おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

東急「長津田駅」~小田急「鶴川駅」。その1。原嶋源右衛門の処刑の地。恩田川。河川管理境界。都橋。

2023-03-16 18:50:12 | 都県境を探る

今回からしばらく。多摩丘陵を上がったり、下ったり、迂回したり・・・。多摩川に出るまでは、けっこう起伏に富んだコースとなりそうです。

前回のところから、歩きを開始。都県境は左から右へ横切る。

右折すると、この細道が都県境。左が町田市、右が横浜市。

          

突き当たりを左折すると、右手のこんもりとした森の一角に、墓碑が2つ。

正面は、日露戦争で戦死した兵士を悼む碑。

解説板。

「日露戦争の旅順港攻略作戦・白たすき決死隊・中野好治の忠魂碑」。

司馬遼太郎の描く日露戦争『坂の上の雲』・旅順要塞第3次総攻撃

乃木と伊地知がやった第3次総攻撃ほど戦史上愚劣な作戦計画はない。相変わらず要塞に対する玄関攻撃の方針を捨てず、その作戦の全てを日本人の勇敢さのみに頼った乃木司令部というのは、ただ「突撃せよ」と死を命ずるのみで、計画と判断の中枢であるという点では、全くゼロというに等しかった。・・・この攻撃に加えるに一大決死隊の突撃が計画された。後に旅順の死闘の象徴的な存在として有名になる「白襷隊」がこれである。・・・中村少将に率いられた「退却なし」という3千百余名の白襷隊が旅順要塞の砲火を浴び、一挙に1500人が血煙を上げて死傷するに至った。この不幸な白襷隊戦法ほどの乃木司令部の作戦能力の貧困さを表したものはなかった。・・・中野好治は果敢にも突撃を敢行したが、敵の機関銃の掃射で戦死を遂げたのである。・・・(解説文より)

※白襷隊の敗北の報を受けた第3軍司令官の乃木希典大将は従来の方針を転換し、203高地の攻略を命じた。

その右奥には、

          名主・原嶋源右衛門の処刑執行の場所

解説板。

処刑の原因となった入会地「葦沼」新田開発

成瀬村の名主、原嶋源右衛門が、成瀬村と長津田村にまたがる葦沼という湿地帯を努力のすえ、新田として開発した。しかし、長津田村から境界問題でクレームがつき、話し合った結果、一部を長津田村に譲って、境界を確定することで合意したが、これに、奉行所が横槍を入れ「公儀をたぶらかした」として、首謀者の名主・原嶋源右衛門を見せしめのための罪人に仕立て、享保元年(1716)10月15日、通称がけ山と呼ばれるこの場所で、村民の必死の願いも叶わず原嶋源右衛門は1716年に打ち首、一家断絶の厳しい処刑が行われた。・・・

一帯は、小高い鬱蒼とした暗い森となっています。

     

また、現在でも、町田市と横浜市の境界線になっています。

そこを右折して進みます。

                   左が町田市南成瀬、右が横浜市緑区長津田町。

振り返る。

突き当たりに「恩田川」。

               上流を望む。

              都県境は、短い区間ですが、「恩田川」となります。

カルガモの群れ。

河川管理境界「恩田川」。

←東京都南多摩東部建設事務所 神奈川県横浜治水事務所→

対岸にも同じ河川管理境界。

                   対岸の左は、町田市成瀬、右は、横浜市青葉区。

東光寺公園・遊水池。

上流の「都橋」を渡って、対岸へ。

             「谷本川(鶴見川)合流点から7.6㎞ 町田市成瀬」「つるみ川はバクの形です」?

                   

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