『加藤高寿君』亡き同志を憶う 渡辺政之輔 (読書メモー「亀戸事件の記録」)
参照「亀戸事件の記録」(亀戸事件建碑実行委員会発行)
亡き同志を憶う 渡辺政之輔
加藤高寿君
一
加藤高寿君の三十一年(実際は26才)の短い生涯は、そのすべてが反逆の記録である。
(中略)
十四才の時家を離れた君は単身上京し、商人になろうとして、浅草の有名な化粧品店百助の小僧となった。二、三ヶ月経過する中に、純真な加藤君の眼にはいかに商人という奴が狡猾無恥であり、商売という事が丁裁(ていさい)のいい泥棒であるということが段々と解って来た。反逆の子加藤君は遂に商人になれなかったのだ。約一ヵ年ばかりでそこを去った。
二
それから後の加藤君は新聞配達となり、自由労働者となり、社会のどん底の生活をなし、無産階級の体験を積みながら立教中学に入り、正則英語学校の夜学に通った。
(中略)
・・・君には嘘と誤魔化しで固め上げた、ブルジョワ教育の過程を何等の不満なしに順調に平和の中に学ぶことができなかったのだ。教師に反抗し形式一点張りの校則で律し得られない君は、立教四年の時に遂に放校されてしまった。
三
自由労働者の生活は続いた。木賃宿の生活は続いた。悲惨、貧窮、頽廃せるドンゾコの社会に入った君は、遂に君の一生を支配する大きなものを見出したのだ。
君が純血の燃える眼をもって君の周囲を見渡した時に、君の清い眼に映じた事実は何であったか。食うに糧なく、寝るに家なき何千という大多数の人間が、飢と寒さに凍えオノノキ、野犬の如く放浪(さまよい)歩いているのであった。
支配階級の暴虐な道徳はその事実を当然の事とし、神様のお裁きとし運命だとして、悲惨な人達に諦めさせているのだ。従って、多数の人達は耐え得られない不満の鬱憤(うっぷん)を安酒によって慰め、低級淫靡(いんび)な娯楽に享楽し、飢狼の如く生活していたのだ。
この悲惨な事実を見、自己の生活がそうであった時、君は今まで持っていた人生観とか社会観とかいうものをキレイに全部捨ててしまった。刻苦勉励して自分一人が偽りの学問を学び、誤魔化しと罪悪とを積んで何千何万という財産を作り、所謂社会の成功者だなんて新聞に書きたてられたって、それが何の名誉だ、それで本当に自己の心を満足せしめる事ができるだろうか。
彼は遂にその時初めて社会に向かって反逆の血を躍らしたのだ。社会組織の根本の改革こそ人生の意義ある事業だ、青年のなすべき任務だと深く強く考える様になったのだ。
四
耐え得られない満腔の不満と反逆に燃える胸とを抱えて君は同志と時機の来るのを待って、府下四ツ木千穂(ほたね)セルロイド工場に働いていた。僕らが大正八年五月全国セルロイド職工組合を組織しその発会式を挙げた時、君は待っていたとばかり、僕らの組合に加わって呉れた。
当時君は好きな酒や煙草を断然やめ、給料のほとんど全部を投じて、新人会の機関紙であった「デモクラシー」を買い求めて仲間の労働者に配布して宣伝した。八月頃には労空しからず四百人の全職工を立派に組織し得た。そして四ツ木支部の発会式には佐野学、麻生久、赤松克磨の諸氏が来て大盛会の野外演説会をやったものだ。
九月頃にセルロイド産業全体に亘(わた)ってゼネラル・ストライキが勃発した。そしてそれに参加した四ツ木支部は加藤君初め有力な闘士の解雇や、産業の不振で残念ながら一敗地にまみれた。そういう具合でセルロイド工組合も自然解体する様なことになってしまったのだ。
その後の君は又新聞配達となった。そしてヤハリそれでも組合組織に奔走した。しかしながらこの組合は組織準備中に政治家の下廻り共が入り込んで来たり、新聞社の狡猾な戦術に悩まされ、加藤君の折角の努力も水泡となり、神田の青年会館で発会式を挙げると同時に倒れてしまった。
五
その時旧セルロイド工組合の同志は、解雇と工場の全滅で四散してしまったが、その中で僕等は出井紀作君を中心にして五六十人のグループを作って、再挙を計っていた。それを知った加藤君は又喜んで僕等のグループに加わってきた。
大正九年春から出井君の家に起居していた君は、その時分盛んであった、労働問題演説会とか各組合の協議会とかに必ず出席し、ストライキ、示威運動には必ず参加して暴れ廻ったものだ。神田の松本亭で開かれた信友会の演説(会)に出席した時臨官の中止にかゝわらず、演説を続行して罰金五十円を喰った事もあった。富士紡ストライキの示威運動に参加した時は同志の検束を取り戻そうとして、半殺しに殴られ、蹴られ、血まぶれになって、道路に倒れていたこともあった。
大正十年の一月足立工場のストライキにも参加し、泉忠、川崎甚一、望月源次君等と共に戦術を画策し全力を傾けて戦った結果、遂にあの日本の組合史上に特筆すべき、工場破壊の最初の一頁を作った。その討ち入りの時君は草箒(ほうき)に石油を注ぎそれに火をつけて炬火(たいまつ)を作った。暗夜の工場の中の炬火(たいまつ)はどの位同志の活動を便ならしめたことだろう。沈勇と猛進は君の特有だった。
同年二月君は、逮捕され騒擾(そうじょう)首魁として起訴された。裁判の結果は一年六箇月の懲役で、保釈を許されず、未決からそのまゝ中野監獄に入った。
六
大正十年の末から十一年にかけて、ロシアの社会階級戦の実際は、段々と日本に知られてきた。そうして日本の労働運動も今までの様に幼稚な簡単なものゝ域を脱して来た。此の重大な転換期に君は暗い独房の中で厳寒と飢えと過労とで過さなければならない犠牲者であったのだ。彼が一年半の牢獄生活から解放されて社会に出た時には、組合運動の調子は君が獄に入る時とは全然異なっていた。
南葛方面は新しい運動が芽を吹き初めていた。南葛労働会が創立された時君はやはりその創立委員だった。そして君は沈勇、剛毅の反逆児として常に南葛の青年の師表であった。
(『潮流』第二号大正十三年五月、「社会運動犠牲者列伝(二)」)