川崎・三菱造船所争議 殺された常峰俊一の争議団葬
今、私たちはメーデーのデモですら革命歌を歌いはしない
今、私たちはメーデーのデモですら革命歌を歌いはしない。反政府・反自民や、ある政策に反対を言っても安保条約粉砕は叫ばない、まして「反資本主義」「革命」のスローガンなどどこにもない。
1921年川崎・三菱争議団大ストライキ4万もの労働者は、革命歌「革命は近づけり」を高唱してデモをします。このデモの姿は、今、私たちが目にするデモのそれとは次元が違うとしかいいようがない。1921年の労働運動の最大の特徴である「直接行動」、サンジカリズムと呼ばれる。この時労働者が直接行動を爆発させ、「革命」が闘う労働者の魂をあれほどふるわせたものは何か。権力が大杉栄や南葛の同志を殺すほど怖れた大杉や南葛の背後にいるこの巨万の労働者の何がそれほど怖かったのか。
「日本の労働者階級の先進的部分は、この段階ではじめて、一定の大衆的な拡がりをもって、資本主義社会の廃絶が自らの階級的使命であることを認識したのであった」「では、何故、この時期に、労働組合運動が労資協調論からいっきょに『サンジカリズム』に飛躍したのであろうか。戦後恐慌それ自体は運動の『外在的要因』である。しかし、そこで展開された労働者の運動体験、生活経験は単なる外的要因ではない。サンジカリズム理論が運動の『サンジカリズム』化を招いたというより、きびしい官憲の弾圧、容赦ない資本攻勢のもとで惨敗を続け、従来の運動方針の行き詰まりが誰の目にも明らかであったからこそ、サンジカリズムが急速に受容されたと見るべきではなかろうか。」と書く「労働運動思想の変化(二村一夫)」。
そうなのです。私が一番知りたいのは、立ち上がった先輩労働者の「内的要因」なのです。このかんの一連の戦前労働運動学習のテーマです。そして戦前先輩労働者の数限りない勝利と敗北の闘いを知れば知るほど、「巨腕鉄鎖を断つ」先輩たちの気魄と闘いにうたれた私の心の中に謙虚な気持ちが湧き上がる自分に自分が驚いています。とにかく勉強勉強です(年ですから何集何年までできることやら)。
以下、
二村一夫著作集
第一次大戦前後の労働運動と労使関係 ─ 1907~1928 「4 労働運動思想の変化」より
http://nimura-laborhistory.jp/iwanamikoza.html
労働運動思想の変化
「我等の労働運動は決して単純なる金銭問題に非ず。勿論、賃銀問題待遇問題が労働問題の直接刺戟機線(ママ)なるは当然なるも、然も其原動力中心要求は意識的の人間解放であり、人間平等の容認を求むる自覚の絶叫である。資本家の専横と圧迫に対する権利の奪還的反抗運動である。雪辱戦である。生存権の主張だ。生活意志の高調である。我等は奴隷的屈辱的地位を逃れんとするのである(『労働者新聞』第12号、1919.6.15)。」、この「先づ吾人の人格を認めよ」という主張。日本の労働者にとって労働組合は決して単なる「労働力の売り手の組織」ではなかった。これは、一つには組合が労働条件の決定に関して非力であったためであるが、同時に労働者が社会的差別に深い憤りを感じ、また大企業の処遇が非人間的な「人情」を欠いたものであることに強い不満を抱いていた事実の反映でもあった。
「サンジカリズム」
「デモクラシー」に続いて労働運動をとらえたのは「サンジカリズム」であった。友愛会でも、1920年には関東や、関西でも京都地方の活動家の間にその影響は拡がっていった。阪神地方では賀川豊彦の影響が強く、同年10月の友愛会第8周年大会は議会政策か直接行動かをめぐって、関東側と激しく対立した。しかし、三菱・川崎争議の敗北を機に労働運動に対する賀川の影響力は衰え、「サンジカリズム」の全盛時代が到来した。
日本の「サンジカリズム」の諸傾向は、(1)労働組合運動の第一義的目標を階級制度の廃絶に置くこと、(2)普選運動など一切の政治運動の否定、(3)機械破壊など実力行使の容認、(4)知識階級指導者の排斥などである。
