君看よや双眼の色
語らざれば憂いなきに似たり
白隠
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まだ誦んじてなかったので改めてアップ。
しっかり覚えたい、味わい深い句!
辛酸佳境に入る楽しみ亦たその中にあり辛酸入佳境楽亦在其中
田中正造がよく揮毫した漢詩。
簡単な漢詩ですが、ググると、ちゃんと読めたりちゃんと書いている人がほとんどいない。
令和日本の漢詩に対するリテラシーを知りました。
私が論語セミナーをやってわかったのは、「世の中の人は論語なんて全然読まないんだな」ってこと。
論語とか古典に30年間親しんできた私には、むしろ新鮮でした。
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辛酸佳境に入る。
いろんな解釈がされる。
辛酸なのに、佳境??
私もいつかこの境地にたどり着きたい。
私が最も好きな漢詩。
蝸牛角上 何事を争う石火光中 此の身を寄す富に随い貧に随うて 且く歓楽せん口を開いて笑わざるは 是れ痴人
高校生か大学生のときに出会った。
大口を開けて笑わないのは大馬鹿だよ。
こういう、老壮的なところ(今を楽しむ心性)を、孔孟的なところ(努力して立派になるべきだ)と、いい感じでブレンドするのが、人生のバランスとしていいと思う。
今日もでっかい口を開けて笑いましょう!
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『笑って死ねる人生論』って本を執筆中でして、そこで紹介する漢詩です!
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩が、フランクルの「態度価値」の日本人的な表現。そう喝破するのが、山田邦男さん。
具体的には、「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」なんて表現から、自己超越的、菩薩行的な生き方を読み取ることができる。
宮沢賢治の精神性は、どこまでも、とことん、研究されますね。
精神性のある者だけが、死後に生き残ることができる。
精神性のない者は、死後にすぐ忘れ去られる。
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雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
君看よや双眼の色
語らざれば憂いなきに似たり
君看双眼色 不語似無憂
(訳1)
君看双眼色 不語似無憂
(訳1)
あの人の眼を見てごらんなさい、いつも静かに微笑んで、つらいとか苦しいとか、こんな目にあったとか、大げさにいろいろ述べたりしない。だけど、そうであればあるほど、その人が心の中に蓄えた憂いというもの、あるいは苦しみや悲しみというものは、こちらにも惻々として伝わってくるではありませんか。
(訳2)
多くを語らないからといって、あなたは私の両目に宿っている深い憂いの色を感じないのだろうか。
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とっても味わい深い句。
私が今まで出逢った日本の和歌、唄、句で、最も味わい深い。
最も「分かりにくい」と言うべきか。
こう言う「分かりにくい」けど、なんだか「味わい深い」句を持つ日本語と日本文化を誇りにすら思う。
芥川龍之介が愛唱し、良寛も愛唱した。
書はこちら 芥川龍之介→良寛→白隠 -酔中夢書2009
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どこかの本で読んで、思い出した句。
(同時並行的に10冊くらい読んでいるので、パッと思い出せない、、)
今までもすれ違って、その度に「味わい深いけど、よく分からない」と思ってスルーしてきた。
今回こそは暗唱して、そのスピリットというか精神というか息吹を、叩き込もう。
上記の訳だと、訳1の方が圧倒的にいい。ネット情報も当てになりませんね。
訳2だと、俺の目を見ろ、俺の真意を察してみろ、この眼つき・顔つきから、何かを汲み取れないのかお前は、ということになってしまう。そんな傲慢な句ではないはずだ。
以下のnoteからすると、五木寛之『大河の一滴』にも引用されている一句らしい。
あら楽し思ひは晴るる身は捨つる
浮世の月にかかる雲なし
大石内蔵助
赤穂浪士四十七士の討ち入り成功後、泉岳寺に戻ってきた大石内蔵助が詠んだ。
彼はこれを辞世とした。ずっと温めていた句なのだろう。
和歌に嗜みはないが、私も辞世の句でも用意しておくかなぁ。
大雨に打たれ叩かれ重荷挽く
牛の歩みの跡形もなし
田中正造
オリジナルはひらがな混じりですが、勝手に漢字にしたところがあります。
大雨に打たれ、車夫に叩かれ、牛が重荷を挽いている。
雨で轍も消えて、跡形もない。
でも、牛の歩みの尊さは、変わらない。
跡形も残さないけど、美しい営みは色褪せない。
田中正造らしい一句ですね。
なお、本書に、田中正造が新聞を31年間も見なかったということが書かれていました。
「新聞は俗人の聖書」と言って新聞を読ませなかった山本七平の親を思い出す。知識より行動あるのみ。
新渡戸稲造が生涯、自分の心情を託したとして愛誦した歌:
見る人の心ごころにまかせおきて高嶺に澄める秋の夜の月
字余りなのが玉に瑕ですが、いい歌。
白鶴高く翔びて群れを追わず
みたいな昂然とした心意気を感じる。
野村望東尼は、晋作の辞世「面白きこともなき世を面白く」に下の句「すみなすものは心なりけり」を継いだ女性歌人。
その野村望東尼が、若い女性向けに詠った歌。
一筋の道を守らばたをやめも
ますらをのこに劣りやはする
いい歌ですね。以下の本の題名になっている。
この多久さんの本では、いろいろ学べます。
新選組の鬼副長・土方歳三のこれという辞世はない。辞世とされるものはウラが取れない都市伝説らしい。
しかし、土方が上京する前、つまり、新選組を結成する前に、発句集をまとめていた。
その最後が
梅の花咲ける日だけに咲いて散る
原文はひらがな混じりだったりしますが、読みやすく改めました。
咲ける日だけに咲く。
あったりまえなんですが、京都で大暴れし、五稜郭でもうひと暴れして散った土方の人生を考えると、「咲ける日だけに咲く」ことの美しさというか儚さを思う。
咲ける日には、きっちり咲いて、散りましょう。
人に負け己に勝ちて我を立てず
義理を立つるが男伊達なり
新渡戸稲造の『自警録』にある、味わい深い古歌。
男子の家庭での、あるべき振る舞いでは。
上記をもじって一首できた。
妻に負け己に勝ちて我を立てず
頭下げるが夫伊達なり
夫婦喧嘩の勝者は、「先に謝った人」です!
見る人の心ごころにまかせおきて
高嶺に澄める秋の夜の月
字余りだけどいい歌。
新渡戸稲造が大好きだった。
批判する人はするが良い。
我がなすことは我のみぞ知る。
そんな超然たる、ちょっと昂然たる心意気を感じる。
誰が元々詠ったのかな、、って思って調べると、
唱歌の「四季の歌」、作者は鈴木弘恭(すずき・ひろやす、1843-97)
らしい。百人一首とかでは全くないんですね。
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私が好きな
白鶴高く翔びて群れを追わず
に似ている。
この言葉の出典は唐の詩人の李鮮玉。
ホンダの藤沢武夫さんも好きだった言葉。
高く跳んで群れを追わない。
そういう姿勢でありたい。
親鸞は、襟巻きをしていた。防寒のために。
今残る親鸞の肖像画は、襟巻き画像。
これを見てか、一休宗純は、親鸞の200回忌法要で、以下の川柳を詠った。
襟巻の あたたかそうな 黒坊主
こやつが法は 天下一なり
「法」は「のり」と読むらしい。
一休が、親鸞を、「こやつ」呼ばわり、、
面白い歴史があるんですね。