先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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「帝都暗黒化の陰謀」デッチあげ恐怖の大弾圧、関東電気労組の崩壊。 血戦 ! 東京電燈(東京電力の前身)争議―1928年の労働争議(読書メモ)

2025年02月24日 08時18分14秒 | 1928年の労働運動


「帝都暗黒化の陰謀」デッチあげ恐怖の大弾圧、関東電気労組の崩壊。
血戦 ! 東京電燈(東京電力の前身)争議―1928年の労働争議(読書メモ)

参照・協調会史料
  ・日本労働組合物語 昭和(大河内一男 松尾洋)
  ・日本現代史 6(ねず・まさし)
  ・激動の日本労働運動(島上善五郎)
   
田中反動内閣による3.15弾圧、4.10評議会等解散命令から引き続く闘う労組つぶし攻撃に真っ向から立ち向かおうとした関東電気労働組合と東京電燈(東電)争議!

関東地方で評議会再建の最先端労組だった関東電気労働組合
1928年の3.15弾圧、4.10評議会解散命令の直後から左派労働運動再建に向け死力を尽くす多くの労働組合があった。関東金属労働組合は全国的労働組合の新連合体「全国単一労働組合総聯合関東地方協議会」を提唱し、東京市従、関東皮革、東京合同、自動車従業員組合、関東木材、棒給生活者組合等旧評議会以外の組合の賛成も得て、7月29日、創立大会を本所公会堂で行おうとしたが政府は警察を使い代議員全員を検束し大会も解散命令を受け、たちまち潰された。しかし、左派再建に向けて九州、中部、横浜、東京江東地区などであいついで地方労組協議会が結成された。関東地方協議会の中心を荷った一つが西村祭喜らの東京電燈(東電)争議を闘う関東電気労働組合(1000名)であった。そのため政府や警視庁からは特に狙われ弾圧の集中砲火を浴びた。

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関東電気労働組合小史と東電争議

(奮闘する西村祭喜)
1925年11月東京電燈(東京電力の前身)の東京電燈従業員組合結成に向けて、西村祭喜と林征木らをリーダーとする職場の多くの労働者が動きだした。あわてた会社は西村祭喜らに、「組合は認めない。組合解散か辞職しろ」と脅迫してきた。西村祭喜らは断乎としてこれを拒否した。

(西村祭喜らに解雇攻撃)
1926年4月15日会社は西村祭喜と林征木の組合リーダーの2人を解雇してきた。翌日の4月16日代議員230名の結集のもと東電従業員組合創立大会が開催され、東電労働者は解雇された西村祭喜を委員長に選んだ。総同盟、東京市電自治会、東京市従などが駆け付けた。しかし会社は労働組合を絶対に承認しなかった。4月28日職場の一部がストライキを決行。組合は争議団を結成した。

(会社「全市を暗黒化するストライキ」と挑発キャーンペン)
会社は、「全市を暗黒化するストライキ」と挑発キャーンペンをし、「すぐに争議団を解散しないと組合員全員解雇する」と更に脅してきた。組合は「東電会社は全市を真暗闇にせんとす」のビラを市内全域に三万枚配布して反撃した。会社は「24時間以内の争議団解散、従わない時は全員解雇する」と最後通告をしてきた。

(組合解散)
1926年5月1日メーデーの日、会社が以下の約束をし東電従業員組合は解散を決めた。
①労働条件を改善する
②これ以上組合参加者をクビにしない
③ストライキ期間は出勤扱いとする
④解決金7500円を支払う

(再び決起! 関東電気労働組合の結成)
西村祭喜らは解雇され職場労働組合は解散を強いられた。しかし東電労働者ら電気労働者(電工)は決して屈服しなかった。わずか4カ月後再び決起した。1926年9月13日、西村祭喜らは全関東地方の電工、電力労働者を幅広く組織した産業別労働組合である関東電気労働組合を結成した。勿論東電労働者の多くも馳せ参じた。西村祭喜は再度委員長に選ばれた。1927年2月に東電で963人の大量解雇問題もあり、関東電気労働組合の組合員数は1928年に全関東で千人を数えた。

