プロレタリア作家小林多喜二の遺体(拷問の跡)
治安維持法⑧ 特高警察 (読書メモ)
参照 「治安維持法小史」奥平康弘 岩波現代文庫
「証言 治安維持法「検挙者10万人の記録」が明かす真実」NHK「ETV」特集取材班
「特高警察」萩野富士夫(岩波新書)
1、「特高警察」(特別高等警察)の組織
1911年に誕生した特高警察(特別高等警察)の司令センターは、内務省警保局保安課であり、「庶務・文書、左翼、右翼、労働・農民、宗教、内鮮、外事、調査」の8係からなる。海外に海外駐在事務官を派遣し、釜山にも警保局朝鮮派遣事務所を設置した。1935年に入省した左翼係の小倉謙は、戦後警視総監になる。
特高警察官は、全国で約8300人におよぶ。これ以外に地方費による各県の特高警察専任の警部補・巡査部長・巡査が多数存在し、1万人は超えていた。戦時期の国内警察全体の人員は9万5千人前後であり、その1割以上が特高警察であった。ちなみに有名な「横浜事件」を引き起こした神奈川県の特高警察の数は、戦後直後の特高解体時の罷免者数は173人である。
左翼、労働組合などの弾圧以外の特高の日常活動としては、「要視察人名簿整理」、「朝鮮人一斉取締り」、「落書き一斉取締り」、「発禁出版物一斉取締り」、「不良新聞記者取締り」、「外国人一斉一斉取締り」、「邪教一斉取締り」などで、その中には「非監置精神病者名簿整理」もあった。
2、スパイ制度=特別要視察人視察制度
(特別要視察人視察制度)
政府は「特別要視察人視察制度」で、特高に共産主義者、社会主義者や労働組合員、朝鮮人らの「要視察人(要注意人物)リスト」を作らせ、徹底的に調査・監視・尾行・スパイを行わせた。政党や労働組合などの内部にスパイとして潜り、また協力者スパイを作った。1920年頃から特高の敵視はもっぱら労働運動に向けられ、労働運動の活発な地域に特高警察を強化した。警視庁特高課には「労働係」を設置し、21年あらたに「労働要視察人視察内規」を制定し、労働運動とその指導者を監視対象とした。関東大震災の1923年には、緊急勅令として「治安維持令」を出し、25年の治安維持法となった。1925年治安維持法制定により特高はこれらスパイ制度を更に大がかりに組織化した。その後農民運動、水平社運動や一般市民も監視摘発の対象とされた。
1926年11月段階で特別要視察人は827人、思想要視察人2060人、そして要視察団体は約130を数えていた。こうして特高警察体制が確立された。文字通りのスパイ社会、監視社会となった。
(「外事課」在日朝鮮人への敵視と抑圧)
特高警察の中で日本国内にいる朝鮮人に対する取締りは「内鮮警察」と呼ばれる。1916年「要視察朝鮮人視察内規」が訓令された。1917年に図書検閲と外国人取締の二つの面で特高警察関係の機構を拡大をし、また「外事課」を設置した。1918年ロシア革命を見た内務省警保局長は通達で「露国人と労働者、または特別要視察人および朝鮮人との関係等につき注意方の件」を出す。1920年には「要注意外国人、危険思想抱持者および排日朝鮮人等の視察取締」、21年には「内鮮高等係」が新設された。1928年の「大礼」警備では在日朝鮮人の20万人の名簿をもとに、一斉戸口調査や駅・列車・船舶内での「移動警察」を繰り返した。そこには、「いかに朝鮮人が御しがたくて、信用し難き国民性の持ち主であるか」(大阪府特高課「特高時報」1930年3月)という、ね強い差別と敵視観に基づいていた。
警視庁特高部内鮮課長榎本三郎は1940年5月の「居るぞ! 不逞鮮人」と題する講演で、「不逞鮮人は断固として検挙し、その根絶を期せねばならない」「ちょっと火を付けるものがあれば直ちに燃え上がる可能性が充分にある」と述べた。「内鮮警察」の在日朝鮮人への敵視と抑圧の一貫した抑圧取締り方針であった。
(思想検察)
治安維持法の担い手は「特高」だけではなかった。「思想検察」という司法官僚が出現した。1928年新たに全国14府県に検事26人と書記52人の「思想検事」を配置した。彼らは一般事件は担当せず、もっぱら思想犯罪と研究に従事した。司法省内部に設置された「思想部」の初代書記官に就任した池田克(戦後最高裁判事)は、治安維持法の生き字引と言われた。軍部内においても「思想憲兵」が生まれた。
3、拷問と社会からの排除
特高の取り調べの内実は、実に凄惨なもので、小林多喜二の遺体写真が物語る残酷な拷問が、全国で当然のように行われていた。
(山本宣治の国会での糾弾)
1929年、国会で山本宣治は、3.15事件における拷問の事実を暴露し政府を厳しく追及した。
「鉛筆を指の間に挟み、あるいはこの三角型の柱の上に座らせて、そうしてその膝の上に石を置く。あるいは足を縛って、逆さまに天井からぶら下げて、顔に血液が逆流して、そうして悶絶するまで打っちゃらかして置く。あるいは頭に座布団を縛り付けて、竹刀で殴る。あるいは胸に手を当てて、肋骨の上を擦って昏迷に陥れる。あるいは又生爪を剥がして苦痛を与える、というような実例が至るところにある」(第56回帝国議会衆議院予算委員会)
治安維持法の廃止を訴え続けた山本宣治は、この議会質問の一ヵ月後、右翼により暗殺された。
(社会的排除)
