亀戸事件犠牲者の顔写真(中筋宇八の写真は無い)
亀戸事件で殺された10名の若すぎる同志たちよ! (読書メモ)
参照
「亀戸事件 隠された権力犯罪」加藤文三著 大月書店
「亀戸事件の記録」亀戸事件建碑実行委員会編
10名の若き同志
1、「亀戸事件」で虐殺された労働組合員、出生地
川合義虎(21歳)(南葛労働会)長野県小県郡西塩田村(現上田市)
北島吉蔵(19歳)(南葛労働会)秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山(現小坂町)
山岸実司(20歳)(南葛労働会)長野県小県郡大屋町(現上田市)
加藤高寿(26歳)(南葛労働会)栃木県塩谷郡矢板町川崎反町(現矢板市)
近藤広造(19歳)(南葛労働会)群馬県群馬郡元総社村石倉(現前橋市)
鈴木直一(23歳)(足尾銅山・常磐炭鉱労働者、南葛労働会の知人)出生地不詳
吉村光治(23歳)(南葛労働会)石川県石川郡三馬村上有松(現金沢市)
佐藤欣治(21歳)(南葛労働会)岩手県江刺郡田原村石山(現江刺市)
平沢計七(34歳)(純労働者組合)新潟県北魚沼郡小千谷町(現小千谷市)
中筋宇八(24歳)(純労働者組合)出生地不詳
2、人物
川合義虎(21歳)
本名川江善虎、1902年7月18日長野県小県群塩田町(現上田市)生まれ、1907年(明治40年)炭坑暴動で連座された鉱山坑夫を父に持つ、日立鉱山の本山小学校を出て日立鉱山で働く、同僚の北島吉蔵とは親友。1919年日立鉱山に数千の労働者の熱狂のもと、友愛会鈴木文治らが組合運動宣伝に来山した。会社は友愛会参加労働者を残酷に弾圧した。1920年川合は上京し、その足で暁民会に入った。「社会主義同盟大会」会場で官憲の横暴に抵抗し検挙され、5ヵ月間の獄中生活を強いられた。1922年10月「南葛労働協会」が渡辺政之輔と川合義虎らによって結成。その年7月には日本共産党が結成され、翌1923年4月5日に日本青年共産同盟が、中央委員長川合義虎、中央委員高野実ら15名で結成された。それ以後川合義虎は、全世界の青年と連帯する「国際青年デー」を、日本の最初の行動日として9月2日に開催しようと全国で熱心にオルグ活動をしていた。
5月、川合は、山川均の社会主義思想に共鳴した信州伊那の羽生三七らの組織した下伊那自由青年聯盟を訪ね、軍国主義反対のスローガンをあげた「9月2日の国際青年デー」への参加の承諾を得、川合が信州から戻ってすぐの6月5日、日本共産党第一次弾圧で共産党の指導部はほとんど逮捕された。共産青年同盟も高野実など3人が逮捕された。残された川合は、孤軍奮闘し、7月に群馬・秋田でオルグをはじめた。秋田には北島吉蔵も同行した。
川合義虎は、口ぐせのように「われわれはまず思想的に支配階級の教化から独立しなくてはならぬ。労働者の把握せる労働者自身の知識は階級闘争の武器である」と言い、組合員にも、マルクスの学習会、研究会、読書会や労働争議演説会への出席をうるさいほど勧めた。
また、朝鮮問題に対しても「日本の労働階級は、朝鮮植民地の絶対解放を叫び、経済的にも政治的にも民族差別撤廃を主張し、具体的に朝鮮より軍隊の撤去、日鮮労働者の賃金平等を要求し、運動上の完全なる握手と、同一戦線に立つことを、最大急務として努めなければなりません」(朝鮮問題に関するアンケートに答えた川合義虎)と発言している。
9月1日朝は、亀戸の広瀬自転車の争議の件で総同盟本部を訪ねた後、麻布区にある「労働組合」(「レフト」の機関誌)の発送作業をしている最中に関東大震災が発生した。
北島吉蔵(19歳)
1904年3月16日秋田県鹿角群小坂町小坂鉱山(現、小坂町)生まれ。日立鉱山の本山小学校を出て日立鉱山で働く、同僚の川合義虎は親友。1919年日立鉱山労働者は団結と労働組合を求めて決起した。友愛会日立支部だ。しかし、この時の炭坑労働者の切なる声は警官の無情な弾圧で圧殺された。1920年川合義虎の後を追って上京。東京の演説会で親友川合義虎が官憲により検挙され獄に閉じ込められた。この事件は、北島に社会主義と社会革命の大きな自覚を与えた。1922年11月南葛労働会の創設者の一人として不眠不休で活動した。共産青年同盟に加入し、休みを利用しては秋田、信州へとでかけ、農村の青年と都市の青年の団結と反軍国主義宣伝運動にまい進した。
