「言葉にしたのに本心ではなかったこと、そして本心ではあったのに言葉にできなかったことの間に、愛の多くは失われる」
― ハリル・ジブラン
“Between what is said and not meant, and what is meant and not said, most of love is lost.”
― Khalil Gibran
「世界の半分は言いたいことがあるのに言えない人たちで構成されており、残りの半分は言うことがなくて言い続ける人たちで構成されている。」
ロバート・フロスト
ハワード・ソシュレク - ヘレフォードシャーの野原に手を顔に当てて立つロバート・フロスト、1957年。
(ザ・ライフ・ピクチャー・コレクション/ゲッティイメージズ)
“Half the world is composed of people who have something to say and can't, and the other half who have nothing to say and keep on saying it.”
Robert Frost
Howard Sochurek - Robert Frost standing in a field in Herefordshire with his hand over his face, 1957.
(The LIFE Picture Collection/Getty Images)
"誰も下降の危険性を否定すべきではないが、危険を冒すことは可能である。誰も危険を冒す必要はないが、誰かが冒すことは確かである。そして、日没の道を下る者は、目を開いてそうするように、それは神々さえも怯ませる犠牲なのだから。しかし、すべての下降は上昇に続いている。消えていく形は新たに形作られ、真実は変化を受け、新しいイメージ、新しい舌で、新しい瓶に入れられた新しいワインのように、新しい証人となる場合にのみ、最終的に有効である。"。~カール・ユング、CW5、変容の象徴、パラグラフ553
“No one should deny the danger of the descent, but it can be risked. No one need risk it, but it is certain that someone will. And let those who go down the sunset way do so with open eyes, for it is a sacrifice which daunts even the gods. Yet every descent is followed by an ascent; the vanishing shapes are shaped anew, and a truth is valid in the end only if it suffers change and bears new witness in new images, in new tongues, like new wine that is put into new bottles.” ~Carl Jung, CW 5, Symbols of Transformation, para 553
トマスによる福音書70
「あなた方の中にそれを生み出すならば、あなたがたが持っているものが、あなたがたを救うであろう。
ルカによる福音書17章
11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。
12 そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、
13 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。
14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。
15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。
17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。
18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。
19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
ルカによる福音書19章
37 いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、
38 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。
39 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。
40 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。
石が叫ぶの解説の引用:
神の実在と働きを賛証(証人)する者がいなければ、人間の獣性が大暴れをして利己主義の争いの世となるであろう。
マタイによる福音書 5:15
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
「彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)
イザヤ書40章3~5節
荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
このようにして、主の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。」
「悪と対峙していると、これまで以上にほんの小さな善が必要になります。それは暗闇の中で光を輝かせ続けることであり、キャンドルは暗闇以外では意味を持ちません。」
(ユング – ビクター・ホワイト神父への手紙、オックスフォード、1953年11月24日)
世界に悪が存在する理由は、人々が自分たちの物語を語れないことにあります。
ーカール・ユング ヨブへの答え 第659項
The reason for evil in the world is that people are not able to tell their stories.
-Carl Jung、Answer to job . Para 659
パラドックス
The title of the 84th chapter is: "How the mind which thirsts for the vision of heavenly things, must gather itself inwards.”
"He who languishes for the vision of heavenly things, he who sighs for experience of the divine, must learn to collect the scattered of Israel, must strive to find the roving of the mind, must accustom himself to be at home in his innermost and to forget everything outside."
It is in our own body that we must search, not outside, but today everyone is convinced that it is outside. ~Carl Jung, Modern Psychology, 8 Nov 1940, Para 22
The Meditation of Mount Meru:
第 84 章のタイトルは、「天上のもののビジョンを渇望する心は、どのようにして自分自身を内に集めなければならないか」です。
「天上のものの幻視を求めて苦悩する者、神聖な体験を求めてため息を吐く者は、散り散りになったイスラエルの人々を集める方法を学ばなければならず、心の放浪を見つけるよう努力しなければならず、自分の心の奥深くにくつろぐことに慣れなければならない」 外のすべてを忘れるために。」
私たちが探さなければならないのは外側ではなく、私たち自身の体の中にありますが、今日では誰もがそれが外側にあると確信しています。 ~カール・ユング、現代心理学、1940 年 11 月 8 日、パラ 22
メル山の瞑想:
キリストの冥界下り
「根が地獄に達しない限り、木は天国に成長できないと言われています。」-CGユング
自分の心を見つめることができて初めて、あなたのビジョンは明確になります。外を見る人は夢を見ます。中を見る人は目を覚まします。
カール・ユング
「誰もが世界を変えようと考えるが、自分自身を変えようとは誰も考えない。」— レフ・トルストイ
“Everyone thinks of changing the world, but no one thinks of changing himself.”
― Leo Tolstoy
今日の人類は、偉大な宗教もさまざまな哲学も、世界の現状に直面して必要な安心感を与えてくれる強力な生命力に満ちたアイデアを提供していないように見えるという事実を痛感している。 仏教徒が何と言うでしょうか、私は知っています。人々がダルマの「高貴な八正道」にのみ従い、自己に対する真の洞察を持っていれば、物事はうまくいくでしょう。 クリスチャンは、もし人々が神への信仰を持っていれば、より良い世界が得られるはずだと言います。 合理主義者は、人々が知的で合理的であれば、すべての問題は対処できるだろうと主張します。
問題は、彼らの誰もこれらの問題を自分で解決できないことです。 クリスチャンはよく、かつて神が語ったと信じられているように、なぜ神が自分たちに語りかけないのかと尋ねます。 このような質問を聞くと、いつも、神は昔はよく人々に姿を現したのに、今では誰も神の姿を見ないのはどうしてなのかと尋ねられたラビのことを思い出します。 ラビは「今では、十分に頭を下げることができる人はもういません」と答えました。
この答えは的を射ています。 私たちは主観的な意識に囚われ、巻き込まれているため、神は主に夢や幻を通して語られるという昔からの事実を忘れています。 仏教徒は無意識の幻想の世界を無益な幻想として捨てます。 キリスト教徒は自分自身と無意識(夢や幻)の間に自分の教会と聖書を置きます。 そして、理性的な知識人は、自分の意識が精神全体ではないことをまだ知りません。
C.G.ユング
Man today is painfully aware of the fact that neither his great religions nor his various philosophies seem to provide him with those powerful animating ideas that would give him the security he needs in face of the present condition of the world. I know what the Buddhists would say: Things would go right if people would only follow the "noble eightfold path" of the Dharma, and had true insight into the Self. The Christian tells us that if only people had faith in God, we should have a better world. The rationalist insists that if people were intelligent and reasonable, all our problems would be manageable.
The trouble is that none of them manages to solve these problems himself. Christians often ask why God does not speak to them, as he is believed to have done in former days. When i hear such questions, it always makes me think of the rabbi who was asked how it could be that God often showed himself to people in the olden days while nowadays nobody ever sees him. The rabbi replied: "Nowadays there is no longer anybody who can bow low enough."
This answer hits the nail on the head. We are so captivated by and entangled in our subjective consciousness that we have forgotten the age-old fact that God speaks chiefly through dreams and visions. The buddhist discards the world of the unconscious fantasies as useluess illusions; the Chritian puts his Church and his Bible between himself and his unconscious; and the rational intellectual does not yet know that his consciousness is not his total psyche.
C. G.Jung