先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

治安維持法⑩ 闘い続け犠牲になった方々を知ろう ! 思いを寄せよう! (読書メモ)

2022年10月03日 07時11分26秒 | 1925年治安維持法

相沢良さん
札幌で労組結成に奔走/拷問受け服役、死去

治安維持法⑩ 闘い続け犠牲になった方々を知ろう !   思いを寄せよう! (読書メモ)
参照「抵抗の群像」第一集・二集・三集 治安維持法犠牲者国歌賠償要求同盟編(光陽出版社)
  「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟(中央本部)ホームページ」http://chian.yokochou.com/
(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟中央版「不屈」)

闘い続け犠牲になった方々を知ろう ! 思いを寄せよう! 
二人の僧侶の紹介

真宗大谷派の高僧・竹中彰元(77歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E5%BD%B0%E5%85%83
岐阜県不破郡垂井町の岩手にある真宗大谷派明泉寺の高僧・竹中彰元は、1937年大多数の宗教者が戦争に協力していく中で「この戦争は侵略であり罪悪だ」「莫大な費用を空費し損である戦争はもうこの辺で止めたほうが国家として賢明である」等の反戦発言を説き、検挙され陸軍刑法違反(造言飛語罪)で有罪となる。しかし、彰元は、警察の追及にも信念を曲げず、本山からも布教使資格のはく奪処分を受けて、ついに1945年にこの世を去った。
 長らく忘れられていた彰元の行動が再び脚光を浴びたのは70年近くが過ぎてから。300ページにおよぶ当時の取り調べの記録が寺でひそかに保管されていた。そこには、事件当時の関係者の証言と共に、彰元の信念も赤裸々に記録されていた。地元の人々や多くの宗教者たちの熱心な運動により、本山はついに彰元の名誉回復に踏み切る決定を行う。彰元が検挙されて、実に70年ぶりのことだった。

曹洞宗の齋藤秀一(31歳9ヵ月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%A7%80%E4%B8%80
齋藤秀一は1908(明治41)年12月24日、山形県山添村(現鶴岡市)の曹洞宗泉流寺に生まれる。地元中学校から駒澤大学へ進学し、1931年3月に同大東洋学科を卒業。大学ではエスペラントを研究精通した。卒業し帰郷して小学校の教員となる。教職のかたわら、児童や青年たちに講演、講習活動を、特にローマ字教育についての研究や実践に力を傾ける。齋藤は雑誌『ローマ字のきかんしゃ』『文字と言語』やエスペラント誌『ラティニーゴ』などを刊行。学校長や官憲から敵視され、しばしば警察に検束(3回)され、小林多喜二が虐殺された1933年には、齋藤は獄に拘留されるまでに弾圧された。当時は共産主義者や社会主義運動家だけではなく、自由主義者も治安維持法違反の疑いで次々と弾圧されていった。日中戦争が全面戦争の泥沼に身動きが取れなくなっていく中で、齋藤は、日中両国民の対立や敵愾心を煽る世論に抗し平和共存を求める「大国民的態度」を提唱する。 

〈今、世の中では国粋主義が幅を利かせているが、外国のことでもよい所はこれを採り、たとえ外国人とでも同じ目的をもつ場合は、これと手をつなぐという大国民的態度がいづれの世にも望ましいのではないか。〉
 
齋藤秀一は中国作家・魯迅の「人類は将来必ずひとつの共通の言語をもつべきである」というエスペラント的な文字改良運動の見識に共鳴し、その影響を受けた人の著述を日本語に翻訳紹介(『支那語ローマ字化の理論』1936年自費出版)。魯迅は最晩年の日記の中で、齋藤秀一による翻訳本を受け取ったことを記している。魯迅没後に、齋藤はすぐさま魯迅の追悼文を発表。1932年に小学校教員を解職され、東北大学図書館に勤務。しかし、その後、治安維持法違反の容疑で検挙・起訴され秋田刑務所に服役。過酷な獄の中で肺結核の病状が悪化し自宅療養となり、病気と衰弱のため1940年9月5日に亡くなる。享年31歳9ヵ月。

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以下、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟  中央版「不屈」等より紹介します。
(2017年度中央版『不屈』等より) 

永村徳次郎(38歳)
https://wakayama.exblog.jp/11466922/ 
1900年熊本市坪井に生まれ、小学校を卒業して坪井郵便局の少年集配人となる。熊本で「労働者懇談会」、熊本水平社、熊本無産者同盟、印刷組合争議など労働運動や社会運動が動きだした。熊本合同労組や労農党熊本支部で永村徳次郎は活動した。のちに熊本市電で車掌となり、仲間たちと待遇改善の闘いをはじめた。市電は「上司に反抗した」と解雇してきたことでストライキに発展した。弾圧と懐柔で敗北。1927年日本共産党に加入。1928年3.15事件の一斉弾圧では、熊本でも数十人が検挙され、徳次郎もその一人だった。言語に絶する拷問を受け、懲役3年6ヶ月の実刑で33年に刑務所を出獄したが、その時はすでに拷問による脳障害を起こし、廃人同様となったまま1938年11月13日、38歳の若さで死亡した。
(『不屈』520号『永村徳次郎の不屈の生涯』梶原貞義著)