北島が働いていた亀戸の広瀬自転車。震災前日の8月31日広瀬自転車は、工場内の労働者半数もの180名を一方的に大量解雇するという乱暴な攻撃を起こしてきた。広瀬自転車の労働者は一斉に闘いに起ちあがり、北島もその先頭に立ち、代表交渉団の一人に選ばれた。その翌日の大地震。その時広瀬自転車争議に詰めていた亀戸警察署の特高刑事たちが、被災住民を助けることもせずに真っ先に目の前の赤門寺に逃げ込んだのを見て、北島は「卑怯者」と厳しく糾弾した。刑事らは謝罪してすごすごと帰っていったが、3日その刑事ら亀戸警察署検束隊に北島吉蔵は検挙され殺された。検挙される前、震災で空腹に耐えかねた子供たちのために、赤門寺に居合わせた工場長に交渉し、避難民の炊き出しを承諾させた北島。ある婦人は、北島が殺された後、「北島さんが殺される位なら、世の中の良い人は、皆殺されねばなりませんでせう」と語った。
山岸実司(20歳)
1903年長野県小県群大屋町(現上田市)生まれ。貧困のため幼い時一家で上京。小学校は2年まで。12歳で紙屑問屋の小僧に。15歳で旋盤工見習い。不良少年だった頃の1922年、墨田吾嬬町の帝国輪業に勤務していた時、同じ工場にいた川合義虎と意気投合し川合らの研究会に参加し始める。毎夜深夜1時、2時まで読書した山岸は不良少年団との関係を一切絶ち、不良時代に持っていた派手な衣服をすべて金に換えて、その金を南葛労働会結成のために寄付をした。南葛労働会亀戸第一支部長で青年同盟員。勇敢な闘士として南葛唯一の猛将だった。
加藤高寿(26歳)
1897年栃木県塩谷郡矢板町川崎反町(現矢板市)の中農の家に生まれた。14歳から浅草の化粧品店「百助」の小僧となる。新聞配達や自由労働者となりながら立教中学に入り英語学校の夜学へ通う。南葛飾郡千種セルロイド工場労働者だった時、加藤は1919年渡辺政之助らが創設した全国セルロイド職工組合に加入した。それまで大好きだった酒も煙草も一切やめ、給料のほとんどを新人会の機関誌『デモクラシー』を買い求め、セルロイド工の仲間たちに配布し熱心にオルグ活動をして、1920年8月には葛飾の四ツ木地域で約400名ものセルロイド工場労働者を組織し、<全国セルロイド四ツ木支部>を結成した。この発会式は、麻生久、佐野学、赤松克磨らが講師の大野外演説会だった。9月四ツ木地域のセルロイド業界でゼネストが勃発し加藤も参加するもこの闘いは敗北した。加藤ら四ツ木支部の組合員は軒並み解雇された。しかし、加藤はその後も決して労働運動から離れることはなかった。新聞配達をしながらたちまち新聞配達労働者を組織化し、また富士紡ストライキなどを熱心に支援した時は、敵に半殺しに殴られ、蹴られ、血まぶれになって、道路に倒れていた時もあった。
1921年、南葛飾郡吾嬬町足立機械製作所ストライキの機械打ちこわし工場破壊暴動に参加した。40名が逮捕され、加藤は1年6か月の刑で豊多摩刑務所に収監された。監獄を出所後1922年10月渡辺政之助らと「南葛労働協会」(翌年南葛労働会と改称)を組織。9月1日は勤務先の大正鉄板鍍金工場の夜勤明けだった。「南葛の三羽鳥」の一人と呼ばれた共産青年同盟員。
近藤広造(19歳)
1904年群馬県群馬郡元総社村石倉(現、前橋市)に生まれた。19歳で上京し、1922年南葛飾郡小松川の野沢電気製作所に就職。そこの工事長に反抗して解雇されたが、渡辺政之助と川合義虎ら同僚20名労働者の援助で解雇は撤回された。それを機に近藤は労働運動、社会主義運動を学び、南葛労働会に入会。まもなく南葛労働会小松川支部長(亀戸第二支部の統括)となる。失業大会、過激社会運動取締法案反対、メーデー等デモや大小の労働争議と演説会に参加しては検束された。千葉の野田醤油大争議の時は、ひどい腹痛で苦しんでいたのに、ストライキの応援に行って倒れるのなら男の本懐だと言い、仲間が止めるのも聞かず、油汗を流しながら腹痛に堪え、とうとう千葉の野田まで13里を雨に打たれながら歩いて行った。
鈴木直一(23歳)
1900年生まれ。足尾銅山・常磐炭鉱労働者。南葛労働会と親しくしていた労働者。上京した8月末から渡辺正之輔の家に泊まっていて、9月1日には常磐炭鉱争議で知りあった加藤勘十(1919年八幡製鉄所争議指導、鉱夫総連合を結成、総同盟主事、戦後社会党議員)の家を訪ねたが不在だったので、鈴木は、その夜はたまたま川合の家に泊まり、南葛労働会員でもないのに、川合らと一緒に検挙され殺害された犠牲者。