*西村祭喜 にしむら さいき
1892-1970 岡山県出身。1892(明治25)年10月23日生まれ。1915(大正4)年猪苗代水力電気会社に就職、労働組合の結成に努める。1925(大正14)年東京電燈従業員組合を結成し委員長となるが1926年5月1日に組合は解散させられ、本人も解雇された。1926年9月関東電気労働組合を結成し委員長となり、1927(昭和)2年汎太平洋労働組合会議に日本代表として出席。1928(昭和3)年共産党に入党、3.15事件で検挙(4月釈放)。東電争議で再び検挙、6年間の獄中生活。戦後,日本炭鉱労働組合(炭労)の書記をつとめた。1970(昭和45)年6月17日死去。77歳。
写真・獄中の昭和史


(3.15事件で西村祭喜と林征木も検挙される)
1928年3月15日のいわゆる3.15大弾圧で関東電気労組関係者も西村祭喜と林征木ら6人が検挙された(西村は4月に釈放)。政府の大弾圧に大喜びした会社は、今こそ関東電気労組をつぶそうとしてきた。関東電気労組はこの資本と官憲の攻撃と真っ向から対決した。

(「電気産業労働組合全国協議会」創立大会への解散命令弾圧)
6月10日、東京芝協調会館において三労組(関東電気労働組合、関西電気従業員組合、大阪電気労働組合)の同一産業三労組による「電気産業労働組合全国協議会創立大会」の挙行直前に官憲が大会の解散命令で弾圧(「激動の日本労働運動  島上善五郎」)。
写真・「電気産業労働組合全国協議会第一回議案書表紙」


大会宣言「資本の凶暴なる襲撃に備え、吾ら電気労働者の日常生活を護り、進んで無産階級解放のために闘うのを目標とする」

(東京電燈の三千名大量整理解雇策謀との闘い準備)
東京電燈は、東京電力との合併を機に3千人もの大量整理解雇をひそかに計画していた。その前段として東京電燈芝浦の職場大会に官憲部隊を突入させ、組合員の目の前で組合幹部2名を検束した。会社はただちにこの2人を解雇してきた。関東電気労組は2人の組合幹部と臨時雇用6名の仲間への解雇攻撃と近いうちに予想される3千名大量整理解雇攻撃と対決する東電大争議、8月ストライキを闘うべく必死に準備した。東電職場労働者の討議と決議を重ねた。旧評議会系の全国の労働組合も左派労働運動再建をかけてこの東電争議を総力で応援しようと決意した。これは3.15弾圧から続く田中反動内閣の暴圧攻撃を、職場労働者による大衆闘争の威力でなんとしても跳ね返そうとする覚悟だった。
写真・関東電気労組「嘆願書」



(企業内組合、「現実主義」の東電従業員組合)

1927年11月には、西村らに批判的な「現実主義」を標榜する企業内組合、東電従業員組合も結成されていた。東電従業員組合は、1928年の東京電力との合併に際し、①解雇や不当配転はしない、②労働条件の改善、③福利厚生の改善を要求した。会社は、「合併で解雇はしない」と約束し、東電従業員組合からの労働条件の改善要求にもほとんど応じた。関東電気労組にはムチ、東電従業員組合にはアメという絵に描いたような「鞭と飴」の露骨な分断であった。東電従業員組合は22支部が結成され、5月1日東京メーデーには300人が参加している。6月、関東電気労組は東電従業員組合に対し、職場の不当解雇闘争の共闘を申し入れたが、東電従業員組合は「関電労組とは指導精神と戦術を異にする」と拒絶した。
写真・ビラ「東電従業員諸君」1928.6


