るるの日記

なんでも書きます

前田利常・藩主への厚い忠誠心と、「自分たちはなみの百姓ではない」という自負心を抱かせる

2021-03-22 11:11:02 | 日記
1604年前田利長が創始した「十村制度」は十村組の大組織化が進展する中で農村支配機構としてより充実したものになった

十村役人も藩の末端官僚たるにふさわしい見識と行政手腕を身につけた。小松城にある利常の(隠居したから金沢城でなく小松城か)御側に召し寄せられ、意見を具申したり直接仕事を命じられたり、帯刀を許可されるなどの光栄を受け、藩主に対して厚い忠誠心を持つことになった

その結果、彼らは、自分たちは「なみの百姓ではない」という自負心を持ち、以後、三か国農村支配の最前線に立ち粉骨砕身した

十村役人は職務増大と多様化に対処するため三階級に分けられた

1 無組扶持人十村
一郡に一人。組に入らず郡の十村たちの指揮監督や他郡の御用を勤めた
扶持人十村のうちから特に有能な者を抜擢

2 扶持人十村
組の裁許、郡内他組の仕事に関与することもある

3 平十村
もっぱら組裁許にあたる

各郡に一ヶ所ずつ十村相談所が設けられ、各郡内の十村たちの連絡・寄合いの機関として活用

戦国時代がおわり本格的に領国統治ができるのは三代目加賀藩主前田利常から

2021-03-22 10:42:48 | 日記
前田利常は大阪の陣前後から積極的な領国統治にのり出した

★逃散百姓取締、帰還、高畠売却禁止、徴租規定確立、徴税事務の制度化などの【農村支配体制を整備】

★総検地実施により家臣の知行割り替え、新知行給与、石高に応じた軍役量(家臣が用意する軍事奉仕のための人、馬、武器数)規定もつくられ、【石高制に基づく家臣団組織】もできた

★隠し田、新田を厳しく取り調べ村高に組み入れた=増税

★村と村の境を明確にする作業も行われ行政区間も整備された(村切り)

三国総検地の結果、120万国の石高が確定し、1634年正式に将軍家光から119万2760石の領地朱印状を受け取ることになった

120万石、約2300か村を効率的に統治するため十数か村を組み合わせた十村組と、それを管轄・支配する十村制度も整備されていった

血の徳川化を進め三国統治の基礎固めをした前田利長

2021-03-22 10:13:13 | 日記
1600年、関ヶ原合戦で前田利長は徳川軍に属し、加賀、能登、越中を安堵され領有したが、徳川氏から厳しい監視を受けていた。そして徳川氏との婚姻政策により血の徳川化を進めていった

領国政策では「十村制度」を創始し、三国統治の基礎固めという目標を成し遂げたのち利長は隠居し、弟の利常に封譲り政治の一線から去った

前田利家・領国統治のためにまず村の有力者を傘下に入れる

2021-03-22 10:00:29 | 日記
前田利家は入国早々に両国統治のために、村村の有力土豪を傘下に入れて彼らを活用しながら村、百姓、庶民を掌握していった

利家に協力的土豪を前田家中として武士にとりたてたり、百姓のまま扶持高を給与した。これを扶持百姓という。この扶持百姓は領国統治に大きな役割を果たした。任務は軍事奉仕、諜報活動、年貢などの徴収、農地開発、村の治安維持などなど

豊臣秀吉から信任篤い利家は、秀吉のいる伏見にあることが多かった。1599年利家は秀吉の後を追うように死去

人は主への恩恵の念で喜んで働く・思いきった助成が先(前田利常の改作法)

2021-03-22 09:45:04 | 日記
小松城に隠居中の前田利常は「改作法」という藩政改革を構想していた。そして1651年とうとう着手した

その改革は村と農民経営に対し米・銀等の助成・投資を行う。それをもとに農民は藩主に対して恩恵の念を抱かせ、質素倹約を勤め農事に励む望ましい百姓「改作百姓」を育成する、というものである。まめに働く改作百姓は目一杯年貢をかけても、喜んで皆農事に励むようになるのだ❗️

思いきった助成をテコに倹約節約、農事励む、年貢完済を村村に請け負わせた

1 2000か村を次々に御改作地に指定して

2 耕作にかかる必要経費や耕作期間中の農民が食べる米の補助を毎年春に給付(2割程度の利息をとって秋に返済するが、利息を免除する場合が多かった)

3 農村の借金債務を藩が肩代わりして、敷借米と称して利息徴収つづけたものを元利とも全額免除