るるの日記

なんでも書きます

前田斉泰の巡見・非常事態宣言趣旨を宣伝するためのパレード

2021-03-23 10:06:44 | 日記
前田斉泰は頻繁に外国船の接近が伝えられる中で能登の防備状況を視察するため、ペリーが浦賀へ来航する2ヶ月前、嘉永6年(1853)4月4日から約20日間、能登巡視の旅に出た。御供は若年寄・成瀬主税以下約700人の大名行列だ。
しかし視察とともに、社寺・旧家・名勝・名器・あるいは海士の潜水作業や鯨捕りなどの民業、農民の演能を見るという、まことに優雅な観光旅行だった

能登の土地に足を入れた藩主は、初代前田利家以来はじめてであるというから、まことに呑気な話しなわけである。絶えず江戸に目を向けていなければならなかった藩主は当然であったかもしれないが。。

やがて同年6月「黒船が来る」報が金沢にも達し、日本中が沸き返る中で、7月藩は「非常事態宣言」を発した。【武家政権による海防全備】が声高に指令されたのである
藩主の能登巡見は、この趣旨を宣伝するための一大パレードともいうべきものであった

●宿舎にあてられた中の1つである寺院は、参勤交代の本陣に問い合わせするなどして準備していた
※畳の新調・表替え
※細々としたもの新調し準備

●斉泰の供約700人のうち寺院に泊まったのは約30人で、他は周辺の村の民家に分宿した

●藩が持ち運んでいるものもあった。御閑所(便所・場所は指定されている)は用が済んだ後解体して持ち運んだ

●斉泰の食事は料理人が三人同行しているから、寺院では野菜類10品、魚類5品程度、上白米、酒を準備しただけであった

●宿泊所と中休所は炊事用水とその代用水は指定されていた(〇〇の清水・〇〇所有井戸などと指定)

●通過する途中の村に対しては
※日傘や絹の衣類着用禁止
※葬儀禁止
※火葬場など目障りになるものには残らず垣根をする
※農業、猟・漁業、塩焼きなどの稼ぎは通行の際も油断なく励むよう達せられていたが、不敬ないよう、見苦しくないよう道具類の掃除、整理も命じられていた
※猟のための銃は巡見中は取り上げられ管理された

●諸経費はすべて書き出して藩が弁償することとなっており、かつ質素を守るように達せられているが、どうしても町村では競争となり豪華となった







一生懸命働いて楽しむ

2021-03-23 09:02:16 | 日記
能登屋どん兵衛の商売は米・塩・日用品など多岐にわたり富を貯蓄した

4代目どん兵衛が1806年に没したあと、嗣子が幼少であったため江戸の瀬戸物屋に年季奉公に行っていた彼が呼び戻され5代目となり、6代目が成人するまで後見を勤めていた

当時5代目どん兵衛は「澗改人」という職にもあり、難破船の処置、港の管理、港徴収なども行う一方「網船本」として漁業に、また塩浜開発なども行い塩業にも進出した

働き者のどん兵衛だが、文化8年(1811)友人と合計4人が4月29日出発~7月11日帰宅するまでの74日間、費用は米5石を費やしたに大旅行をしている

文化8年は浄土真宗の開祖親鸞の550回忌に当たっていたが、どん兵衛ら一行は京都でその法要を見物客することを第一の目的とし、ついでに伊勢・京都・奈良・吉野・高野山などを廻って寺社を参詣し、さらに遠く琴平まで足を伸ばしたのである

これらの旅は宗教的な動機に基づくものであるが、旅ならではの楽しみを味わうことも多かった。京都、大阪で芝居を見物したり、揚弓をして楽しんでおり、各地の寺社の縁起物を買い求めている他、浄瑠璃本なども購入している

近世の庶民は幕藩体制の支配下でがんじがらめに縛り付けられ、ギリギリまで年貢を搾取され、生活を楽しむ余裕などなかったイメージが強いが、近世後期は次第に生活水準も向上し、このような旅を楽しむことも多くなってきたのである