るるの日記

なんでも書きます

三年味噌から一年味噌へ

2021-03-24 13:05:36 | 日記
三年味噌といって、作ってから三年たった味噌を昔は食べたが、戦後は一年味噌を食べるようになった

一年味噌は麹が多く塩が少ないので、早く熟成するが長く保存できない。最近は辛い味噌が好まれないので一年味噌になった

原料配合割合
【三年味噌】
大豆一升・麹五合・塩八合
【一年味噌】
大豆一升・麹一升・塩七合

三年味噌になると、味噌桶の表面に白くカビが生える。これをカビ味噌といって食べるのが当然だった。現在は食中毒やガンの発生をうながす毒素があることがわかっているので食用にすべきではない



くじら

2021-03-24 12:45:01 | 日記
この町は漁港も多く、海の幸に恵まれていた。クジラは藩政時代によくとれていたそう(現在も時々店頭にならぶ)

クジラを解体する時に、生きてるクジラを切りながら、肉を塩水につけて生のまま食べると美味であったという

クジラの肉は赤肉と白肉があり、それぞれ料理法が異なる
【赤肉】は薄く切ってスキヤキにしたり、ビフテキ位の大きさに切って、生姜醤油に10分くらい浸けた後、焦げめのつくほどに焼いて賞味した
【白肉】は皮下脂肪層のことで、皮クジラといわれる。これを4センチ幅に切って、小口から薄切りにして、糠をまぶして、よくもんで、水洗いして、水に晒したものを尾羽雪という。尾羽雪を茹でてカラシ酢味噌あえにしたり、味噌汁の実にする。皮クジラをそのまま用いることもある

山の獲物

2021-03-24 12:24:16 | 日記
この町は海岸近くまで山がせまっているので、山の幸にも海の幸にもめぐまれていた

■山の獲物
※鹿
明治の終わりまで山手の村では、鹿が作物を荒らして困るので、槍を持って村人が集まり、鹿狩(シシガリ)をしたという

雪がたくさん積もって表面が凍っているような日にシシガリをする。山の下の方に直径2メーター程の穴を掘っておき、大勢で上から大声をあげて、鹿を驚かして穴に追い込んで捕まえた。肉は皆でスキヤキにして食べた

※イノシシ・タヌキ・ムジナ・テン
捕まえると皮をとり、肉は食用にした。キツネも捕まえたが肉は臭くて不味い。皮は高く売れた

※ウサギ
冬になるとワナを仕掛けて捕まえる。肉は大根、ゴボウ、ネギなどと煮てすき鍋にすると美味

※キジ・ヤマドリ
冬になるとワナでつかまえる。肉は細かくたたいて団子にして、ササガキゴボウと共に味噌汁にすると美味しい

※カタツムリ
別名、ヤマサザエともいい、囲炉裏に入れて焼き、口が開いたら塩を1つまみ入れて食べると美味しい

※マムシ
猛毒をもつので、見つけたら捕まえて口から裂く。強壮剤としてマムシ酒を作ったり、竹串にさして照り焼きにして少しずつ食べた。マムシは頭から尾まで全部が薬になるといわれていた

※ハチノコ
ハチの巣を見つけるとハチノコをとってきて、からいりして醤油で味をつけ食べる。誰でもとりに行ったわけではなく、好きな人だけである

※アカイヌ
昭和40年頃まで食用にした。イヌを食べるのは冬に決まっていて、体があたたまる。捕まえると雪の中に一晩埋めておく。そうすると煮た時に泡が立たなくなるからで、臭いも強いので一度ゆでこぼしてから大根、ネギなどと煮込む。普通の家では料理しにくいので、山の炭焼小屋などに集まって、家の者にはウサギの肉だといって鍋を囲んだ

※牛・馬
病気で死んだ牛・馬は危険だから食べないが、怪我をして死んだものは食用にした
ウマイケバへ皆で牛や馬を運んで行くと、検査の警官が食用にしないように石油をかける。警官が帰ってから裏返して石油のかかっていないところを切りとって、皆で分けて持ち帰った


占領軍が実施した農地改革のおかげで、小作の人びとの貧しい生活は改善された

2021-03-24 11:48:12 | 日記
戦時中、戦後の時代は、とれた米は供出で出してしまい、農家でも米の配給を受けていたので食糧難のひどさは都市と同様であった。倉の中を探して全部供出させられたという

太平洋戦争後、占領軍によって行われた農地改革の結果、小作の人びとの貧しい生活も改善され昭和27、8年頃には食糧難も解消して、みんなが白いご飯を三食とも食べられるようになったのである

ともすれば、食物を粗末にしがちな昨今であるが、食生活をふりかえってみるのも意義のあることであろう

封建社会・経済状態で人を差別するのは当然だった

2021-03-24 11:30:17 | 日記
農家の暮らしは一般に質素であったが、小作の人びとは小作料として米を払った残りで生活するので、次の収穫までに米がなくなり、食うや食わずの暮らしであった。戦後の農地改革が行われるまで、その窮状はひどいものであった。かぼちゃ、さつまいもが主食となったり、三食ともおかゆで過ごしたりが多かった

子供同士で喧嘩すると「おまえは、かゆすすりじゃないか!」と言われたという。喧嘩をしても小作の子はむかってくることはなかったそう。親に叱られるし子供心にも遠慮をしていたのだ

封建社会は経済状態で人を差別することが当然のように行われていたのである

収穫前に食べる物がなくなると、夜になってから袋を下げて、「一升貸してくれ」と頼みに行くのであるが、「今米がない」と言われると帰るより仕方がなかった。運よく借りることができると、労力で返すか、または秋に倍にして返すことになっていたので、次の年にはまた足りなくなるのである

ひどいときには塩もないので、塩漬けにした漬物の汁をもらってきて塩の代用にしたという。