おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

足尾銅山跡を訪ねる。その8。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-12 18:37:09 | 公害

高山社宅が並ぶ高原木。

川向こうの台地が「高原木」というところで、その昔天正18年(1590)に小田原の武士、斎藤大和守・山城守の兄弟が浪人となり、やがて足尾に来て足尾郷14ヶ村を支配し、後に弟の山城守がこの高原木に住んで仁田元・松木・久蔵・赤倉を治めてから開かれたといわれている。慶長15年(1610)に足尾に銅山が発見されてから、各所で採鉱が行われるようになり、宝永2年(1705)に幕末の大思想家、佐藤信淵の祖父信景(農政学者)が仁田元で錫山を発見し、その後錫山を銀山にしようと仁田元・高原木の招きで、日光に来ていた信淵の父信季(農政学者)は信淵を伴って天明4年(1784)来山したが、信季の客死に遇い実現できなかった。明治になり足尾銅山再開発とともに廃石堆積場になり現在の台地が築かれ、同40年(1907)ごろ銅山社宅が建ち賑わったが、昭和21年(1946)から徐々に撤収され2~3年後に無人となった。

足尾砂防堰堤(砂防ダム)。

        

               対岸には「銅(あかがね)親水公園」。

足尾砂防堰堤(ダム)

足尾銅山付近の山地は、銅山の煙害などによりはげ山と化した山容は荒廃の極まりになりました。この岩肌の露出した山腹から崩れ落ちる砂礫は谷を埋め、洪水のたびに下流に押し流されていきました。この被害を防止するため、足尾ダムは、昭和 2年(1927)蒲孚技師が検討した渡良瀬川全川の砂防計画の中で計画されましたが、具体化には至りませんでした。
 昭和22年(1947) 9月のカスリーン台風、昭和23年(1948) 9月のアイオン台風による連年の災害発生によって、ダム建設の必要性が再認識され、足尾山地で最も荒廃の著しい渡良瀬川上流の渡良瀬川(旧名松木川)・仁田元川・久蔵川の3川合流点の喉元にあたる地点に計画されました。


 工事は昭和25年度(1950)から昭和52年度(1977)まで3次に分けて実施しました。その計画貯砂量500万㎥はわが国第二の大規模なもので、下流河道へ流出する土砂量を調節軽減する効果の大きさはいうまでもなく、ダム上流域の渓岸斜面の崩落防止、ひいては山腹植生の回復を促進するなどの総合的な役割を果たしています。
 現在、ダムサイトには緑とうるおいを取り戻そうと、植林活動や、治山治水が学習できる銅(あかかね)親水公園が整備されています。

よみがえれ、鉱毒で荒れ果てた足尾の緑

                    眼下に「足尾ダム」。
 市民ボランティアグループ「足尾に緑を育てる会」は、足尾銅山の鉱毒による煙害で、“はげ山”になってしまった足尾の山に緑を戻す活動を繰り広げています。
 同会の植樹活動は、平成8年(1996)から毎年行なわれており、今年(平成13年)で6回目になります。
 写真は、大畑沢「緑の砂防ゾーン」で、足尾ダムを眼下に緑を取り戻そうと、荒廃した山肌に苗木を植える参加者達。
    「渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル
(農漁民と共に闘った田中正造の明治天皇への直訴状より)

(この項、「」HPより)

着実に緑の木々が生長しています。

「銅(あかがね)橋」。

                

「足尾砂防ダム」。

              ニホンカモシカの壁画。

        「足尾の治山・治水事業」解説板。

「渡良瀬川源流の碑」。

眼前の河原。

                 増水時には水没してしまう。

          

                上流に架かる橋は、工業用水を送る「仁田元沢水管橋」。

ここから上は、関係者以外進入禁止

下流方向を望む。

ここから来た道を戻ります。

          

                        中央に大煙突。

水管橋。周囲には、かつてよりも緑が多くなっています。

    

足尾の山々を振り返る。

掲示板。

この付近でクマが出没しています。早朝や夕方は活発に行動しますので、特に注意してください。日光市

ここのバス停から乗車します。

          赤尾~間藤駅~東武日光駅

「足尾銅山労働組合」事務所。

足尾銅山閉山50年、元労働者が記録映画鑑賞

中野渉

 小口は鉱毒事件を題材とした版画集「野に叫ぶ人々」「鉱毒に追われて」「盤圧に耐えて」の3部作を手掛け、企画展では全160点が展示された。

 「盤圧に耐えて」(76年)は、日本の労働運動の先駆けとなった銅山労働者の闘いをテーマにした80点。過酷な労働実態や労働運動、閉山に至るまでの盛衰の歴史と人々の暮らしが描かれている。映画はこの作品を元に、ナレーションを加えて構成している。

