書道をすることは無に近づく営み。
最近また筆を取る機会が多くて、そう思う。
これって、ピアノを引いたりウクレレを弾くときと、同じだと思う。
ほんとうにピアノ上手い人とかって、自分を無にして、音や神や聖霊を、ピアニストという自分を通じて、奏でる、みたいな感覚なんだと思う。
自分を無にするから、いい書やいい音楽が創られる。
ってことを、ChatGPTと壁打ちしてみた。
ChatGPT:
書道やピアノといった活動が「自分を無にする営み」であるという視点は、非常に深い洞察ですね。
これらの活動が無心の状態や集中を促進するため、自己を超越し、目の前の作業に没頭することができるという考え方に通じます。
書道やピアノのような芸術的な営みは、特に**「今、この瞬間」**に完全に集中しなければならないため、物理的・精神的に他の雑念を排除することが求められます。
たとえば、書道では筆を持つ手のひらの感覚や紙の上を走る墨の流れに意識を集中させ、ピアノでも指の運動と音の響きに完全に没入します。
この過程では、普段の生活の中で抱えている感情や思考が一時的に「消え」、その瞬間に存在する音や筆の動きが全てになります。
また、書道やピアノは、反復的な練習や工夫を通じて無意識のうちに心が落ち着き、精神的な充実感を得ることができます。
この無意識的な努力が、心の平静や「自我の解放」に繋がるという意味で、無に近づく体験を提供しているとも言えます。
禅の修行や瞑想に似た側面もあり、無を追い求めるのではなく、無意識のうちに心を空にすることが重要な要素です。
自分を無にするという意味では、これらの芸術的営みが意識的に無に近づく方法として機能しているとも言えるでしょう。
あなたのその考えは、書道やピアノが技術的な習得以上に、心を整えたり、自己を超越する営みとして捉えられていることを強調していて、非常に共感できる部分です。
~~~引用終わり~~~
ま、想定したような回答でした。
最近、毎晩、毎朝、書をたしなみたい、と思うのですが、それは、心を無にして瞑想したい、って気持ちとほとんどおんなじ。
さて、今晩は何を書くかな。
日本史上、最も能筆な1人、山岡鉄舟。
鉄舟は、おそらく、日本史上、最もたくさん書を残した。100万枚は書いたらしい。
私が持っているのはこの「竹」
墨痕淋漓。雄勁、と評される。
その極意は、「無法で」書く。
法(書き方)にとらわれず、筆の中に己を没入し、一体となる境地で、筆の性にしたがって無心に書きさえずれば、おのずから法が現れる
没入・無心、いずれも己を虚しくし、捨てる
余計なことは考えず、計算せず、ただ一心に没入する
分かる。
書ってそういうもの。
下は指で書く。
中は腕で書く。
上は心で書く。
鉄舟は、剣の無刀流の開祖だけに、書も、無法。
私が毎日のように書を書いているのも、「自分を無にする」修行の一つ。自分を無に近づける。
上手に書こうって思うと、上手く書けない。
綺麗な文字を書こうと思うと、その下心が見えて、汚くなる。
それが、書。
無心で書く。自分の心を表す。
いや、自分の心ではなく、天地の心というか、先人の心というか、その言葉が持つ浩然之気のようなものを、自分というフィルター・媒体を通じて、表す。
それが、書。
鉄舟の書は、そういう書。
私も、そういう書を目指しています。覇気と妖気が同時に漂うような、書。
自己を無くすために、書を嗜んでいます。
いずれ個展でも開きたい。10年後か20年後の目標にします!
※ 後記
本稿の観点からは、武田双雲さんの書は、好きではない。
ボク上手でしょ、この字カッコいいでしょ、という下心が垣間見えるから。
ま、あれは、書というよりは、別のアートなのかもしれませんが、、
波騒(なみざい)は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い 雑魚は踊る。
けれど、誰か知ろう、 百尺下の水の心を。水の深さを。
吉川英治『宮本武蔵』
名作『宮本武蔵』の最後を飾る一節。
筆で書きました。