(あくまで大衆闘争で闘う)
しかし、大衆闘争の威力こそで闘おうと東電の関東電気労組労働者は決起した。それぞれ分会の職場討議で闘う方針が次々に決議された。深川分会、南葛分会、江東分会、千住分会、浅草分会の5分会を皮切りに25もの職場分会で資本や権力の妨害をはねのけながら職場従業員大会が開かれ、東電労働者の間で力強く闘う決意が固まっていった。ついにあちこちの職場でサボタージュ闘争も勃発した。8月ストに向けて職場の緊張はかつてないほど高まっていった。
写真・職場ビラ

(官憲の暴力による弾圧)
関東電気労組と東電争議団の第一の敵は官憲だった。官憲は、3.15で西村祭喜と林征木ら6人を治安維持法違反で検挙したことでも明らかなように関東電気労組を丸まるつぶす対象として、むちゃくちゃな弾圧攻撃をしかけてきた。東電会社は芝浦職場の中にまで三田警察の制服・私服の警察官を40名も張り込ませた。芝浦の職場大会に官憲部隊を突入させ、ここでも組合員の目の前で組合幹部2名を検束し、会社はただちにこの2人を解雇してきた。

(500名組合員が参加した東電従業員大会への非情な弾圧)
7月31日上野公園自治会館で行われた東電全従業員大会には東電の500名を越える組合員が押し寄せた。官憲は200名の制服、私服警官で、会場の外と中を制圧し、開会のあいさつもしないうちに「解散命令」を発したばかりか、代議員70名をはじめ大会当日だけでなんと100名もの組合員の大量検束攻撃で襲いかかってきた。その日釈放されたのはわずか20名で残りの80名はなんら理由もなく30日以上獄に繋がれた。一挙に関電労組・東電争議団をつぶそうとしてきたのだ。
写真・検束者名簿

(地下にもぐる争議団本部と関東電気労組指導部)
こうして関東電気労組の東電争議は、全面的に官憲との闘いとなり、ストライキが始まる前から、関東電気労組指導部と争議団本部は自らの防衛のためにどうしても非公然とならざるを得なかった。争議団本部と関東電気労組指導部は地下にもぐった。秘密の移動争議団本部を設置し、転々と移動し官憲の検挙や尾行から自らを防衛した。各職場分会も争議団本部との秘密の連絡員を決め、ひそかに本部と連絡を持った。争議団本部はこの秘密移動本部から「指令」「戦線ニュース」「檄」などを次々に印刷して各職場分会に発した。

(東電各分会でも非公然活動が求められた)
地下にもぐったのは東電争議団本部と関東電気労組指導部だけではなかった。各職場、各分会でも同じような組織態勢が求められた。
―1928年7月17日争議団本部から各地区、各分会に出された指令―
一、移動(秘密)本部が設置されたこと
二、各分会は組合名簿を極秘に隠匿しておくこと、官憲スパイの手に絶対に渡さぬこと
三、未組織大衆に組合への加入と争議参加を働きかけること
四、争議資金を積み立てること
五、各分会より二名の報告連絡委員を設けること
六、連絡員は毎日二回本部と連絡をとること
七、各自宅付近の東電の電燈、電熱使用者に対し、本社の醜状を暴露し、従業員への同情を受けるよう努力すること
八、各分会毎にアジテイションをなすこと
九、本社との交渉員は時々交代すること
十、警備隊を作ること

ストライキに突入もしていないにもかかわらず、東電各分会にはこれほどの緊張態勢が要求されていたのだ。

(ゼネストも計画した)
関東電気労組・東電争議団本部と旧評議会系の応援労組は、8月8日ストライキ突入と東電争議勝利に向けてゼネスト方針・計画を立てた。
方針
一、東電
①8月6日に要求書を突き付け、同時に全職場でサボタージュ闘争を宣言する。
②各職場で大衆的宣伝、アジテーションを!
③8月8日に回答を迫り、ストライキに突入する。
④市民大会、会社糾弾会を左派が中心に開催する。

二、応援団の役割
①石川島、市電自治会、市電協働会・・・その他の工場でアジって要求書、嘆願書を突き付け、関東電気(東電)争議へ合流し、暫時ゼネストへと発展させる。
②全運動への常任応援と労資交渉への大衆動員をかける。
③8日か9日に市民大会を開く。
④電気代値下げと電柱撤去運動を起して市民に決起を呼びかける。
⑤「指令」と「檄」を出す事。「闘士を送れ! 基金を送れ! 職場大会を開いて、ゼネストをもって応援を!」を決議せよ!