筒井泉吉(20歳)
1914年高知県安芸郡和食村に生まれ、野村自動車(高知県交通)で切符売りをしながら、熊本県下で日本労働組合評議会、日本共産青年同盟、全協の活動に奮闘した。また日本プロレタリア作家同盟高知支部に入り、1932年上海の日本陸軍向けに日本共産青年同盟高知支部名による「兵士諸君! 敵と味方を間違えるな」「兵士諸君! 銃をうしろにむけろ」という反戦ビラを非公然で配布。1933年治安維持法違反で筒井泉吉ら29人が逮捕。高知市の水上署で9月19日、拷問を受け、翌20日の朝に亡くなる。監房の壁には筒井泉吉の血書「灯(ともしび)をつぐもの」が残されていた。
(『不屈』519号)

織田秀雄(34歳)
http://www.tankonews.jp/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=8421
1903年岩手県胆沢郡小山に生まれ、小学校教員。全国農民芸術連盟支部結成で水沢署に留置されたことで教壇を追われる。1931年岩手県でプロレタリア文芸団体「岩手共人会」を作る。1932年多数の文学仲間と共に治安維持法違反で検挙され2年の獄中生活がもとで1942年貧困と病気により亡くなる。34歳。
(『不屈』516号)

塩川達次(31歳)
塩川達次は、1908年新潟県北魚沼郡小出町に生まれた。画家をめざした。4.16事件で検挙されたが不起訴。1933年全農北浦地協の書記となり農民の組織化に奮闘。1934年共産党再建運動に関係したと治安維持法違反で懲役2年執行猶予3年の判決。弾圧に屈せずその後も北農民組合県で青年部結成、葛塚(現新潟市)に医療同盟の書記となり、1937年農民運動、無産医療運動への弾圧で検挙、続いて人民戦線事件で検挙。38年新潟地裁で再度治安維持法違反で懲役2年6ヶ月の判決。獄中で重体となり、39年に仮釈放されたが、その3日後には死去。享年31歳であった。
(『不屈』513号)

永嶋暢子(41歳)
https://www.city.hachinohe.aomori.jp/soshikikarasagasu/shakaikyoikuka/bunka/1/5467.html
女性解放運動の先駆者永嶋暢子は、1897年青森県南部町に生まれた。青森県立実科高等女学院(現八戸東高等学校)卒業後、平塚らいてうや市川房江、奥むねおらと交流し、執筆活動を開始。1925年「婦女新聞社」に勤務し、「関東無産者俸給者組合」を結成。翌年常磐炭坑を市川房江らと調査視察。治安維持法下で検挙回数が数十回に及んだ。1938年満州にわたり、運動を続け、1942年9月の第1次満鉄事件に連座して再び逮捕された。1946年1月4日日本人戦災孤児の救援活動中、チフスに罹り亡くなる。
(『不屈』511号)

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(2018年度中央版『不屈』等より)  

加藤和光(35歳)
加藤和光は1898年福井県大野郡上庄村木本の小作の家に生まる。収穫した6割を年貢として地主にとられる不平等な社会の矛盾に怒り、農民運動や政治活動に入った加藤和光は、労農党福井支部で闘い、1928年村当局の不正に怒る村人を応援し、集会や演説会で抗議する加藤和光ら労農党員が検挙される。この弾圧は3.15事件を先取りした弾圧で、釈放された後、加藤は全協福井支部で活動し、また解散命令を受けた労農党に代わる新党結成準備に努力。1929年4.16事件で再び検挙。1933年天皇の陸軍特別大演習を前に、特高警察による全協への大弾圧が計画され、9月58名が一斉検挙。加藤は拷問によって1933年11月5日に殺された。遺体を引き取りに行った弟は一目みて「顔はどす黒く、紫色になった異様な形様から毒殺ではないか」、さらに警察官の「こんな奴には、当然の報いだ」の一言に、警察に殺されたことを強く確信した。享年35歳。
(『不屈』534号)

長谷川テル(34歳)
http://www.peoplechina.com.cn/zrjl/201812/t20181229_800152939.html
エスペランチストで反戦活動家の長谷川テルは、山梨県に生まれ1929年奈良女子高等師範学校内のサークルでエスペラントを学ぶ。1932年長谷川テルら二人が逮捕され、まもなく釈放されるが二人とも退学処分となる。エスペラント学会で無給勤務。『エスペラント文学』創刊に参加。劉仁と結婚。上海で抗日デモに参加。郭沫若と交流・協働。1938年スパイ容疑で郭と共に検挙。香港へ追放。漢口で新華日報に「愛と憎しみ」の翻訳発表。国民党中央宣伝部国際宣伝処対日科で抗日放送に参加。40年重慶でも対日放送に参加。45年「戦う中国で」を出版。46年長女出産。47年チャムスで病死。
(『不屈』532号)