 会場には、元銅山労働者で不当解雇の撤回闘争に携わった斉藤惇さん(94)、上岡健司さん(90)、赤塚俊一さん(90)の日光市足尾地区在住の3人の姿があった。

 66年、労働者25人は、銅山を経営する古河鉱業(現・古河機械金属)側から指名解雇を通告された。大半が労働組合の中堅幹部。勧告は組合活動を理由としたもので、全員が解雇を拒否した。7人が不当解雇だとして裁判闘争をし、70年に宇都宮地裁で勝利判決を得た。

 裁判は東京高裁で続いたが、古河は銅山を73年2月28日に閉山、高裁の職権で和解をあっせんし、幕を閉じた。7人は結局、職場復帰することはなかった。

 斉藤さんも上岡さんも、解雇を命じられて鉱山に入れなくなった後、町議に転じた。

 斉藤さんは「映画では労働者が酷使されていた状況がよく分かる。私たちは意思統一をして闘い、労働者の権利を守ることができた」と振り返った。上岡さんは、版画を制作した小口さんについて「何回も家に来て話を聞いてくれた」と話した。

 足尾は最盛期の16(大正5)年には県内で宇都宮市に次ぐ人口3万8千人以上を誇ったが、現在は1500人程度にまで減っている。中野渉

足尾銅山盆踊り 直利音頭 発祥の広場

この広場で、大正13年(1924)赤倉町務会が「八木節」を始めたことがきっかけであろうか。時に足尾銅山労働大争議(大正8・10年)で荒れた後でもあり、文化・スポーツの振興に気運が高まる中、本山坑勤務の畑中清(舟石出身)・堺正高(フランキー堺の父)等が、銅山に相応しい盆踊り唄を作ろうと、同年から毎年歌詞を募集し当選歌を社内報で発表した。お囃子、振付けも創作され、昭和2年(1927)頃に「直利音頭」に変えて踊るようになり、足尾の盆踊りとして定着し全山で盛大に行われた。しかし、この広場での盆踊りは平成8年(1996)を最後に思い出を残して幕を閉じた。

※直利(なおり):銅鉱を多量に含んだ良質の鉱脈。

♪ハア―花の渡良瀬(アーヨーイヨイと)青葉の小滝 サー月の眺めは チョイトサ備前楯(ハ スッチョイ スッチョイスッチョイナ)

天の岩戸も踊りで開く 銅山(やま)の直利も 踊りゃ出る

山は三角、やぐらは四角 踊れ兄弟 まんまるく

わだしゃ足尾の 坑夫の女房 坑内(しま)を恐がる 子ば産まぬ

銅山の友子の どこ見てほれた 腕と度胸と 直利歌

運と鈍とで 開いた足尾 根で張り切りゃ 大直利

                                           日光市

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足尾銅山跡を訪ねる。その7。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-11 18:37:57 | 公害

上流へ向かう。

             秋の訪れを感じる渓谷。中央に巨大な煙突。

振り返る。

              「足尾製錬所」跡全景。中央が旧足尾線・ターミナル駅舎跡。

奥に、「硫酸タンク」跡。

足尾銅山本山製錬所大煙突。

痛々しい岩肌。

               

銅の採掘・精錬が終了した後も、まだ鉱毒除去の作業が続いている。

社宅が並んでいた地域。

「足尾銅山社宅愛宕下」。

江戸時代の愛宕下は赤倉村字「牧詰」という地名で農家が3戸あったが、明治20年(1887)に松木から起こった大山火事で焼失し、以後草っ原となっていた。その後足尾銅山の社宅地として開発され、始め同30年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため、東京から来た人達の飯場が建てられたが、工事が終わると除去された。次いで同40年代になると対岸の精錬所の社宅14棟(1棟7戸建」が建ち、「赤長屋」と呼ばれるようになり、大正10年(1921)に久蔵の社宅がこの地に移されるなど変遷を経て増大した。戦後は「愛宕山」の麓に位置するところから「愛宕下」と呼ばれ、昭和31年(1956)には181世帯819人の人口を数えたが、経営合理化により徐々に減少し、足尾銅山閉山時(昭和48年)110世帯377人、足尾精錬設立時(昭和62年4月1日)49世帯127人、平成9年(1997)現在で13世帯24人が住むのみとなり、昔日を偲ぶ「つわものどもの夢の跡」となりつつある。