この計画を察知した会社と官憲が先に大謀略攻撃をしかけてきた。

(田端発電所破壊停電攻撃)
8月1日、田端発電所で突然の停電事件が起き、たちまち会社と警察は田端発電所の関東電気労組組合員8人が犯人だと決めつけ大騒ぎし、すぐに8人を逮捕してきた。完全なでっちあげだった。他にも数か所で突然の謀略停電事故が勃発した。これらもすべて関東電気労組員の仕業とされた。

(会社「帝都暗黒化ストライキ」「組合最高幹部の独断不穏計画」の大キャンペーン)
会社と警察は新聞を使い、「帝都暗黒化ストライキ」「共産党の第一次革命計画」など、あたかも関東電気労働組合と東電争議団が共産党と通じ、不穏な行動をすると8月ストライキに反対する大キャンペーンを繰り広げた。新聞は「組合最高幹部の独断不穏計画」と、おどろおどろしい記事を書き、露骨に組合幹部と一般組合員との分断をはかってきた。西村祭喜は「東京の電燈線を切って革命を起こす計画をした」とでっち上げられ、再び逮捕され、その後6年間も獄に繋がれた。完全な見せしめだった。一般組合員にあの3月の3.15弾圧と恐怖を想起させた。

(1928年8月29日付「労秘第1011号」に見る警視総監宮田光雄の認識) 
「もっか逃走中の西村祭喜、林征木らは密かに・・・送電線の切断など当初の目的を放棄せず・・の風聞あり。・・(組合員が)西村祭喜より『もし本計画が成功すれば第一次革命の導火線たるものなり』との指示を受けたりと漏らした。・・・」

(東電争議団本部指令)
指令(田端変電所事件について) 1928.8.11 関東電気労働組合本部・東電従業員争議団本部
各分会幹事殿
(一) さる31日(又は8月1日)田端発電所の停電で分会の兄弟全員が検束された事件は、明らかに会社が今回の争議を弾圧し、大量馘首を容易にしようとしたための準備とした威嚇政策である。
 即ち、会社はかかる事件を口実に資本家の番犬たる警視庁の暴力的権力を使って全従業員を威嚇する手段として田端の兄弟を犠牲にしたのだ。

(二) 先には従議員大会を官憲のドロ靴をもって蹂躙し各職場から我らの闘士を奪い我らの指導者とみれば片っ端から検束した資本家とその手先たる警視庁は、争議団の闘争が少しもヒルまないのをみて、今後はかかる事件を惹起せしめ。これにかこつけて全従業員を威嚇しもって我らの反抗運動を粉砕せんと企らんで来たのだ。即ち田端の兄弟達に加えられた暴圧、これこそ我々全従業員に加えられた暴圧だ。見よ、田端の兄弟は今や無実の罪に日夜拷問を受けて鉄窓の下に呻吟しているではないか。田端の兄弟を救うことは東電全従業員の任務であると同時にまた大量馘首を防ぎ犠牲者を復職せしめ、待遇を改善せしめる処の争議本来の闘争を最も勇敢に敢行することなのだ。

(三) 田端の兄弟は捕らわれてすでに旬日、嫌疑は立派に晴れているにもかかわらず、警視庁は釈放するどころか、これを口実にして今や暴圧の魔の手を諸君に伸ばさんとしている。会社はその殺人的馘首政策の・・・我々の兄弟を官憲の手に渡しながら、今尚何等の救済手段を講じないのだ。

(四) 今迄多くの我々の兄弟は、会社の設備不完全と過労働強要のために重傷を負い、或いは感電即死した。だが、これがために唯一回でも資本家が捕まったことがあったか。人を殺しても資本家は安全だ。(田端発電所の)機械にちょっと砂が入っていたというので我々労働者はかかる残酷な迫害を受けるのだ。

