前田斉泰は頻繁に外国船の接近が伝えられる中で能登の防備状況を視察するため、ペリーが浦賀へ来航する2ヶ月前、嘉永6年(1853)4月4日から約20日間、能登巡視の旅に出た。御供は若年寄・成瀬主税以下約700人の大名行列だ。
しかし視察とともに、社寺・旧家・名勝・名器・あるいは海士の潜水作業や鯨捕りなどの民業、農民の演能を見るという、まことに優雅な観光旅行だった
能登の土地に足を入れた藩主は、初代前田利家以来はじめてであるというから、まことに呑気な話しなわけである。絶えず江戸に目を向けていなければならなかった藩主は当然であったかもしれないが。。
やがて同年6月「黒船が来る」報が金沢にも達し、日本中が沸き返る中で、7月藩は「非常事態宣言」を発した。【武家政権による海防全備】が声高に指令されたのである
藩主の能登巡見は、この趣旨を宣伝するための一大パレードともいうべきものであった
●宿舎にあてられた中の1つである寺院は、参勤交代の本陣に問い合わせするなどして準備していた
※畳の新調・表替え
※細々としたもの新調し準備
●斉泰の供約700人のうち寺院に泊まったのは約30人で、他は周辺の村の民家に分宿した
●藩が持ち運んでいるものもあった。御閑所(便所・場所は指定されている)は用が済んだ後解体して持ち運んだ
●斉泰の食事は料理人が三人同行しているから、寺院では野菜類10品、魚類5品程度、上白米、酒を準備しただけであった
●宿泊所と中休所は炊事用水とその代用水は指定されていた(〇〇の清水・〇〇所有井戸などと指定)
●通過する途中の村に対しては
※日傘や絹の衣類着用禁止
※葬儀禁止
※火葬場など目障りになるものには残らず垣根をする
※農業、猟・漁業、塩焼きなどの稼ぎは通行の際も油断なく励むよう達せられていたが、不敬ないよう、見苦しくないよう道具類の掃除、整理も命じられていた
※猟のための銃は巡見中は取り上げられ管理された
●諸経費はすべて書き出して藩が弁償することとなっており、かつ質素を守るように達せられているが、どうしても町村では競争となり豪華となった