また、治安維持法は刑事処分だけが目的ではなかった。容疑者を逮捕はするが、身柄を長期に拘束し続けるというやり方も圧倒的に多かった。また治安維持法違反で逮捕されると、仮にすぐに釈放されたとしても不名誉な事とされ、教員が教壇から追われるなど社会的地位が奪われるのが当たり前だった。また長期拘留は「転向」に利用された。
(犠牲者数)
治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調査では、犠牲者数を「送検者数75,681人、実刑5,162人、虐殺された者90人、拷問で獄死1600人余、逮捕は数十万人」(第180回国会請願「治安維持法犠牲者に対する国家賠償法の制定に関する請願」)であった。
4、「転向」の強制
思想転向の強制。1935年内務省警保局は「弾圧主義」は維持しつつ「転向」施策を導入した。「転向」、すなわち思想の放棄と運動からの離脱を強要し、「国体」「日本精神」「日本主義」という天皇制讃美の思想と侵略戦争を擁護し、自ら戦争協力に奉仕させる=転向の強制であった。「転向」で最も有名な事件は、1933年の日本共産党の指導者佐野学と鍋山貞親の獄中における「転向声明」であった。天皇主義、日本精神主義讃美へと文字通り「転向」した佐野・鍋山は、こうして刑の大幅な軽減(非転向者が無期懲役、二人は懲役15年)を手にした。なだれを打って「転向」する者が獄中内外で生まれた。「転向」は社会主義者や労働運動家だけではなく、市川房江などの婦人運動家や賀川豊彦ら宗教家や部落解放運動の水平社、作家・文学者・学者にまで至る。また検挙はされなくても社会全体に漂う恐怖の中、多くの人々が「転向」していった。特高は人々の「心」までも支配したのだ。
(「転向」を拒み続けた人々)
しかし、過酷な弾圧と社会的孤立の中でも、「転向」を拒み闘い続け抵抗した実にたくさんの人々もいた。僕ら労働運動の身近な人の名を挙げれば、合法左翼と呼ばれた戦闘的労働運動の東京東部合同労組出身、労働運動指導者で大山郁夫と共に労農党で闘った山花秀雄さんは110数回も獄入りしたが頑として転向を拒否し続けた。また同じく東京交通労組の指導者島上善五郎さんもいる。なにより佐野・鍋山の転向声明が世の中に拡がった時、現場労働者たちは「なんとくだらない」と唾棄したという。勿論小林多喜二や山本宣治もいる。治安維持法犠牲者国歌賠償要求同盟編「抵抗の群像」第一集・二集・三集(光陽出版社)に紹介された尊敬すべき多くの方々、これら先輩労働者の生き方をもっと真剣に学び、歴史的評価を高めねばいけないとつくづく思う。
特高は、1932年頃から、それまでの日本共産党弾圧の集中から次は労働運動弾圧、特に日本労働組合全国協議会(全協)を標的にした。1933年末までに全国で4500人余もの全協組合員を根こそぎ検挙していく。日本プロレタリア文化連盟(コップ)や赤色救援会、日本労農弁護士団などへと弾圧を拡大した。学者、作家、宗教、学生・・・等、それこそ便所の落書きまで、ありとあらゆる人々が取締の対象とされ根こそぎ検挙され獄死させられた。
5、そして戦争へとまっしぐら
さらに1935年から1945年の間、特高は少しでも戦争遂行に妨げになると考えられる思想を持つものを厳しく取り締まるようになった。平和主義者、反戦を主張する者、「戦争をしたくない」という考えの持ち主さえも容赦しなかった。
こうして「日本主義」「国体」の天皇制ファシズム体制を確立し、朝鮮・台湾植民地侵略、中国侵略戦争、ファシズム国家体制の構築、ついには対米英との戦争・第二次世界戦争へと戦争まっしぐらの道へと続く。治安維持法と特高は支配者側の残酷で巨大な武器だった。
6、治安維持法違反の主な弾圧事件
朝鮮共産党事件(1925年)
京都学連事件(1925-1926年)
三・一五事件(1928年)
四・一六事件(1929年)
間島共産党事件(1930年)
大森ギャング事件(1932年)
司法官赤化事件(1932年)
熱海事件(1932年)
岩田義道拷問死(1932年)
長野教員事件(1933年)
小林多喜二拷問死(1933年)
全協大量検挙(1933年)
滝川事件(1933年)
日本労農弁護士団検挙事件(1933年)
野呂榮太郎拷問死(1934年)
大本事件(1935年)
新興仏教青年同盟事件(1936年)
ひとのみち教団事件(1936年)
人民戦線事件(1937年)
第二次人民戦線事件(1938年)
唯物論研究会事件(1938年)
天理本道教団事件(1938年)
日本燈台社事件(1939年)
新協・築地両劇団員検挙事件(1940年)
北方教育・生活学校検挙事件(1940年)
コックス事件(1940年)
救世軍弾圧事件(1940年)
ゾルゲ事件(1941年)
新興俳句運動事件(1940年-1941年)
台湾高雄州特高事件(1941年-1945年)
宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件(1941年)
横浜事件(1942年-1944年)
ホーリネス弾圧事件(1942年-1945年)
創価教育学会事件(1943年)
第七日基督再臨団事件(1943年)
鹿児島きりしま事件(1943年)
セルギイ・チホミーロフ逮捕事件(1945年)