                                       (「今昔マップ」より)

煉瓦造りの障壁。背後の山には、木々が育っています。

跡地に、サクラの木。  

          

かつてのはげ山が、芝草のような緑に。

かつての、すっかり荒廃したイメージから、大きく変化していました。       

そこには、官民一体となっての粘り強い、地道な緑化・植樹運動、実施があります。

特に、NPO法人 「足尾に緑を育てる会」


足尾に緑を取り戻そう 

銅山の隆盛と公害

足尾銅山は、本格的に採掘が開始したのが1610年といわれており、江戸幕府直轄の鉱山として大いに栄えましたが、江戸時代末期には銅の産出量は落ち込んでいました。明治維新後、経営者が代わり、産銅量は飛躍的に増えました。1885年には全国産銅量の4割に迫るほどとなり主要銅山の地位を不動のものとし、日本の産業発展に貢献しました。しかし、この銅山の隆盛は、同時に大規模な環境破壊をもたらしました。鉱毒による渡良瀬川流域一帯への被害と、足尾銅山周辺の煙害が、のちに「公害の原点」として世に知られるのです。足尾の山々は、2,400haとも3,000haともいわれる地域が荒廃しました。

渡良瀬川の源流に位置する足尾町松木地区は、足尾銅山の煙害等により荒廃し、国や県などの関係機関による復旧事業が約100年前から続けられてきました。その間、さまざまな困難がありましたが、現在までに荒廃地の半分ほどが緑化されたといわれています。

こうしたなかで、渡良瀬川上流と下流の市民活動グループが集まり、19965月、足尾の山に緑を取り戻そうと、「足尾に緑を育てる会」を結成し、松木地区で植樹活動を開始しました。毎年、春の植樹デーを開催、参加者は年を追うごとに増え、近年は2,000人ほどの人たちが集まるようになりました。また、児童・生徒による体験植樹や、各種団体の緑化活動も活発となり、現在社会における環境問題への関心の高さがうかがえます。

私たちの会は、荒廃した足尾の山の緑化活動を軸に、足尾町の活性化に寄与し、渡良瀬川に清流を取り戻そうとするものです。ひとたび破壊された自然の回復には、じつに長い年月を必要とします。そのためには、多くの人たちによる地道で息の長い活動が必要となります。ぜひ、あなたも私たちの活動に加わってください。

 

(この項、「」HPより)

※以前、関わっていた高校生達がボランティア活動の一環として体験学習を行ったことがあります。

その時植林した木々は今、どうなっているのでしょうか? 彼らの熱意によって、立派に生長していると思います。

       正面奥に「足尾松木川渡瀬源流砂防ダム」が見えます。左手には「銅親水公園」。

          

      

「道と川百選」。3川合流地点の渡良瀬川。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足尾銅山跡を訪ねる。その6。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-10 18:38:50 | ローカル鉄道

古河橋。

古河橋は、足尾銅山施設の近代化の一環として渡良瀬川に架設されたもので、明治23年に竣工した。ドイツ国ハーコート社製の鋼製のトラス橋で、工場であらかじめ製作した部材を、現場でボルト接合のみで短期間で簡易に組み立てられる工法が用いられている。
古河橋は、足尾銅山において近代最初期に整備された施設の中で、ほぼ完存する唯一の遺構であり、歴史的に価値が高い。日本でも数多く架設されたドイツ国ハーコート社製のボルト接合による橋梁の中で、原位置に残るわが国現存最古の遺構であり、西洋の異なる国々から先端技術を導入し、短期間で近代化を成し遂げたわが国橋梁分野の技術的展開を示す遺構として重要である。

(この項、「文化遺産オンライン」HPより)

足尾本山駅があった本山地区は、足尾銅山の操業の中心地であった。その本山地区と社宅などが立ち並んでいる赤倉地区の間には松木川が流れているため、両区を結ぶために1884年(明治17年)に木造の直利橋(なおりばし)が架設されたが、1887年(明治20年)4月8日に松木村の大火で消失してしまった。そのため、足尾銅山から足尾製錬の精錬所までの鉱石運搬用として、直利橋の跡にドイツ人の設計により本橋梁が架設されている。

1891年(明治24年)には、鉄道道路併用橋として日本初となる実用化された単線の電気鉄道が施設されている

その後は、道路橋にそのまま転用されており補強工事も行われていたが、本橋梁の老朽化に伴い、南側に新古河橋が1993年(平成5年)に架設されたため、現在は歩道橋として整備・保存されている。なお、現在は橋の入り口に柵が設けられ立ち入り禁止となっている。

