上・東電従業員組合本部ビラ「市民諸君に訴ふ」1926年4月
東電労働者の決起! 関東電気労働組合 1926年の労働争議(読書メモ)
参照
「協調会史料」
「日本労働組合評議会の研究」伊藤晃
・・我々は最後の力を持っているのだ。・・・我々は電気産業の労働者なのだ。我々はあらゆる産業と交通機関の動力の死命を制するスイッチを握っているのだ。だから最後の勝利は我々のものだ。今我々に必要なことはいかなる圧迫にも屈しない為の団結だ。
-1926年東電争議、労働者のリーダー西村祭喜の演説より―
(東電)
「電力界の雄」東京電燈は、1917年から26年までに19社を吸収・合併・買収し独占的に急成長してきた。しかし会社幹部の腐敗と私物化により東電の業績は悪化する。東電は、その危機を労働者の犠牲で解決しようとし、1920年日本電燈との合併時に2,000人、23年には猪苗代水電との合併と関東大震災もあり3,000人もの労働者のクビを残酷に切ってきた。
(月一日の公休など東電の労働者の待遇)
1926年ころの東電の労働者の待遇は、労働時間は10時間から12時間、公休日は原則として一ヵ月1日、退職手当は勤続3年未満はなし、10年勤続でようやく日給300日分。東電の賃金も当時の男性労働者日収の全産業平均や電気業平均と比べても低かった。
(東電労働者の組合結成)
1926年4月、東京電燈株式会社に争議が起きた。原因は、田端変電所内試験室技手*西村祭喜らが「東京電燈従業員組合」を結成しようとしたことに対し、会社が押しつぶそうとしたことにあった。4月15日、会社は労働者のリーダー西村祭喜ら2名をクビにして組合を破壊しようとした。これに怒った労働者は代議員230名をもって正式な組合発会式を行い、これが同時に争議団の結成となった。
(*西村祭喜。1892(明治25)年10月23日岡山県阿哲郡本郷村(現・哲田町)に生まれ、1912(明治45)年苦学を志して上京、独学で電気主任技術試験第4級に合格。1915(大正4)年猪苗代水力電気会社に就職、労働組合の結成に努める。1920年東京本社に転勤となり、1925年東電従業員組合を結成し委員長に就任するが、1926年解雇された。同年関東電気労働組合を再建。以後労働運動界で活躍する。1970(昭和45)年6月17日没)
会社は総力をあげて組合つぶし攻撃をはじめた。職場では組合員一人一人に「組合脱退か辞職願い」の選択を強制的に迫まった。しかし、組合は負けなかった。それどころか東京中各地の変電所、両国工事係、地中線、内、外線などすべての職場で組合支部が結成され、職制を除くほとんどの労働者が立ち上がった。組合支部をあらゆる職場に広げ、その全員を組織すること、これが争議戦術のすべてであった。争議団本部には福島や静岡まで各地の発電所から上京した応援の労働者がつめかけた。
西村祭喜らは日本労働組合評議会の山本懸蔵に指導を求めた。
嘆願書(4月17日)
一、労働組合の承認
二、組合組織を理由にする犠牲者(解雇者)をださぬこと
三、従業員の待遇改善
要求書(4月24日)
一、初任給の値上げ
一、使用中の者に辞令を出せ(東電は試用期間を過ぎても辞令をださず、人夫名義で使用していた)
一、勤続3年未満にも退職手当を支給すること
会社は、組合承認(団結権)に対し、「組合を承認すると団体交渉権も認めることになるから到底承認できない」と強硬であり、一方待遇改善については組合の要求のほとんどを認めた。経済的利益で団結権を買収しようとしたのである。労働者はますます怒った。会社の組合拒否回答を聞いて逆に職場の組織化は加速された。今まで立ち上がっていなかった外線職場の大半が争議団に参加してきたのだ。
(西村の演説の一節)
・・・我々は最後の力を持っているのだ。・・・我々は電気産業の労働者なのだ。我々はあらゆる産業と交通機関の動力の死命を制するスイッチを握っているのだ。だから最後の勝利は我々のものだ。今我々に必要なことはいかなる圧迫にも屈しない為の団結だ。・・・
(会社の弾圧)
ストを辞さずと決意が高まる争議団に対し、ストライキをなにより恐れた会社は、関係各社からスト対策要員を動員する一方、争議団に対しては「公共事業意識」に訴え、ストをやらせないように全力で圧力を加え、4月30日には、「待遇改善の準備はある。ストライキをやるならやれ、その時は全員解雇だ」と最後通牒を突き付けてきた。
(労働者大会の討議)
4月30日、従業員大会会場は、会社が提示した「(組合解散)争議解決金7,500円」を巡って、組合解散かストライキ突入かと切迫した労働者で埋まったが、「お前たち争議団幹部は金で組合を裏切るのか」と会場の半数の労働者が争議団幹部に対し厳しい糾弾の声があがり会場は大変紛糾したが、最後には妥結することが決定された。
覚え書き
一、待遇改善は承認
一、組合は解散
一、西村らの解雇復職は持ち越し(結局は不承認)
一、争議解決費用として7,500円
大正15年6月1日
(関東電気労働組合の創立)
ほどなく西村祭喜らは組合再建に着手し、1926年9月13日には「関東電気労働組合」を秘密裡に結成した。翌1927年1月、1千名解雇問題が起きた時にこの組合は堂々と姿を現した。同年2月12日関東電気労働組合第一回大会が開催された。関東電気労働組合は結成時から左翼労働運動の中で活動した。西村祭喜は1927年4月の漢口でのプロフィンテルン汎太平洋労働組合会議に派遣された日本代表のひとりとなった。