おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

足尾銅山跡を訪ねる。その3。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-05 18:36:09 | ローカル鉄道

渡良瀬川。

ススキ。

      次第に秋色に。 

             

           

通洞駅の手前に架かる橋。

「わたらせ渓谷鐵道」の「渡良瀬川橋梁」から、新旧「切幹(きりみき)」橋。手前が旧橋。庚申川に架かる橋。

庚申川

庚申山を源とし切幹の地で渡良瀬川に合流します。日光国立公園の一部であり源流部ではブナなどの自然林、中流部は景観が素晴らしい渓谷が連なります。少し上流の銀山平付近には温泉もあり、渓谷沿いには林道が切り開かれています。

川は深い谷に囲まれ奇岩や怪石が多く、新緑や紅葉などとともに渓谷美が楽しめます。天狗の投げ石などの名所もあります。付近には足尾銅山の産業遺跡も点在しています。

悲話を秘めた坑夫滝(光風の滝)・小滝の小滝・広道路の滝・めがね滝・庚申七滝など様々な滝があります。

(この項、「」HPより)

※夏目漱石に「坑夫」という作品があります。「足尾銅山」が舞台のようです。

坑夫

夏目漱石長編小説で、1908年明治41年)の元日から、東京の『朝日新聞』に91回にわたって、大阪の『朝日新聞』に96回にわたって、掲載された。『虞美人草』についで、漱石が職業作家として書いた2作目の作品。

《あらすじ》

恋愛関係のもつれから着の身着のまま東京を飛び出した、相当な地位を有つ家の子である19歳の青年。行く宛なく松林をさまよううちにポン引きの長蔵と出会う。自暴自棄になっていた青年は誘われるまま、半ば自殺するつもりで鉱山で坑夫として働くことを承諾する。道すがら奇妙な赤毛布や小僧も加わって四人は鉱山町の飯場に到着する。異様な風体の坑夫たちに絡まれたり、青年を案ずる飯場頭や坑夫の安さんの、東京に帰った方がいいという忠告に感謝しつつも、青年は改めて坑夫になる決心をして、深い坑内へと降りてゆく。そして、物語の結末は唐突に訪れる。坑道に深く降りたった翌日、診療所で健康診断を受けた若者は気管支炎と診断され、坑夫として働けないことが判明する。結局、青年は飯場頭と相談して飯場の帳簿付の仕事を5か月間やり遂げた後、東京へ帰ることになる。

《解説》

ある日突然、漱石のもとに荒井某という若者が現れて「自分の身の上にこういう材料があるが小説に書いて下さらんか。その報酬を頂いて実は信州へ行きたいのです」という話を持ちかける出来事が起きる。漱石は当初、個人の事情を小説として書きたくないという思いから、むしろ君自身が小説化した方がいいと本人に勧める。しかし、時を同じくして、1908年(明治41年)の元日から『朝日新聞』に掲載予定だった島崎藤村の『』の執筆がはかどらず、急遽漱石がその穴を埋めることとなる。そこで漱石は若者の申し出を受け入れ、漱石作品としては異色と言える実在の人物の経験を素材としたルポルタージュ的な作品が生まれる。漱石の代表作として名が上がることは稀だが、作品の研究論文は現在に至るまで多数存在する。

(この項、「Wikipedia」より)

       

通洞駅手前300mほどの所、左手側に円形のシックナー(濃縮沈降装置)と階段式の屋根の通洞選鉱場跡。

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足尾銅山跡を訪ねる。その2。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-04 18:37:06 | 向島百花園

渡良瀬川に架かる橋を中心に紹介。

「はねたき橋」。

はねたき橋は、渡良瀬川の中流、高津戸峡に架かる歩行者専用橋。全長120m、全幅3.5mを誇り、水が飛び跳ねる様が滝のように見えることから名前が付けられました。
橋からは関東の耶馬溪と讃えられる高津戸峡が一望でき、紅葉シーズンには多くの観光客で賑わいます。左岸側からは約500mの高津戸峡遊歩道を通って高津戸橋まで散策することも。

(この項、「」HPより)

※はねたき橋は自殺の名所として知られ、2016年の夏には橋上から家族で飛び降り、無理心中を図った事件も発生している。このため自治体では看板監視カメラを設置するといった自殺予防策を講じている。また、過去に山形県で自殺の名所とされていた吊橋にバンジージャンプ台を設置し、イメージアップに成功した事例があることから、はねたき橋にも同様にバンジージャンプ台を導入してはどうかとの提案がなされたこともある

(「Wikipedia」より)

「福岡大橋」。

渓谷が続きます。

水管橋? 