本橋梁は日光市指定文化財に指定されたのち2014年(平成26年)に国の重要文化財に指定された。また、土木学会による「近代土木遺産2800選Bランク」にも選出されている

          

間藤からの架線跡。右手の建物内に。           

左の建物内に向かっていました。

     この奥一帯が「足尾製錬所」跡。建物内にあったのが「足尾本山駅」。

対岸から足尾製錬所跡。

新古河橋から下流を望む。

通りの反対側に、日本の国語教育に大きな影響を与えた「倉沢栄吉先生」解説板。

上流に向かいます。

             

かつて聞いた話では採掘や煙害などによって、周囲の山々はまったくの不毛の地になってしまった、と。

1970年代のようす。

                                                                                    (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

       中央が足尾銅山本山地域。

緑色と茶色の部分が識別できない。上流は、ほとんど地肌が丸出しで、草木の生えている様子はなさそう。

50年ほど経過して、今はどうなっているか?                                  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足尾銅山跡を訪ねる。その5。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-09 18:32:44 | ローカル鉄道

水量発電所跡。

                解説板の奥に当時の導水管が保存されています。

            

間藤水力発電所は、坑内排水用動力として坑内に設置した蒸気ボイラーの排煙問題解決のために導入されたのが契機とされています。ドイツのシーメンス社の提案に基づき、明治23年に完成しました。水源は久蔵沢、深沢とし、2.9kmに及ぶ水路を木銿で通した。落差32mを確保して出力90キロワットで運転を開始し、坑内排水、竪坑捲揚機、照明の電化が実現しました。しかし、渇水期には安定した電力を得ることが難しいため、その後、足尾地内に小規模発電所を相次いで建設されました。明治39年に細尾発電所(出力2000キロワット)が完成した後、間藤水力発電所は足尾電燈株式会社に払い下げられて、町民に電燈電力を供給しました。その後、間藤水力発電所がいつまで使われていたかは定かではありませんが、現在、落下部の水圧管の一部と渡良瀬川河床に発電所の基礎構造物が残されています。

                

                                         (「日光市」HPより)

渡良瀬川。背後は急峻な崖に。

先に進みます。

            「足尾」。 

   

          人とほとんど出会いません。 

「上間藤」。   

            

対岸左手奥には、「旧本山小学校」。 

       支流のようす。

 

横道にも低い屋根の家が並ぶ。

足尾一の賑わい 赤倉」。

足尾銅山本山跡に着きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足尾銅山跡を訪ねる。その4。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-06 18:30:23 | ローカル鉄道

午前11時41分に「間藤駅」着。「銅山(あかがね)街道」を北上します。

江戸時代のはじめ、足尾銅山は幕府の直営とされていました。足尾で精練した御用銅を江戸へ運ぶための道として、銅山街道(あかがねかいどう)が設けられました。この街道は、まさしく銅の道でした。足尾を出た御用銅は、沢入(そうり)・花輪・大間々(のちに桐原)・大原・平塚の、5つの宿を順番に送られたのち、利根川を下って江戸浅草の御蔵入りとなりました。
 この銅山街道が整備されたころ、はじめは大間々宿に銅問屋が設けられていました。しかしその後、大間々が天領でなくなったために、江戸時代の中ごろになって桐原宿に移されました。桐原の藤生家では、今でも銅蔵(どうぐら/銅をいち時保管する蔵)と、その役めに関係のある文書などが残されています。
 このように、大間々、桐原は御用銅を運ぶための、たいせつな場所でした。そのことからも、人がにぎわう宿場町としても栄えました。また、銅山街道は、大間々の奥にある村や集落へ、ふだんの生活に使う品物などを送るため、また、山地の産物を集めるなど、物資の集散地としての大間々町を発展させるのに役立ってきました。

歴史

慶長15年(1610年)に足尾山中で銅が発見され、慶安元年(1648年)に幕府の代官である諸星庄兵衛が銅山奉行を兼任して、慶安2年(1649年)に街道を整備して各宿に銅蔵を置いたと伝わる。当初の道筋は、足尾村から渡良瀬川右岸沿いを南下して上野国勢多郡沢入村(東町沢入)・花輪村(東町花輪)を経て、山田郡大間々村(大間々町大間々)から大間々扇状地を南進して、利根川の平塚河岸(境平塚)に至るものであった