加才信夫(34歳)
秋田の農村で、俳句誌『蠍(さそり)座』を発行していた加才信夫と高橋けん昂が1943年治安維持法違反で特高警察によって逮捕された。加才信夫は結核を患い拘留中に喀血し釈放されたが、1946年34歳で亡くなった。俳句弾圧二人目の犠牲者となった。生誕地の句碑には「南風来るや観音あまた手を持ちぬ」と刻まれている。
(『不屈』529号)

*弾圧された俳人の名誉回復と弾圧に協力した俳人の責任追及を(メールマガジン「オルタ広場」)https://bit.ly/3RTbqUm

斎藤秀一(32歳)
http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp162.html
小学教員、言語学者・エスペランチェスト斎藤秀一は、魯迅とも交流があり、朝鮮・台湾・満州の方言にも注目し、言語差別政策に反対した。秀一は4回目の検挙で秋田刑務所に収監され、肺結核が悪化し釈放されるが、40年32歳の若さで亡くなる。
(『不屈』528号)

詩人尹東柱(ユン・ドンジュ27歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B9%E6%9D%B1%E6%9F%B1
立教大に入学し、その後同志社大学に留学した朝鮮民族詩人尹東柱は、1943年7月京都下鴨警察署に逮捕された。朝鮮独立について友人とした会話が「民族運動の煽動」に当たるなどの理由で起訴され、京都地方裁判所は治安維持法違反で懲役2年の判決をだした。45年2月16日27歳の若さで獄死した。日本が敗戦するわずか半年前だった。1948年尹の遺稿を集めた詩集『空と風と星と詩』が刊行され大きな共感を呼んだ。
(『不屈』527号)

京大俳句事件・昭和俳句弾圧事件
1940年2月の「京大俳句」同人雑誌幹部の逮捕からはじまり、43年12月まで44人が治安維持法違反で逮捕され、うち13名が有罪となった。拷問されて、釈放後間もなく病死した人もいた。戦争や軍国主義を批判する新興俳句作家たちの勇気だった。
「戦争が廊下の奥に立っていた」(渡辺白和泉)
「大戦起るこの日のために獄をたまわる」(橋本夢道)
「戦争をやめろと叫べない叫びをあげている舞台だ」(栗林一石)
(『不屈』526号)

末永敏事(びんじ57歳)
https://www.jiyu.ac.jp/college/blog/ga/62748
内村鑑三の弟子として戦争に反対したキリスト者、米国と日本で結核医療で活躍した末永敏事は医学と医療一筋に生きた。日中戦争に反対し、1938年軍部から戦争協力を要求されるとそれを拒否して敢然と「ここに拙者が反戦主義者なる事及軍務を拒絶するむね申し上げます」と敢然と言い放った。ついに逮捕、投獄、非国民めと責められたまま1945年に東京で死んだ。
(『不屈』525号)

相川春喜(44歳)
1926年第四高等学校(現金沢大学)で全学ストを指導、29年放校処分。上京してプロレタリア文化運動に参加、2回の検挙、31年と32年にも検挙。36年「コム・アカデミー事件」で5・6回目の検挙。1944年「懲罰」召集でソ連国境警備隊へ送られる。相川は秘かに戦線を離脱しソビエトへ逃亡。収容所で捕虜民主化運動を展開。49年帰国し、53年44歳で亡くなる。
(『不屈』524号)

階戸義雄(73歳)
https://chosonsinbo.com/jp/2008/09/sinbo_080908-2/
大阪外語専門学校ロシア語科、1930年天皇制打倒のビラを配布して検挙、懲役2年執行猶予4年の刑で保釈、退学。32年労農救援会大阪支部書記。36年再び検挙、堺刑務所に入獄。重い結核を発症し仮出獄、金沢の郷里で5年間療養し回復した。戦後は電産スト、小松製作所100日ストを指導。とりわけ内灘米軍基地反対闘争指導は全国的大闘争となった。1981年6月死去。享年73歳。
(『不屈』523号)

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(2019年度中央版『不屈』等より) 

田中松次郎(80歳)
1899年に兵庫県姫路に生まれ、木綿問屋、靴下製造の丁稚、ホテルのボーイ、修理船のボイラー掃除、紡績工場の油差、最後は広島で貨物船の火夫となる。外国航路で働くうち貧富の差や民族差別に目覚め、神戸に入港するたびに河上肇の『社会主義研究』を本屋で見つけてはむさぼり読んだ。1924年、田中は仲間を糾合して海員刷新会を神戸で立ち上げる。機関紙「水火夫新聞」を発行し、入港船にオルグし会員は300人を越えた。天祐丸ストライキ闘争があり、海員組合が応援を拒絶したことで刷新会が批判し、刷新会と海員組合の対立が激化し、田中たち刷新会幹部は海員組合から除名された。田中は上海で佐野学に会い、その後モスクワのクートベ(ソ連極東民族大学)に留学した。28年帰国した田中は、横浜で海員刷新会再建で動いていたが、8月に治安維持法違反で逮捕され、懲役7年の刑を受けた。1945年終戦後、海員組合は田中らを幹部として迎え入れた。その後海員組合の大ゼネストがあり、闘いは成功したが、田中ら「中闘派」は本部派によって除名される。1979年亡くなる。
(『不屈』545号)

志多伯克進
http://ryubun21.net/index.php?itemid=13796
1908年那覇市久米町に生まれた志多伯克進。1929年東京で関東自由労働組合の執行委員をつとめ、松本三益らとともに労農同盟沖縄対策協議会を開催。30年沖縄に帰郷、31年1月3日、沖縄教育労働組合が結成され、志多伯は中央指導部の一人になった。2月5日官憲からの弾圧で指導部4人が治安維持法違反で起訴され、志多伯は4年間投獄された。後に志多伯夫人となる大嶺静子は、東京から派遣された布施辰治弁護士の受け入れに奔走していたが当時の事をこう述べている「志多伯は鍛えられているから刑務所に入っても全然まいらない。『獄中通信』でわかりましたが、同志たちを励ますために『琉歌』をつくるんですよ。『おーい大城、おーい真栄田、ちょっと聞けよ』といって、高い壁に向かって大きい声で読むと全部の独房に聞こえる。"闇の楚辺原(刑務所のある地域)に心甘ぐなよ。肝の火を照らし、節をまっとう"  "危なくはあっても乗った船だもの。意地の舵とって、わが島につけよう"  "面影たったなら、花のお便りくださいな。蝶となつて私は、お口を吸いましょう"などの『琉歌』をよく覚えています。
 また刑務所の所長が「君、頑固だね」というと、志多伯は「あんたから佐野、鍋山の転向声明を見せられた時、俺は反対の批判文を書いただろう。あの気持ちはずっと残っているからね」と答えたそうです。とにかく肝の据わったひとでした。」
志多伯が釈放されたのは1934年9月。37年からは横浜鶴見で静子と所帯を持ち、「琉球料理店」を開き、終戦直後からは新宿西口に「琉球志多伯」を、60年には歌舞伎町に「酒禮門」をひらいた。沖縄返還運動など沖縄の運動のパイプ役を果たし続けた。
(『不屈』541号)

原田耕
日本国内で治安維持法適用第1号となった京都学連事件の犠牲者原田耕は、1905年滋賀県大津市北国町に生まれた。大阪外国語学校仏文科に入学し、1924年に磯崎厳(ペンネーム伊藤三郎のちエスペラント運動の指導者)とともに大阪外語社研を組織。25年、関西学生連合会と関東学連は教育テーゼを作成。関東学連は明治学院の清水平九郎が中心で、清水は原田と同じ滋賀出身。討議には野呂栄太郎や後藤寿夫(のちの作家林房雄)らが参加。マルクス・レーニン主義に基づく「私有財産制度を否定」治安維持法で検挙された京都学連事件。原田は禁固1年6ヶ月の刑。26年原田は労農党に入り『労働農民新聞』の編集。29年には日本の中国侵略に反対する「対支非干渉同盟」に参加し活動。29年には反帝同盟日本支部が弾圧により活動停止の状況の時、地下活動を続ける。30年2月に日本共産党に入党するが、その直後に治安維持法で逮捕され、すさまじい拷問と5年の刑を受けて獄中生活。35年出獄後松竹映画に勤め終戦を迎える。
(『不屈』540号)

宮澤弘幸(29歳)
http://miyazawa-lane.com/
1941年12月8日、内務省は特高を総動員して「開戦時における外諜容疑者一斉検挙」の名によるかねてから「スパイ」と内偵していた全国の対象者を一斉検挙。その中に北海道帝国大学工学部学生、宮澤弘幸と同大学英語講師ハロルド・レーン、同ポーリン・レーン夫妻がいた。宮澤とレーン夫妻は大審院を通して「スパイ」容疑を否定し続けたが、宮澤に懲役15年、ポーリンには同12年の刑が下された。レーン夫妻はアメリカへ送還された。この時北海道帝国大学は宮澤やレーン夫妻になんらの救いの手も差し伸べなかった。宮澤は、1945年10月10日にようやく釈放されたが、47年2月22日服役中に侵された病で死去。29歳だった。戦後、北海道帝国大学は、レーン夫妻を英語教師としてアメリカから再び招き名誉を回復させたが、宮澤の名誉回復は全く無視し続けた。2014年、秘密保護法反対と結びつけて北大の責任を追及する運動が大学内外で高まる中、北大はようやく宮澤弘幸の冤罪を認め、今後風化させないことを約束した。
(『不屈』537号)

