写真・東京市従業員組合機関紙「街頭」1926年
東京市従業員組合争議(その1)3千名の待遇改善運動 1926年の労働争議(読書メモ)
参照
「協調会史料」
「日本労働組合評議会の研究」伊藤晃
一人の東京市清掃労働者の投書
「・・傷をしても充分手当すらできないところは犬よりも劣っているようだ・・・俺達労働組合の目的とする所は、俺達を人間並みに扱ってもらいたいのだ。・・」
1924年5月20日に東京市道路従業員組合が結成(すでに5月1日には東京市電従業員自治会のち「東京交通労働組合」が結成されている)、その後清掃部門も加わり東京市道路従業員組合となり、1926年に「東京市従業員組合」と改称された。弁護士布施辰治が東京市従業員組合の顧問のひとりとなっている。
市従組合結成以来、各支部は人員削減、歩増減額、労災、組合圧迫など熱心に取り組んだ。また各支部は総会や研究会を月に2. 3回は開催した。
1926年1月23日、東京市従業員組合は16項目の待遇改善嘆願書を提出した。
嘆願書
一、賃金3割値上げ
一、退職手当制度の実施
一、仕事中の傷害への保障
一、雨天作業の中止
一、完全な防水服の支給、蓑笠廃止
一、一日9時間労働を超える時間外労働に3割増の賃金支給()
一、浴場の設置
一、兵事関係服役者への解雇反対、徴兵検査などは公休扱いとせよ
一、臨時工、臨時人夫への差別待遇撤廃
一、臨時水撒労働者に解雇手当を支給(夏雇われて秋に解雇される水撒労働者)
一、作業服の改良
一、週休制の採用
一、電気局に準ずる共済組合設置とその従業員管理
一、市よりの低利資金の貸与
一、年度更改時に解雇者を出さないこと
一人の清掃労働者の投書
「・・傷をしても充分手当すらできないところは犬よりも劣っているようだ・・・俺達労働組合の目的とする所は、俺達を人間並みに扱ってもらいたいのだ。・・」
ある道路工夫が言う「・・我等工夫の生活は血と涙の歴史である。不幸と不満は我等の一日の唯一の収穫なのだ。こうした永久的な我らの不幸と不満を救うにはどうしたらいいのか」
工場法では1926年から労災で廃疾で退職する場合は540日分、死亡した場合は葬祭料は別として360日分支払う規定となっているが、市従業員の多くは土木・清掃労働者なので工場法の適用範囲外とされていた。しかも1927年から施行された健康保険法も適用されなかった。
(市民参加の連続演説会)
嘆願書の一つ一つが当時の東京市の労働者が、いかに悲惨な労働条件のもとで働いていたかを実に具体的に証明している。
この待遇改善要求を出した東京市従業員組合は、当初はストライキなどの争議行為は避け、市民に宣伝ビラ10万枚を撒き、各支部で市民向けの演説会を連続して開いた。市民は、深川400人、麻布300人、小石川500人、神田400人、浅草700人と演説会に押し寄せ、同情を寄せた。
(東京市の回答)
5月東京市は回答した。作業服・雨具改善、詰め所改善、浴場設置は認められた。それ以外も改善の意思有りと言明された。
8月8日にも賞与決定標準制定が認められた。定期昇給、臨時工夫の退職手当なども審議中・考慮中との回答であった。賃金値上を市は結局は認めなかったが、退職・公傷手当については「特別給与規定」として9月1日から実現と表明されはしたが、市長の辞任で実現しなかった。
(争議解決と3千人の大組合へ)
組合は賃上げ拒否などに不満を表明したが、9月19日に一応成果ありと運動の一時打ち切りを声明した。組合は1926年初頭には1,500人程度だったが、4月から10月の争議中にかけて倍増し、3,000人の大組合となった。ストライキこそしなかったが、上の機関紙「街頭」にみるように、この絶大なる組織力こそが待遇改善運動の団体交渉の力となったのだ。
(青年闘士会の結成)
1926年秋に東京市従業員組合の中の青年労働者を結束すべく「青年闘士会」(上の機関紙「街頭2枚目」参照)が結成された。翌27年には青年部に発展し、「前衛隊として結成された青年部はあらゆる組合の機関に侵入して組合の決議事項を最も勇敢に敏速に、実行せしめ又は外部より助成すべきである」とされた。
上の機関紙にもあるように「青年闘士会」は週の木曜日と日曜日が研究会とされ、熱心に学習にはげんでいた。先輩青年たち、すごいですね。
(ストライキ決行へ)
1926年12月東京市従業員組合は初めてのストライキを敢行した。市側の組合への敵意から仕掛けられたストだった。(以下次回に続く)。