今年、戦後70年を迎えました。
テレビなどでも、“戦後70年”の特番を組んで、様々な角度で当時を振り返って放送されていました。
中でも印象的だったのが、大戦中の日本軍の“銃”がアメリカで“今”人気が高い!というのをやっていました。
戦時中、日本軍と戦ったアメリカ兵のお土産が、日本兵が身につけていた物だったようで、中でも“拳銃”はいいお土産になっていたようです。
だから今もなお、アメリカには日本軍の銃コレクターがおり、人気の商品だと紹介されていました。
お土産って・・・
かなり複雑な心境でもありましたが、一つの興味が湧いたのも事実です。
理由は、「その拳銃を日本兵の遺族の元へ返そう」という動きがあり、中に名前がフルネームで書かれていた物があり、その遺族を探していました。見つかったかは分かりませんでしたが、意外な一面を捉えた“戦後”だと思って見ていました。
うちのじいちゃんも戦死です。
そのテレビをお見てから、うちのじいちゃんを探してみたくてならないのですが、方法が分かりません。
そんな話しをしていたら、母親がこんな物を出してきました。
山口県の戦没者やそれが祀ってある忠魂碑などの資料です。何でも、戦後50年の時にこれを県で作ったらしく、遺族会の方々が購入したようです。
分厚すぎて、探すのに時間がかかってかかって…未だにどのページにあるのかが不明です。
でも、よくよく考えてみると、ここに載っている方々は皆、戦争で亡くなった方たちです。
凄い人数です!そっちの方に身震いがしました。
戦争にまつわるお話を、婆ちゃんが生きていた頃によーく聞かされて(当時は)いましたし、人間魚雷の回天基地にも行きました。もちろん原爆ドームや資料館、知覧特攻隊の鹿屋基地にも。
話しを聞いたり、資料館で資料を見たりしたけれど、この山口県戦没者名簿は独特な重みがありました。
前職の時、ある男性から大変お叱りを受けました。
それは、第二次世界大戦の時の病気の治療法の話しをしていて、それについて「第二次世界大戦と言うな!大東亜戦争と言え!」と。軽い気持ちで話しをしていたつもりもないのですが、実際に戦争を経験された方からすると、譲れないところだと気がつきました。
その方の話しをじっくり聞いてみると、人間魚雷回天の乗組員で、特攻隊の方でした。
「いつか…いつか…出撃命令が出されるのは…」という気持ちの毎日。ある日、その方の属する隊の隊長などの仲間に出撃命令が出されたようです。そして、出撃命令の出撃日がその方にも出されました。それは8月16日!そう、終戦の次の日が出撃日でしたが、前日に終戦を迎え、出撃が取り止めになったのです。
しかし、その方は「残ったことに対しての罪悪感がものすごくある!隊長や仲間の何人かは出撃しているのに、ワシが生き残っていいものか~!ワシも死なせてくれぇ~!」と言う気持ちでずっと過ごされて来られたようです。
だからこの方は、「戦争の事に対して話したくもないし、戦争の話に対して“感動”したなんて言ってもらいたくもない!」とも言ってられました。実際、叔母も同じように「戦争の事は思い出したくないから、話しもしたくない!」と言って、未だに話してくれません。
戦争体験者の方は、8月15日をどう思っているのでしょうね。この体験を後世に伝える事の重要性はあると思いますが、体験者の方は思い出したくない“過去”なんだろうな~と、感じました。両親は、戦争映画が大っ嫌いです。美化し過ぎだからという理由です。
平和が一番です。こういった戦争を二度と繰り返さない。そう願うばかりです。
じじいがどこで寝ているのかを少しずつでも探してみようと思います。
合掌
テレビなどでも、“戦後70年”の特番を組んで、様々な角度で当時を振り返って放送されていました。
中でも印象的だったのが、大戦中の日本軍の“銃”がアメリカで“今”人気が高い!というのをやっていました。
戦時中、日本軍と戦ったアメリカ兵のお土産が、日本兵が身につけていた物だったようで、中でも“拳銃”はいいお土産になっていたようです。
だから今もなお、アメリカには日本軍の銃コレクターがおり、人気の商品だと紹介されていました。
お土産って・・・
かなり複雑な心境でもありましたが、一つの興味が湧いたのも事実です。
理由は、「その拳銃を日本兵の遺族の元へ返そう」という動きがあり、中に名前がフルネームで書かれていた物があり、その遺族を探していました。見つかったかは分かりませんでしたが、意外な一面を捉えた“戦後”だと思って見ていました。
うちのじいちゃんも戦死です。
そのテレビをお見てから、うちのじいちゃんを探してみたくてならないのですが、方法が分かりません。
そんな話しをしていたら、母親がこんな物を出してきました。
山口県の戦没者やそれが祀ってある忠魂碑などの資料です。何でも、戦後50年の時にこれを県で作ったらしく、遺族会の方々が購入したようです。
分厚すぎて、探すのに時間がかかってかかって…未だにどのページにあるのかが不明です。
でも、よくよく考えてみると、ここに載っている方々は皆、戦争で亡くなった方たちです。
凄い人数です!そっちの方に身震いがしました。
戦争にまつわるお話を、婆ちゃんが生きていた頃によーく聞かされて(当時は)いましたし、人間魚雷の回天基地にも行きました。もちろん原爆ドームや資料館、知覧特攻隊の鹿屋基地にも。
話しを聞いたり、資料館で資料を見たりしたけれど、この山口県戦没者名簿は独特な重みがありました。
前職の時、ある男性から大変お叱りを受けました。
それは、第二次世界大戦の時の病気の治療法の話しをしていて、それについて「第二次世界大戦と言うな!大東亜戦争と言え!」と。軽い気持ちで話しをしていたつもりもないのですが、実際に戦争を経験された方からすると、譲れないところだと気がつきました。
その方の話しをじっくり聞いてみると、人間魚雷回天の乗組員で、特攻隊の方でした。
「いつか…いつか…出撃命令が出されるのは…」という気持ちの毎日。ある日、その方の属する隊の隊長などの仲間に出撃命令が出されたようです。そして、出撃命令の出撃日がその方にも出されました。それは8月16日!そう、終戦の次の日が出撃日でしたが、前日に終戦を迎え、出撃が取り止めになったのです。
しかし、その方は「残ったことに対しての罪悪感がものすごくある!隊長や仲間の何人かは出撃しているのに、ワシが生き残っていいものか~!ワシも死なせてくれぇ~!」と言う気持ちでずっと過ごされて来られたようです。
だからこの方は、「戦争の事に対して話したくもないし、戦争の話に対して“感動”したなんて言ってもらいたくもない!」とも言ってられました。実際、叔母も同じように「戦争の事は思い出したくないから、話しもしたくない!」と言って、未だに話してくれません。
戦争体験者の方は、8月15日をどう思っているのでしょうね。この体験を後世に伝える事の重要性はあると思いますが、体験者の方は思い出したくない“過去”なんだろうな~と、感じました。両親は、戦争映画が大っ嫌いです。美化し過ぎだからという理由です。
平和が一番です。こういった戦争を二度と繰り返さない。そう願うばかりです。
じじいがどこで寝ているのかを少しずつでも探してみようと思います。
合掌