寛文年間(1661年-1673年)に、幕府代官の岡上景能が銅山奉行を兼任して、笠懸野の新田開発によって笠懸新田(新田郡大原本町村、大原町)が成立し、村の中心に大原宿が置かれた。延宝年間(1673年-1681年)から天和年間(1681年-1684年)の頃が足尾銅山街道の最盛期であり、毎年35万貫から40万貫までの銅が運ばれた

元禄年間(1688年-1704年)に、銅の積出港が平塚河岸から下流の前島河岸(前島町)に、銅蔵が平塚村の北爪家から亀岡村(亀岡町)の高木家に移り、大原本町村の南方の上江田村(新田上江田町)から東南に向かって亀岡村・前島河岸に至る道筋に変わった延享4年(1747年)に、大間々村が幕府領から前橋藩領に編入、銅蔵が大間々村の高草木家から西隣の桐原村(大間々町桐原)の藤生家に移ったことで、足尾銅山から沢入宿・花輪宿・桐原宿・大原宿を経て亀岡村・前島河岸に至る道筋が確定した

慶応3年(1867年)の大政奉還後、銅山の管轄は日光県などを経て栃木県に移り、明治10年(1877年)に古河市兵衛の経営となる。明治23年(1890年)細尾峠に索道が架設され、大正元年(1912年)12月に足尾鉄道が足尾まで達すると街道は寂れたが、昭和37年(1962年)に足尾-大間々間が国道122号の一部に指定され、現在では国道を銅山街道と通称している

旧家らしいおうち。

                

          北部の玄関口 下間藤 往時の賑わい。

右一帯に住宅が広がっていた。

このような説明板が各所に設置され、足尾銅山を中心とした足尾町のかつての様子が掲示されています。

足尾町(あしおまち)

関東地方の北部、栃木県西部に存在したである。足尾銅山松木渓谷で知られる。銅山全盛時の1916年には県内では宇都宮に次ぐ人口38,428人を抱えていた。

1973年の足尾銅山閉山後は、過疎化が著しく、合併直前の人口は3,000人台となり全盛時の1割にも満たなくなった。

2006年3月20日に、足尾町や(旧)日光市などの周辺自治体が合併し、(新)日光市の一部となった。

歴史

 

旧・足尾町の歴史は、足尾銅山の歴史そのものです。1610年(慶長15年)に銅山が発見されて以来、銅山は幕府の管轄下におかれ、多くの労働者が採掘と製錬を行い、江戸の中期には足尾千軒と呼ばれるほどの繁栄を示しました。

その後一時の衰退をみますが、1877年(明治10年)、古河市兵衛の経営となり、先進的な技術と設備の導入により、生産が急速に伸び、1890年代(明治20年代)には日本産銅の40%を産出する日本一の銅山となります。その後も次々と鉱脈が発見され、大正以降も発展は続き、当時の人口は宇都宮市に次ぐ38428人(1916年大正5年)で県下第2位。

しかし長い繁栄を続けた足尾銅山も産銅量の減少と時代の流れの中で1973年(昭和48年)2月28日、その長い歴史に終止符をうちました。

(この項、「日光市」HPより)

街道筋の家並み。

              屋根の低い家が続きます。空き家が目立つ?

旧足尾線の線路跡が右から左へ。

                   間藤駅から足尾銅山駅まで。  

間藤駅方向。 足尾銅山方向。

             渡良瀬川に架かる鉄橋と人道橋跡。

対岸に「本山小学校」跡があります。

                          (「Googleマップ」より)

2005年3月末をもって、足尾町立本山小学校(栃木県日光市足尾町上間藤16-1)が閉校しました。

1892年に足尾銅山を経営していた古河氏が私財を投じ、私立古河足尾銅山尋常高等小学校を設立。戦後、公立の学校となり足尾町立本山小学校と改称しました。同校は、上間市街地の山の中にある大きな校舎が特徴の学校。当時は足尾銅山の最盛期で、多くの銅山関係者の子どもたちが通学していました。しかし、児童数減少により2005年に閉校。足尾町立足尾小学校へ統合となり、113年間の歴史に幕を閉じました。

現在校舎はそのままの形で現存。敷地内にあった講堂は登録有形文化財に登録されており、足尾銅山の歴史を伝える遺構として残されています。ゆかりのある方は、この場所にもう一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

(このこう、「<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/4c/7ef0de0de4ff0e9565bfa3195e9e5c01.jpg">」HPより)

       

眼下に渡良瀬川(松木川)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする