写真・兵庫県鳥飼争議の裁判所の立入禁止公示札(1923.6.1)
不屈の大衆闘争、笠寺小作争議 1923年主要な小作争議① (読書メモ―「労働年鑑」第5集1924年版大原社研編)
不屈の大衆闘争、笠寺小作争議
愛知県愛知郡鳴海町の『笠寺小作争議』は、1919年(大正8年)以来続いていたが、ついに1923年(大正12年)3月9日名古屋地裁の仲裁で解決した。
鳴海町の小作農民は約630家、地主は約60家であった。不作の年の1917年(大正6年)、同町の小作農民一同は端泉寺に集合し、小作料の2割~3割の引き下げを地主側に要求した。地主側は当初は拒絶したが、1918年(大正7年)大地主の倉本家が1割7分の値下げに応じたので、他の地主も仕方なくこれに習ったが、農民は「2割5分」引きを主張し、拒絶された場合は「土地返還の他に方法はない」と宣言した。しかも、この年は「米騒動」の年であった。同町の米屋と主だった5・6の地主の家々も農民の襲撃を受け、同町の小作農民の中にも同町の「米騒動」の騒擾罪に問われ罰金刑を受ける者もあった。この年は各地主が「米騒動」の脅威の前に最低2割、最高5割引きとして終った。
1919年(大正8年)24家の地主が「尚農会」という地主組合を結成し反撃にでてきた。この年も年貢の引下を要求してきた約600家の小作農民に対して、地主組合は、その要求を拒絶したばかりか、小作料の納米をしない小作農民に対して「土地返還」を迫り、その田んぼに縄張りをして小作農民が耕作できないように暴力的対応をしてきた。翌1920年(大正9年)には、農民の米60俵を差し押さえし、名古屋裁判所に「請求訴訟」までしてきた。
京大教授雉本郎造法学博士が同笠寺村鳴尾出身であることから、農民は急遽京都に出向き応援を求めた。雉本郎造博士は現地に出向き、地主側に「小作人には永代小作権がある。このままでは地主が不利になるから今のうちに小作人の要求通りに解決したほうがいい」と説得したが、地主は「こちらには3年あるいは5年の借地契約があるから心配ない」とまるで聞く耳を持たなかった。地主たちと袂を分かった雉本郎造博士は、地主たちに向かって「今日の味方は明日の敵である」と叫び、その日のうちに笠寺村西来寺の境内に数百名の小作農民を集め「小作人は権利を主張し、あくまで地主側と対抗すべき」と大演説をし、小作農民は地主を反訴した。
小作農民は公判の度に2・300余名も傍聴に押しかけ示威行動を繰り返した。1921年(大正10年)には、鳴海小作組合も結成された。20年21年と小作料は未納だった。地主側は数年の間全く小作料の収入が絶え動揺も起きた。24名の地主組合側は、営農夫45名を雇い新たな土地を借入、機械化の稲作を始め小作農民の自滅を待ったが、この事業は損失を生み大失敗に終わった。
その頃、地主組合に入らなかった小地主と寺の中で次々と小作農民側と和解するものが生まれてきた。その数は50余名にも及んだ。
1923年3月9日、ついに小作農民590余名と地主組合24名の和解が成立し、小作料の3割引きから5割引きが実現した。天下の大小作争議が満4ヵ年にして解決した。頑張り抜いた小作農民600家族の団結と不屈の大衆闘争による勝利だった。