吉村光治(23歳)
1900年4月1日石川県石川郡三馬村上有松(現、金沢市)の貧農11人兄弟の二男として生まれる。12歳で京都ででっち小僧となり、19歳で上京しエボナイト加工の轆轤(ろくろ)工見習いとなる。のち熟練工として吾嬬町請地の水野工場(兄南喜一の経営する吾嬬町南エボナイト工場)で働く。暁民会の研究会に出席し、川合、北島らと知り合い、1922年10月に渡辺政之輔、加藤高寿、丹野セツ、北島吉蔵、相馬一郎らと亀戸で南葛労働会を旗揚げした発起人の一人となる。吉村はゴム関係の化学労働者を組織し、翌年南葛労働会吾嬬支部長となる。吉村は、労農ロシアの救援活動、過激社会運動取締法案反対運動、野田醤油大争議支援などを積極的に取り組みながら、押上の十間橋付近の夜店で、社会主義思想の宣伝と南葛労働会の会員拡大のパンフレットを販売した。9月1日の大震災では町内有志に、吾妻町役場として、着のみ着のままの震災避難民を助けようと水と炊き出しを行い道案内をしようと呼び掛けていた。
(小村井の帝国輪業会社の弟の南厳も終生労働運動家。長兄の南喜一は救援活動から南葛労働会、東京合同労組や共産党の活動に参加。その後転向し1940年に日本再生製紙を設立、後に国策パルプやヤクルトの会長)。
佐藤欣治(21歳)
1902年3月18日、岩手県江刺郡田原村石山(現、江刺市)の貧農の家の次男として生まれた。1920年19歳で上京。吾嬬町の南喜一の経営する南エボナイト工場で働きながら、早稲田大学講義録で勉学。同工場で吉村光治と知り合い労働運動へ。1922年南葛労働会に加入、23年メーデーに参加した頃から、「闘いこそ勤労者の奴隷状態を打ち破る唯一の手段だ」と熱心に職場労働者と団結し、組織化に取り組み、南葛労働会吾嬬支部委員に推挙される。大日本自転車会社勤務。震災時の救護活動の帰路、福神橋付近で、朝鮮人と見誤られ香取神社の軍隊の詰め所に収容された。吉村光治らが軍隊と亀戸署に釈放を求めるも成功せず殺された。
平沢計七(34歳)
純労働者組合。1899年7月14日、新潟県北魚沼群小千谷町(現、小千谷市)に生まれ、日本鉄道大宮工場(現JR東日本大宮工場)で父親と共に働く。そこで文学に触れ、日露戦争に非戦的立場を取った劇作家小山内薫に憧れ小山内宅を訪ねる。20歳徴兵で習志野の近衛歩兵第二連隊に入隊、1914年大島町の東京スプリングに就職。友愛会江東支部に入会。1915年友愛会大島分会を設立、7月には100名で友愛会大島支部を結成。また文学に秀でており、「労働及産業」紙面を労働者短歌投稿で賑わせた。友愛会本部書記となる。1918年米騒動が全国で起こり労働争議も広がり、地元の大島製鋼所でもストライキが勃発し、10月には東京鉄工組合が結成される。平沢計七は亀戸、大島、城東、鶴東の四支部による城東連合会を結成、12月には五の橋館で500人が参加する労働運動演説会を開催。城東連合会には平沢の指導で、倶楽部、図書館、弁論部、文芸部、家庭部、余興部、労働問題研究部、労働争議調停部などの事業部門も創設されていた。
1919年7月の大島製鋼所の争議と久原製作所亀戸工場(のちの日立)争議と21日間のストの敗北をめぐって、友愛会関東大会で平沢計七への弾劾決議があげられ、亀戸支部の渡辺政之輔と東京鉄工組合の山本懸蔵、棚橋小虎らが平沢批判に同調。弾劾された平沢計七たち城東連合会組合員約300人は、1920年10月2日に新たに純労働者組合を結成。友愛会からの最初の脱退。
平沢計七は1921年【技芸員であると同時に観客である】とする労働者劇団を立ち上げる。また消費組合(生協)共働社も組織した。平沢計七は、「資本主義から分離した共同自治の理想社会」の「分離運動」をアピールした。
平沢は1922年、23年とその後も大島製鋼所争議など多くの争議に参加・指導したが、震災前の5月から7月に及ぶ錦糸町の汽車製造会社ストライキでは、反総同盟側で、渡辺政之輔ら総同盟系とはげしく対立していた。震災時は大島製鋼所の争議に関わっていた。
中筋宇八(24歳)
純労働者組合員。1899年生まれ。中筋宇八は3日、大島自警団から朝鮮人と間違えられ亀戸遊園地の詰所に連れて行かれ、平素から過激思想を持っている職工と判断され、亀戸警察署に引き渡され殺された。