「黒保根(くろほね)橋」。

                     

「五月橋」。

堰。

花輪駅「うさぎとかめ」モニュメント。

「ひがせ橋」。

「松島橋」。

                 

神戸駅ホーム。前方を望む。

ヒガンバナ。

この先、かなり長い「草木トンネル」に入ります。

         

トンネルを抜け、渡良瀬川を渡り、左岸沿いにある「沢入(そうり)駅」に向かいます。

左手に「沢入発電所」。

「沢入」。

左岸沿いに進む「わたらせ渓谷鐵道」。左下に見える渡良瀬渓谷が見事です。

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足尾銅山跡を訪ねる。その1。(ローカル鉄道の旅。番外編)

2023-10-03 18:32:20 | ローカル鉄道

前回に引き続き、再び「足尾」へ。「足尾銅山」のその後が気になったので。

わたらせ渓谷鐵道の終点「間藤駅」までは本数が少ない。

前回乗った時は、午後1時過ぎに到着。とんぼ返りで戻ってきてしまいました。

今回は、午前11時41分「間藤」着に。

これならば、「間藤駅」から帰途につくまで2時間弱あるので、少しは見て回れるかな、と。

自宅を7時過ぎに出て、約4時間半。普通列車を乗り継いでの旅。

特急に乗るなら、もっと遅い時間の出発でもいいのですが、着く時間は同じ。

それなら、という次第。

電車に乗り継ぎ、乗りっぱなし、というのも、けっこうおしりが痛くなる! 帰りは最短時間で。

《行程》・往路 青砥―牛田―(東武動物公園)―館林―東小泉―(太田)―相老(わたらせ渓谷鉄道)―間藤

    ・復路 赤倉(日光市営バス)=(間藤駅)=東武日光駅(特急)―東京スカイツリ―押上―青砥

※東武鉄道が北関東エリアを含めけっこう路線網が多いのに驚きました。

        

「小泉線」には初めて乗りました。

小泉線の前身は、1917年大正6年)3月12日に館林 - 小泉町間で営業開始した中原鉄道(ちゅうげんてつどう)小泉線であった。同社は1922年(大正11年)に上州鉄道と改称され、軽便鉄道から地方鉄道となったが、1937年昭和12年)に東武鉄道に買収された。その結果、中原鉄道小泉線が東武鉄道小泉線となった。

その後、小泉町駅と仙石河岸駅を結ぶ仙石河岸貨物線が開業し、途中に新小泉駅が開設された。付近には富岡氏が支配した小泉城、富岡氏から分かれた小泉氏発祥の地もある。

1941年(昭和16年)6月1日中島飛行機小泉製作所への輸送を行うため、太田 - (現)東小泉間が開通したことを受け、小泉信号所(現・東小泉駅)が設けられた。同駅は翌1942年(昭和17年)4月に東小泉駅と改称し、旅客営業を開始している(代わりに小泉町駅での旅客営業を中止)。同年12月1日には仙石河岸線に西小泉駅が開設され、中島飛行機小泉製作所の玄関駅となった。

さらに軍の要請によって仙石河岸線の新小泉駅から利根川を渡り、埼玉県側の妻沼駅熊谷線と接続する計画も立てられ一部着手されたものの、第二次世界大戦の終結により工事は中断。戦後には工事再開も検討されたが実現せず、1974年(昭和49年)に免許が取り下げられた。その後、西小泉駅以南の仙石河岸貨物線は1976年(昭和51年)に廃止され(跡地は遊歩道「いずみ緑道」に転用)、熊谷線も1983年(昭和58年)に非電化のまま廃止されている。

東小泉駅は、1955年(昭和30年)に再び信号所となったが(代替として小泉町駅での旅客営業を再開)、1977年(昭和52年)の西邑楽高校開校に併せて旅客営業を再開し、小泉町駅とともに現在に至っている。

(この項、「Wikipedia」より)

※中島飛行機=現SUBARU。

JR熊谷―妻沼(熊谷線―廃線。探訪済。)と結ぶ計画があったことを改めて確認。

通過する駅名が気になります。

「竜舞(りゅうまい)」

駅名の由来=貞観3年(861)に乱が発覚した時に、朝廷は藤原長良郷に命じて討伐させることにしました。
勝利を祈願した長良郷は陣内各地にまつり旗を立て、この旗が風に舞うさまが青竜に見えたため、「龍舞木の郷」と呼ばれるようになりました。駅名は地名から命名されたと思われます。

「三枚橋」

駅名の由来=江戸時代の初期、鳥山・鶴生田・大島の地区には3本の川と堀がありました。
洪水のたびに川が溢れ住民は、大変不便な生活を強いられていました。鳥山村の篤農家・天笠治良右衛門は、多額の費用と大勢の人を雇って、大きな石を運び架橋を三カ所にかけたといいます。
郷土の偉人・天笠治良右衛門の遺徳を記念するため三枚橋駅と命名されました。

「治良門橋(じろえんばし)」

駅名の由来=洪水で橋を流されてしまった人々の難儀を見かねて、篤農家・天笠治良右衛門は、石橋に替えて村民には大変感謝されたそうです。大正2年に開業した駅は、先覚者の天笠治良右衛門の名を永久に残しました。