古川苞(しげる29歳)
1906年小樽市生まれ、旧制山形高校から東大文学部に入学、「東大新人会」「本所柳島セツルメント活動」、また労農党江東支部書記として活躍、28年の3.15事件、29年の4.16事件で立て続けに検挙され、さらに34年共産党東京市委員長として活動中に検挙され、拷問と思想転向の強要にも屈しなかった。ハンガーストライキによりひん死の状態で釈放されたが、35年12月15日家族に見守られ生涯を閉じた。葛飾区高砂の理昌院の古川家墓所には銘板が設置され、「古川苞ここに眠る」と略歴があざやかに刻まれている。また、無産者医療運動の先駆だった青砥・亀有無産者診療所が、古川の父親松柏の資金拠出によることも明らかにされている。
(『不屈』536号)

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(2020年度中央版『不屈』等より) 

田中サガヨ(24歳10ヵ月)
1910年山口県豊浦郡豊田中村(現下関市豊田町)に生まれた。27年に長府高等女学校を卒業後、タイプの技術を取得し、上京し、東大で運動していた兄の影響もあり活動した。33年服部時計店前で特高に逮捕され獄中の身となり、激しい拷問と獄中生活で身体を害し、市ヶ谷刑務所で執行停止され35年4月東大病院分院に入院するも5月14日死亡した。

<チリ紙に書かれた田中サガヨの手紙>
「今又私は捕らわれの身となっております。去年の暮の27日の晩にやられました。御安心下さい。身体はすこぶる達者です。留置所に入る者は全部の人が悪いと言ふのでは決してありません。警察は国家権力といふ絶対権力によってされています。この信念をまっとうする上においては如何なるいばらの道であらふとよしや死の道であらふ覚悟の前です」
(『不屈』558号)

吉田寛(37歳)
吉田寛は、1906年福島県石城郡大野村の地主の家に生まれた。立教大学予科に在学中、社会科学研究会と共産主義青年同盟に加盟。学内で『無産者新聞』を発行し29年に退学処分を受ける。その後常磐炭坑労働組合結成に努力、30年治安維持法で検挙され、起訴猶予で釈放された。その後東京で全協の活動、32年からは北九州で奮闘した。門司の国鉄労働者、八幡製鉄所の労働者、筑豊の炭坑労働者などで産別労働組合の結成に努力した。全協の活動家も数十人に増えた。全協九州地方協議会準備委員会、日本金属労組九州支部、日本交通労組直方機関区分会などが組織された。1932年、潜入したスパイの手引きにより福岡市内で吉田は検挙された。吉田は一切しゃべらない完全黙秘で貫いた。35年懲役5年6ヶ月の判決。熊本刑務所に服役中、結核性腎臓病が悪化し釈放されるも、1944年3月17日37歳の生涯を閉じた。いわき市四倉の円福寺に墓があり、「日本国民と共に不朽解放運動の戦士吉田寛のために」と刻まれている。
(『不屈』557号)

高津正道
広島県御調郡羽和泉村羽倉(現三原市久井町羽倉)の真宗本願寺派南光寺住職の長男として生まれる。18歳から京都の正則学校で住職に必要な科目を修得した。この間、幸徳秋水の「社会主義神髄」を読み魅せられる。1916年23歳で南光の住職となるも18歳新妻多代子とともに上京。9月早稲田大学に入学、雄弁会に属する。20年9月、川合義虎、高瀬清らと「暁民会」を結成し、社会主義運動にのりだすが、大学は追われる。20年社会主義同盟設立に加わる。21年9月検挙。その後暁民共産党事件でも検挙され、禁固8ヵ月の刑。22年日本共産党結成にも関与するが、翌23年ソ連に亡命。2年後帰国し、治安維持法違反で禁固10ヵ月、入獄8ヵ月。(以来逮捕6回、検束110回)。25年福本イズムに反対して共産党と訣別。12月妻が二人の子供を残して病死(妻多代子は「赤潤会」の創立メンバーだつた)。26年労農党に入り、31年堺利彦らと日本反宗教同盟の創立に加わる。36年、山花秀雄、加藤勘十、妹尾義郎らと「人民戦線」「反ファッショ人民戦線の無産政党政治戦線」を期し、労農無産協議会を結成した。37年加藤や鈴木茂三郎らが中心となり日本無産党として結成され、高津も東京都連会長としてこれに参加した。37年人民戦線事件労農派検挙で2年間拘禁、39年保釈、45年8月30日大審院で無罪。戦後は日本社会党の創立に参加。1974年1月9日、80歳で死去。「凍てつく大地にあなたは種子となった」(広島県「解放運動無名戦士之墓」)
(『不屈』552号)