(五) かくて労働者の利益を守るものは我々労働者だけだ。労働者の団結だけだ。団結の力をあらゆる職場において実際に発揮する行動だけだ。もはや我々は躊躇すべき時でない。

(六) かかる立場から関電各分会は田端発電所の兄弟釈放運動を全従業員をもって大衆的に巻き起こし
 ①一斉に職場大会を開き釈放運動敢行の決議をなし、直ちに実行委員を数多挙げること
 ②主要スローガン
   ・田端の被監禁者を即時釈放せよ
   ・監禁中は欠勤とせぬこと、別に慰謝料をだせ
   ・犠牲者を即時復職せしめよ
   ・待遇の即時改善(八時間三交替即時実施など)
       ・今後は馘首を絶対にしないことを声明せよ
 ③この問題を中心に未組織労働者に宣伝、アジを行い、組織すること
 ④会社、警視庁との交渉
以上

(東京市電の仲間からの応援ビラ)
東電従業員争議を応援せよ!
機関紙においてすでに報告した通り、東電従業員の闘いは今や血のでるような争議がはじまっている。その導火線はこうだ。七月の中旬ごろ電気資本の独占王東電会社は突然六名の臨時従業員を解雇した。会社ではかねがね「東力(電力東京)」と合併の結果、三千人からの従業員を不要になったという理由で馘首しようと狙っていたのが従業員の方には「関東電気」とかその他闘争的な組合が頑張っているので手のつけようがなかった。しかし、今度の社長―政友会系の若尾●八―外数名の責任者が洋行する機会にその留守中にいやが負うでも馘首してしまうと計画したのだ。六名の臨時従業員の馘首は彼等の前哨戦だ。
従業員は承知しなかった。関東電気を先頭に解雇反対の運動をはじめたのであるが、その指導者の柱であった中堅闘士、仲、伊藤の両君を、又々馘首した !  全従業員の憤激はいよいよ承知せず、かねてよりの要求数十件と両君の馘首取り消しを会社へ叩きつけていよいよ闘争を開始したのだ。従業員は今やあらゆる逆宣伝や圧迫にもめげず、血のにじむような闘争を続けている。
しかるに会社はこれに対して何と言っているか。「臨時従業員を解雇するのは当たり前だ。また、会社に反対するものを馘首するのも当然だ」と。諸君、彼等資本家は凡る場合に人道論を唱え労資協調を叫んでいる。しかしながら見よ !!  この事件において彼等のどこに人道があるのだ。また労資協調があるというのか。

「東力」と合併した。それで労働者が三千人要らなくなった。社会の世論や労働組合の反対がうるさいから、社長は洋行して、その留守中に馘首してしまえ・・・・・・これが人道か、労資協調か、ようするに彼等はこんな言葉で労働者を欺瞞しておいて、できるだけ多く搾取し、できるだけ長く隷属させようとするに外ならないのだ。
諸君、我々の兄弟であるこうした三千人の人達がもし失業者として街頭に放り出された場合はどうなるか。その人達が直ちに生活に困ることは勿論だが、又我々に於いても、我々電気労働者の予備軍が増えるのだ。即ち我々の首のすげ替えがたやすくなるのだ。
結局この人達の問題は、又こうして我々の問題に通じて来る。我々があくまでもこの争議を応援しているのも従業員諸君をどうしてもかたせなければならない理由はここにあるのだ。この争議の勝敗は東電従業員だけのそれではない。我々全電気労働者の勝敗になるのだ。
我々はあくまで、この闘争を我々の闘争として応援せねばならぬ。而して最後まで勝たしめよ ! これこそ我々電気労働者の任務だ。
昭和三年八月六日
東京市電従業員協働会本部