「藪塚」

駅名の由来=古墳地帯の北限として知られ、石之塔遺跡の出土品から、東北と関東の豊かな文化交流が推測されるこの地は、新田氏の一族岩松時兼(ときかね)が所有し、建保3年(1215)からは藪塚氏が領有していました。それが地名となり、駅名にもなりました。御存知(ごぞんじ)木枯し紋次郎の世界を、「歴史の里三日月村」で味わえます。

「阿佐見(あざみ)」

駅名の由来=この地に古くから沼があり、通称この沼を「浅い沼」、「浅い海」と呼んでいました。この沼が現在の「阿左美」です。当時から地元には大切な水源地となっていました。また阿左美氏と名乗る土豪が土着していたともいわれています。地名より命名された当駅は、昭和12年に開業されました。

※駅名の由来は、「東武鉄道」HPによる。

・・・

相老」で乗り換え。

                 上り線に鮮やかな色塗りのトロッコ列車が停まっています。

「間藤」まで、前回撮り損ねたものを掲載します。 

       

「大間々(おおまま)」。 

                     大間々町の花 「さくらそう」。

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ローカル私鉄の旅。44。「わたらせ渓谷鐵道」。その9。

2023-10-01 13:45:56 | ローカル鉄道

赤とんぼ(アキアカネ)。ベンチにて。

間藤駅は、紀行作家の故宮脇俊三さんが、77年に国鉄全線を完全乗車した際の最後の駅として、鉄道ファンには聖地として有名。

宮脇俊三

(1926-2003)1926(大正15)年、埼玉県に生れる。東京大学西洋史学科卒業後、中央公論社に入社。「日本の歴史」「世界の歴史」シリーズ、中公新書の創刊等を手掛ける。出版部長、中央公論編集長等を経て、1978年退社。同年刊行の国鉄全線完乗記『時刻表2万キロ』で日本ノンフィクション賞を受賞する。『最長片道切符の旅』『時刻表昭和史』『中国火車旅行』等で文芸の一ジャンルとしての鉄道紀行文学を確立した。『古代史紀行』等の歴史紀行、泉鏡花文学賞を受けた小説集『殺意の風景』がある。1999年、菊池寛賞を受賞。2003年2月26日、病没。『宮脇俊三鉄道紀行全集』全6巻(角川書店)がある。

「お化け屋敷×列車―ゾンビトレイン」ポスター。すでに終了した企画ですが。

60分間降りられない、新感覚お化け屋敷列車

2023年7月9日(日)・22日(土)・30日(日)、8月5日(土)・19日(土)・27日(日)、9月9日(土

トロッコわたらせ渓谷号(ガラス付き普通列車)を舞台に、列車内で発生する様々な緊急事態から回避・脱出・生存を目指す体験型イベント。大間々駅から通洞駅までの区間、途中下車はできないため、約60分間のお化け屋敷をお楽しみいただけます。

              

(この項、「」HPより)

足尾銅山本坑跡方向。

                  

今回は、ここまで。「JR日光駅」行きのバスに乗って、「東武日光駅」まで。

閉山後の足尾銅山のようすは、次回に。

               「日光市営バス」。

右手に「わたらせ渓谷鉄道」の橋梁。

           

長い「日足トンネル」を抜ければ、「日光東照宮」エリアに入ります。

旧道である細尾峠つづら折れや車がすれ違えない程の狭隘道路は、日光足尾を結ぶ大動脈として慢性的な渋滞を招いていたことから、1973年昭和48年)10月22日栃木平にて起工式が行われ、4年半の歳月を費やして1978年(昭和53年)3月30日に開通、総工費は65億円、トンネル幅は9m, 総延長は2,765 mにも及ぶ長大トンネルとなった。

このトンネルが国道122号の新道となり、細尾峠ルートは旧道に格下げされた。入口付近にはトンネル開通記念碑が建てられている。

開通記念碑

日足トンネルの開通によって、足尾町(現在の日光市足尾町)の交通が改善されただけではなく、金精道路の冬期閉鎖に伴う迂回路としての機能が改善されたことになる。

昔から、このトンネルがある細尾峠は、足尾銅山で産出されたなどを日光東照宮周辺まで運ぶための索道が通っていた。足尾鉄道(後の国鉄足尾線、現在のわたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)の開通によって、索道は廃止された。足尾町は鉄道の開通によって、東京桐生市への交通の便が良くなったのに対し、県都宇都宮市へのアクセスには峠越えか、または、桐生市・栃木市小山市経由(鉄道では、足尾線 - 両毛線 - 東武宇都宮線または東北本線)で遠回りとなり、不便であった。また、日光市が隣にありながら、桐生市以外はどちらも行き来の不便な場所であった。天候によっては桐生市側の道路・鉄道が通行止め・運休になることがあり、孤立することがあったが、トンネルの開通によって、宇都宮と日光が近くなり、孤立することもほぼなくなった。(「Wikipedia」より)

大谷川。

あっという間に市街地に。

東照宮前の賑やかな通りを過ぎ、バスを降りてすぐ飛び乗るように「東武日光」から特急で帰京しました。

「リバティけごん」号。

            

                    切符を急いで買って。

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