槇村浩(26歳)
https://www.kochi-bungaku.com/747/
槇村浩(本名吉田豊道)は高知市に生まれ、中学でマルクス主義文献を読破。31年の満州事変勃発、中国派兵反対のビラを高知市朝倉歩兵第44連隊兵舎に撒きました。この年「生ける銃架」を発表。日本プロレタリア作家同盟高知支部を結成。代表作に有名な「間島パルチザンの歌」がある。度重なる検挙と拷問により体を壊し、38年9月3日に入院先で亡くなる。享年26歳でした。
(『不屈』549号)

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(2021年度中央版『不屈』等より) 

西村清三(89歳)
西村清三は、1910年に生まれ、1931年に全協日本一般使用人組合京都支部高島屋分会を結成し、ナップ関係の大検挙である8.26事件で弾圧を受け、ひどい拷問を受けた。9.18には日本軍満州占領があり、9月末起訴猶予処分で釈放後の32年に全協日本一般を再建し、新興キネマ争議を闘い、33年全協繊維と同金属組合が関西地方協議会を結成し、京都消費組合の拡大に努力した。同年京大滝川事件の最中の6.20弾圧で84人が検挙され、西村は山科刑務所で3年間服役した。当時左翼前歴者のレッテルを張られた多くの活動家や労働組合員が、最も厳しい帰る当てのほとんどない前線に送られ無残に殺されていった。西村も43年12月から45年8月まで南ビルマ(現ミャンマー)に所属させられ、陸軍の人夫で兵隊扱い受けない重労働の存在としてインパール作戦に行かされた。「靖国街道」とも「白骨街道」とも呼ばれた悲惨な状況で、西村はかろうじて生還した。終戦後も労働運動や文化活動や保育園の理事長を務めるなど奮闘した。1999年に亡くなった。
(『不屈』569号)

市川正一(53歳)
市川正一は、1892年3月20日に現在の山口県宇部市に生まれた。早稲田大学卒業後、読売新聞社などを経て、1920年には共産主義雑誌『無産階級』を発行した。23年1月創立間もない日本共産党に入党。以後最高指導者の一人として活動。29年4.16弾圧で逮捕される。34年12月無期懲役が確定し、網走刑務所に移送される。40年1月劣悪な監獄生活で肺炎を起こし、一時仮死状態となる。千葉刑務所、宮城刑務所と移されるが、すでに歯はほとんどなく、大豆とこうりゃんを手でこねて口に入れた。1945年3月15日53歳の生涯を終える。
(『不屈』563号)

「日本共産党闘争小史」市川正一

西里竜夫
1907年熊本県飽託郡黒髪村(現熊本市)に生まれた西里竜夫は、上海の東亜同文書院に入学。個々の卒業生の多くは日本の中国侵略の手先として中国の各地各分野で働いていたが、なかには日本帝国主義の理不尽な仕打ちや侵略に怒り中国人民と共に闘った人もいた。西里竜夫もその一人だった。1930年西里は上海日報社に入社した。秘かに上海の日本人の中で「日支闘争同盟」を結成して、魯迅など中国側の左翼文化人グループと連携し、「日本軍は撤退せよ」「侵略戦争反対」などの反戦活動を展開した。しかし、31年一時帰国中、スパイの手引きで逮捕され、激しい拷問をされ、懲役1年の服役。非転向で1933年再び上海へ。中国共産党に入党した。再び地下活動で日本軍兵士に呼びかける反戦活動が始まる。日本が南京に樹立した傀儡政権の敵陣深く潜入し動向情報を集めた。しかし、1942年6月ついに憲兵・特高に踏み込まれ再逮捕された。拷問は苛烈を極め、45年7月治安維持法違反および外患罪で死刑が求刑された。しかし、終戦直後の8月23日「無期懲役」の判決で熊本刑務所に服役した。しかし、10月8日には釈放され、12年ぶりにわが家に帰った。60年安保闘争など熊本の先頭に立ち、1987年8月80歳で不屈の生涯を閉じた。(『不屈』563号)
(中国人民と共に闘った人々)
https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/201/201951108.pdf