注目されるのは、ここでは、ヨーロッパのサンジカリズム理論の核心をなすゼネスト論が欠落していることである。階級社会を廃絶するためには、政党を通じての運動では駄目で、純粋に労働者階級だけの組織である労働組合(サンジカ)の直接行動こそ決定的な意義をもつ、というのが本来のサンジカリズム理論の中心的命題であった。そこでは、直接行動とはストライキ、サボタージュ、とりわけゼネストを意味していた。これに対し、日本の「サンジカリズム」ではゼネストはほとんど問題にされず、かわりに戦闘的少数者による暴力行使が強調され、しばしば、この暴力行使が「直接行動」の名で呼ばれている。本来は、機械破壊等による生産阻害まで含む「サボタージュ」が、日本ではその一形態にすぎない組織的怠業としてのみとらえられ、ついには個人的に怠けることまで意味するようになったことと訳語一人歩きの好一対である。
このような傾向は、もちろん日本の運動が置かれていた状況を反映していた。友愛会の総力を結集した三菱・川崎争議敗北の後で、ゼネストは問題になりようがなかった。これに対し、少数者による破壊は、労働者が機械ではなく意思をもった人間であることを示しうる点で、残された唯一の手段であると考えられた。ただ実際には、よく言われるほど、この時期の争議が破壊を伴なったわけではない。組織的に計画された打ち壊しは21年1月の足立製作所争議でおこなわれたに過ぎない。藤永田造船所、三菱・川崎争議等でも騒擾罪が適用されているが、いずれもデモが取締りの警官と衝突したものであった。ただし、いずれも未遂におわっているが、大阪電燈争議の際は西尾末広らが、三菱・川崎争議では赤松克麿らがダイナマイトによる破壊計画を立てている。彼等は、大杉栄らのアナキストとは対立する立場に立っていたが、労働組合運動の目的を革命におき、少数者の実力行使を是認した点では、明らかに「サンジカリスト」であった。「アナ・ボル対立」のため決裂した「日本労働組合総聯合創立大会」の翌日、1922年10月1日に開かれた「ボル派」の中心・総同盟の第11周年大会は、創立以来の綱領を改正したが、その内容は、まさにサンジカリズムそのものであった。曰く「我等は労働者階級と資本家階級が両立すべからざることを確信す。我等は労働組合の実力を以て労働者階級の完全なる解放と自由平等の新社会の建設を期す」)。
いずれにせよ、日本の労働者階級の先進的部分は、この段階ではじめて、一定の大衆的な拡がりをもって、資本主義社会の廃絶が自らの階級的使命であることを認識したのであった。
では、何故、この時期に、労働組合運動が労資協調論からいっきょに「サンジカリズム」に飛躍したのであろうか。戦後恐慌それ自体は運動の「外在的要因」である。しかし、そこで展開された労働者の運動体験、生活経験は単なる外的要因ではない。サンジカリズム理論が運動の「サンジカリズム」化を招いたというより、きびしい官憲の弾圧、容赦ない資本攻勢のもとで惨敗を続け、従来の運動方針の行き詰まりが誰の目にも明らかであったからこそ、サンジカリズムが急速に受容されたと見るべきではなかろうか。
さらに付け加えれば、友愛会はじめ日本の労働組合が「労働力の売り手の組織」としては非力で、むしろ労働者の地位向上がその主たる関心事であったことが、アナキズム、「サンジカリズム」を抵抗なく受容させた重要な要因であったと考える。友愛会の「地位向上」の要求は、大正デモクラシーの高揚のなかで「人格尊重」「人間平等」の容認を求める要求に発展していったのであるが、これと総同盟の改正綱領「労働組合の実力を以て労働者階級の完全なる解放と自由平等の新社会の建設を期す」こととの間に断絶はほとんど意識されていないのではないか。だからこそ、このきわめて重要な内容をもつ綱領改正がほとんど議論らしい議論なしに成立しているのである。実際、さきに引用した『労働者新聞』(19年6月)紙上の一労働者の発言は、第一次『労働運動』の創刊(同年10月)にあたって、その巻頭に掲げられた大杉栄「労働運動の精神」と論旨において全く同一である。先進的労働者がアナキズム、サンジカリズムを受け入れるのに、さして思想上の「転換」「飛躍」を要したとは思えない。