私が最近ハマっている執行草舟の、刺さる言葉。
「犠牲を恐れてそれこそ人生そのものを犠牲にするか、犠牲に立ち向かって使命を果たし燃え尽きるか。
いずれにしても人生とは自らの生を犠牲にすることなのだ。」
執行草舟
シビレる。その通り。
こういう言葉を理解できる人とのみ私はお付き合いしていきたい。
美しさも、勇気も、大なる何か、美しい何か、尊い何かの完成途上で野垂れ死にする覚悟から生まれる。
これを執行草舟さんは「未完」と表現する。未完への覚悟。
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自分一個が、何か大なる憧れの「捨て石」になる覚悟。一粒の麦になって嬉々として死ぬ覚悟。
自分をそういう「小さいもの」だと開き直る覚悟と諦観から、人間の「大きさ」が醸し出される。
小さくなろうとするものが大きくなり、大きくなろうとするものは小さくなる。
聖書にも似たような言葉がありますね。
「神の国を何にたとえようか。 どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。 土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
マルコ4:26-32
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである
whoever wants to become great among you must be your servant, and whoever wants to be first must be your slave— just as the Son of Man did not come to be served, but to serve,and to give his life as a ransom for many.
マタイ20:26-28
The more submissive we are, the more powerful we will be.
新井奥邃の言う「有神無我」というのはこういうことなのだろう。