょう、学ぶことの重要性を説いています。

陽明学に興味ある方は司馬遼太郎『峠』がお勧めです。長岡藩家老・河井継之助の息吹を通じて、陽明学の考えを受け取ることができます。

陽明学的な考えを最も代表する言葉は、孔子の弟子筋の孟子(イエスに対するパウロの位置づけ)の

自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往かん
 
です。

自分が正しいとの信念があれば、相手が千万人といえども突き進めという勇猛果敢な精神を表す言葉です。吉田松陰はこの孟子が大好きでした。

他に、江戸時代後期に大阪で一揆を起こした大塩平八郎も陽明学の信奉者でした。

身の死するを恐れず 
心の死するを恐るる

と言いました。

身体の死を恐れず、心が死ぬこと、つまり周りに忖度してやるべきことを行う勇気を失うことを戒めました。

肉体的な死を恐れずに精神的な点を強調した点は、宗教的といえます。肉体や物質よりも、精神性を優越させるところに美しさがあります。


 
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狷者には廉恥心がある

2025年03月15日 | 古典・漢籍
論語で、中庸を備えた君子の次に評価されるのが、狂者とか狷者。

狂者は、進取の気性に富む者。

狷社は、廉恥心がある者。






廉恥心って、滅多に聞かない言葉。

「みっともないことは絶対にしない」のが廉恥心。

羞恥心ばかりが使われる現代日本で、廉恥心って言葉に出会って、ちょっと嬉しいです。

 
インテグリティー廉恥心ー罪悪感ー羞恥心 - 川塵録

インテグリティー廉恥心ー罪悪感ー羞恥心 - 川塵録

インテグリティ・エバンジェリストを名乗って5年弱くらい?今日、一番の発見をした。インテグリティー廉恥心ー罪悪感ー羞恥心。左(インテグリティ)が、最も、内的・内面的...

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(過去記事)




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俗物にならない  -古典の価値

2025年03月09日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

俗物にならない

古典から学び取る価値は、「美しさ」と説明しましたが、端的に言えば、「俗物にならない」ということです。

古典から学ぶ美しさは、

① 積極性(奉仕の精神)
② 長期的・精神的な価値観

だとお伝えしました。

これは、積極性も、奉仕の精神も、長期的な視点も、精神世界も何も持っていない人、つまり俗物をイメージすれば分かりやすいかもしれません。

俗物・スノッブと蔑まれる人は、自己中心的で、利他の精神がなく、世俗的な価値観で評価されようと思い、短期的に成功しようと思っています。

皆さんの周りにこういう人がいるでしょうし、皆さんの心の中にもこういう価値観が少しはあるはずです。

私にもあります。人間はみんなある程度は俗物です。

良い人間、悪い人間がいるのではなく、どんな人間にも良い部分があり、悪い部分があります。程度問題なのです。

「美しさ」というと抽象的で抵抗感を感じるかもしれません。

特に、安倍晋三元首相が『美しい国』と言ったため、政治的にリベラルの方は余計に抵抗感を感じるでしょう。

ただ、美しいという言葉を使わずとも、「俗物にならない」のが古典や歴史を学ぶ意義です。

古典をこよなく愛する私なんかは、ここ30年、「死んでも俗物になってたまるか」とやせ我慢して意地を張って生きてきたようなものです。
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古典から学ぶ美しさ

2025年03月04日 | 古典・漢籍
【執筆原稿から抜粋】

古典から学ぶ美しさ・カッコよさ

古典から学ぶ価値観の一つが、美しさやカッコよさです。

これまで紹介してきた漢籍から、「なんだかカッコいいな」と感じていただければ嬉しいですが、そうでない方も、これから紹介する言葉に期待して下さい。

アタマ・理性・知識で考える「正しさ」のみならず、ココロ・感性・意識で感じる「美しさ」が古典の価値です。

「正しさ」は往々にして歪み、やがて色褪せます。

日本近代史でも、鎖国政策、富国強兵、皇国史観、八紘一宇、マルクス主義、終身雇用、24時間戦えますか、、など、かつて一斉を風靡した「正しい」考えでも、数十年経つと批判されるものは多いです。

正しさと異なり、「美しさ」は色褪せません。

変わらぬ「不易」と変わる「流行」のバランスを取る不易流行が大事です。その「不易」にあたるのが美しさで、「流行」にあたるのが正しさです。


古典から学ぶ「美しさ」とは

古典から学ぶ「美しさ」とは、分析的に考えると、要するに

  • 積極性(奉仕の精神)
  • 長期的な時間軸・精神的な価値観

です。

普通の人がやらないことを、奉仕の精神を発揮して敢行することに、人は美しさを感じます。

だれでも楽をしたい。だれでも逃げたい。

そういう自分の弱いココロに鑑みて、自分にはできない自己犠牲・利他の精神を発揮している人、自分の弱いココロに打ち克った勝者に、我々は憧れの気持ちとともに美しさを感じます。

また、そういう利他的な行動は、多くの場合、精神的な修養に基づいています。

俗物的な短期的な利益ではなく、精神的で長期的な価値を重視する。

そういう「目に見えない」ものに我々は崇高さと美しさを感じます。
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