相沢良(25歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%B2%A2%E8%89%AF
相沢良は、青森県野沢村吉野田(現青森市浪岡)の村医者の次女に生まれた。県立青森高女在学中に秋田雨雀のエスペラント講座に学び、プロレタリ文学を読む。「嫁にもらわれるとか、もらわれていくとか言うのは、女性を品物みたいに侮辱する考え方よ」と妹にもらす。東京の帝国女子医学専門学校に入学した1928年は、中国侵略と日本共産党への3.15大弾圧のあった年。帝国女子医専にも共産青年同盟の班が作られ、良は地下の日本共産党を直接支援する活動の責任者に。30年のメーデーに参加し、停学処分を受け中退。横浜の富士瓦斯紡績保土ヶ谷工場の労働者になり全協の分会を作り、機関紙「赤い富士絹」を発行するなど地道に労働者を組織。1931年検挙され、釈放後の2月に津軽に戻り、日本反帝同盟と連絡を取り「反帝新聞」や「第二無産者新聞」の弘前、八戸、黒石の配布ルートを確立。7月には南津軽郡五郷村北中野青年訓練所の反戦ストライキ(26人検挙)の指導で再び検挙。32年札幌で映画「山本葬」を上映したプロキノ映画館で出会った柄沢(松島)とし子、佐藤チヨらと「和裁教えます」の看板を掲げた秘密の学習会をはじめ、女工らと徐々につながりを持つ。ハイキングや歌声、学習などを企画しながら、フルヤ製菓、丸井デパート、陸軍糧廠の女子労働者を組織し、郵便局や印刷工場にも全協の労働組合を結成。日高地方にもオルグに入り、全協農業分会を組織し始める。33年3月、全協札幌地区創立大会を開き、2月20日の小林多喜二虐殺に抗議した「白色テロに抗し、虐殺に応え、一切の労働条件待遇改善! 戦争反対! 天皇制打倒!」の宣言文を決議。4.25事件で相沢良以下230人が検挙。すさまじい拷問で宣言文を読み上げた地区委員長桶口鶴男は釈放された翌日9月8日亡くなる。
良も特高に木刀で殴り続けられる激しい拷問をうける。良は懲役4年で札幌刑務所に投獄され、転向の強要や誘いもあったが、決して転向はしなかった。重い肺病(エソ)により1936年1月21日仮出獄。「私は生き続けるのよ。生きるために病気と闘っているのにお父さんが弱気になったらだめよ」が最後の言葉だった。28日午前10時、25歳8ヵ月の生涯を終えた。
(『不屈』562号)

伊藤新三郎(81歳)
1913年山形県山口村川原子(現天童市)の農家の四男として生まれた。1929年に始まる世界恐慌と冷害凶作により農村では深刻な状況となった。その頃、全国農民組合山県県連合会の前委員長佐久間谷雄が病気療養のため川原子に来ており、農民の青年を集めて社会科学学習会を開いていた。伊藤はこれに参加し、『資本論』などを学んだ。伊藤は川原子で全農青年支部を結成し、小作争議を闘った。19歳の時、父と兄から勘当され家を出た。31年山形県における戦前最大の農民弾圧「小田島事件」で委員長の佐久間次良ら幹部が検挙された。伊藤は佐久間谷雄の勧めで谷地の全農全国会議派の書記となった。ハケゴ(編んだカゴ)に謄写版を隠し、山に登り、林の中でアジビラを作り闘った。32年12月12日、熱海での共産党弾圧事件(10.10)に関連して山形市の事務所で検挙され、激しい拷問を受けた。拘禁6ヶ月で徴兵検査を口実に「起訴留保・保護観察」処分とされ釈放された。徴兵検査には憲兵と特高が付き添って行われた。その後、プロレタリア科学同盟結成大会への出席で連絡を取ったからと検挙・拷問された。この時の拷問で両ひざが屈折不能とされ生涯苦しむこととなった。1934年伊藤は上京し、関東消費組合事務所の専従となり、38年結婚。太田自動車工場で働き、賃上を求めてストライキを指導し退職。40年に大井の日本化学の軍事工場に入り、ここでもサボタージュ闘争を組織し、品川憲兵隊に召喚された。こうして伊藤は22回の検挙・拘留・拷問を受けた。45年8月疎開していた妻子に会うために帰郷していた時に敗戦を迎えた。戦後も農民運動、占領軍の米の強権供出に反対、原水協、医療生協などの運動を続けた。1994年10月18日死去。81歳だった。
(『不屈』561号)

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(2022年度中央版『不屈』等より) 

阿部和子(75歳)
仙台市出身の1930年東京女子高等師範学校に入学した阿部和子は、2年生の時に「読書会」で『賃労働と資本』を学んだことで20数名と共に逮捕され退学。岩波書店に入社、無産新聞を持っていたと2度目の検挙で初めて拷問を受ける。「鉄の棒で顔や体をぶったり、小林多喜二の映画をみたでしょうが、ももを蹴るのです。蹴るのも10回ぐらいだったらいいのですが、永久につづくのです」「自分が耐えられなかったのは、科学的信念がまだまだ不足で、最後まで絶対的確信を持てるものではなかった」。
仙台に戻り家族に監視されている中で「プロレタリア科学同盟」「プロレタリア作家同盟」の活動に参加。1934年10月宮城県内の左翼運動を壊滅させた9.11事件(この事件で逮捕された高橋とみ子さんは中新田署で虐殺されている)で3度目の逮捕・拷問。保母となった42年11月、4度目の逮捕。知人にあてた手紙「こういう時代になったのだけど、がっかりしないでがんばりましょう」をまだ転向していない証拠だとされ2月まで留置。戦後もひたむきに宮城の保育運動や生活困窮者支援などに奔走。仙台市の乳銀杏(ちちいちょう)保育園の創設者。89年10月31日、75歳死去。
(『不屈』577号)