(官憲の尾行と争議団秘密本部の発覚)
組合幹部と争議団員への官憲の尾行は執拗に行われ、ついに争議団移動本部が発覚され組合幹部がねこそぎ検束された。この弾圧と「帝都暗黒化ストライキ」「組合最高幹部の独断不穏計画」の大キャンペーンに多くの分会役員が動揺した。ついに8月ストライキは不可能となった。大喜びした会社は、8月14日、「不良分子を解雇する」と組合員24名を一気にクビにしてきた。

(職場の動揺)
会社と警察による「組合最高幹部の独断不穏計画」「帝都暗黒化ストライキ」の大キャンペーンと争議団幹部の一斉検束は各分会役員に大きな動揺を与えた。各分会に組合脱退の動きが拡がった。争議団本部は、「強制的武装解除(組合脱退)に反対せよ !    二十四名の犠牲者を見殺しにするのか!」「ブル新聞の悪煽動に乗るな !」と組合員に訴えた。

(争議団本部のビラ)
強制的武装解除に反対せよ ! 二十四名の犠牲者を見殺しにするのか!
支配階級はあらゆる権力を動員して我々を蹂躙しようとした。検束拘留拷問は当たり前の事のようにやられ、新聞紙を買収して「帝都暗闇陰謀団云々」と逆宣伝はおろか組合員の私宅に深夜押し入り、何も知らなぬ婦女子をさえも脅迫する等警視庁と会社は完全に一つとなって言語に絶した暴圧ぶりだ。しかも奴らはそれでもあきたらずについに、俺達の武装解除(組合脱退)を要求して来たのだ。俺達から武器をみんな取り上げておいて思いのままに細工をやろうという会社の腹だ。
見よ ! 今迄俺達の最前線で働いていた闘士を24名も首切ったではないか。勇敢な24名がいたのではかならずやらなければならない大量馘首の邪魔になるからだ。
関東電気の勇敢な闘争のために、奴らは一時大量馘首をひっこめなければならなかった。
しかも俺達の目を誤魔化すために毛ほどの待遇改善をやっている。それも俺達の果敢な闘争があったからこそだ。
全職場の兄弟達 ! 俺達は当面こう叫ばなければならなぬ。
 
 脅迫的武装解除に抗して関電を守れ !
 二四名の即時復職を迫れ !
 大量馘首の準備をせよ !
1928.8

(雪崩を打って大量脱退-関東電気労働組合・東電争議団崩壊)
8月15日、13の分会が関東電気労組・東電争議団からの脱退を表明し、新組合「東電現実同盟組織準備会」を結成した。静岡、茨城など各地方支部も相次いで組合脱退の決議をあげた。

田中反動内閣による3.15弾圧、4.10評議会等解散命令にひき続く、露骨な警察権力による闘う労働組合、関東電気労組・東電労働者への弾圧の結果であった。関東電気労働組合・東電争議団は崩壊した。

以上

*追
旧評議会大阪電気労働組合の態度転換表明
日本労働組合評議会大阪電気労働組合は、1927年4月24日の第八回大会において、「組合主義的経済闘争からゼネストの政治闘争への方向転換」の闘う方針を決め、そのために同一産業の三労組(関東電気労働組合、関西電気従業員組合、大阪電気労働組合)が先頭にたち、強固な産業別労働組合「全国電気産業全国協議会」を創設しようと提唱している。しかし1928年6月10日の関東電気労働組合が中心になって準備した「電気産業労働組合全国協議会」結成大会が官憲によって潰された。この時本来同志であったはずのこの旧評議会系の大阪電気労働組合は、「電気産業労働組合全国協議会」結成大会前日6月9日の大阪電気労働組合第九回大会において、下のような態度転換表明を決議している。

 声明「(過去の)過激なる運動方針の過誤を認めるとともに将来我が国情に即し、穏健着実に運動を進むべき」旨を朗読し、満場一致これを承認可決した。
 緊急動議「将来絶対に(元評議会のような)左翼団体に加わらない」と満場一致で可決した。
(協調会史料・「大阪電気労働組合第九回大会1928年6月9日」


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