尾崎秀実(43歳)
ゾルゲと尾崎秀実は、1944年11月7日(ロシア革命と同じ日)に絞首刑にされた。いわゆるゾルゲ事件である。1901年生まれの尾崎は、1926年朝日新聞に入社した。上海特派員となった尾崎は、魯迅やアメリカ人アグネス・スメドレーらと親交を結びスメドレーの紹介でリヒャルト・ゾルゲと知り合う。41年10月尾崎とゾルゲが、治安維持法違反で逮捕され、43年9月ふたりは国防保安法と軍機保護法違反で死刑判決を下された。敗戦の色が濃くなった44年11月7日に死刑が執行された。ゾルゲと尾崎が調べた情報「日本軍はソ連侵攻(北進)はしない。南進(東南アジア侵略)する」は、ソ連軍がナチスドイツ軍を撃破する上で大きな役割を果たし、第二次世界戦争の早期終結に多大な貢献をした。
(『不屈』575号)

永田広志(43歳)
1904年長野県東筑摩郡山形村小坂に生まれ、松本中学(現松本深志高校)、東京外国語ロシア語科に進学、1927年、永田は『弁証法的唯物論の哲学』を川内唯彦と共に翻訳し、36年から38年にかけて戸坂潤も褒めた『史的唯物論』『唯物弁証法講話』『現代唯物論』などの研究書を出版する。永田は31年戦闘的無神論者同盟の結成に参加、コップ(日本プロレタリア文化連盟)の結成にも参画、この年英文タイピスト北川百合子と結婚。32年戸坂潤らと唯物論研究会を設立し、32年日本プロレタリア文化連盟への大弾圧で逮捕され29日間留置。33年プロレタリア科学同盟結成に参加、中央部役員となる。34年から、安藤昌益や中江兆民などの日本思想史の研究にも取り掛かり、『中江兆民の「理論鉤玄」について』、「廃仏毀釈の歴史的意義」などをまとめた『日本唯物論史』を出版。続いて『日本封建制イデオロギー』『日本哲学思想史』を出版。レーニンの『唯物論と経験批判論』も翻訳して37年に出版。この間1936年コムーアカデミー事件で検挙され起訴猶予となるも病気が悪化。1938年には戸坂潤らと唯物論研究会事件で逮捕される。39年病気悪化で保釈。41年一審で懲役3年の判決、第二審でも懲役2年6ヶ月の判決。43年腸結核悪化で刑執行延期の手続きを取り郷里長野で療養。1947年9月7日病死享年43歳。
(『不屈』573号)

情野義秀(せいのよしひで37歳)
1908年山形県米沢にうまれた情野義秀は28年に県立米沢高校を卒業し、29年米沢市に共産青年同盟を作った。30年共青組織ら80余人が検挙、情野は首謀者の一人とされ、32年に懲役2年執行猶予2年の刑で釈放。上京し全農全国会議派青年部書記長となる。33年検挙され、浦和警察署で一週間に渡って厳しい拷問を加えられ、懲役3年の実刑判決で山形市の刑務所に送られた。38年に刑務所を出所し、39年全農全会派の同志・平賀貞夫とともに満州の「興農合作社」に就職した。それから約2年9ヶ月後、情野は関東憲兵隊に検挙され、「満州治安維持法」違反で無期徒刑となり、満州国が崩壊し、日本軍の支配が無くなる45年8月末まで獄中で過ごした。
41年の「興農合作社」事件は、興農合作社を拠点として共産党再建を目指したという理由で50余人が検挙され、情野がその主犯とされた。42年の刑は情野ら5人が無期徒刑、11人が有期徒刑であったが、45年8月ソ連軍により釈放された。しかし、すでに5人が獄死させられている。
(『不屈』571号)

(感想)
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⁂今回ここで紹介できた方々は、
「虐殺された者90人、拷問で獄死・病死1600人余」の
治安維持法による犠牲者数全体の紹介には到底及びません。
1600名を越えるという犠牲者の数、
しかも、犠牲者のその多くがあまりにも若すぎる者たちです。

いかに残虐で悪逆非道な本性・本質の支配者階級であったか(あるか)、
火を見るよりも明らかです。
今後も戦前労働運動の学習の中で少しづつでも学んでいければと思っています。

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(ご
連絡)
「読書メモ」1925年、まだ半ばですが、のっぴきならない課題があるためそちらに集中します。
という訳で、戦前労働運動「読書メモ」は、しばらくの間、
今年中?休憩します。よろしくお願いします。



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