小金井薪能・舞踊「KURUI」(森山開次・津村礼次郎)

2012-08-27 22:36:57 | 日記
 昨夜、第34回小金井薪能の公演で舞踊「KURUI」を見た。能役者と現代舞踊家や役者のコラボレーションは、能の持つ強烈な様式によって、なかなか成功させるのは難しい。にもかかわらず繰り返し試みられるのは、そこに広がる可能性を見、舞踊家・役者の胸が躍るのであろう。しかしそのリスクが非常に大きいのも言うまでもない。そうした中で今回の「KURUI」は出色の出来映えである。

 能の「天鼓」から感想を得て出来た作品という。「天鼓」は中国の漢の時代、老夫婦が夢のお告げから少年を授かり、天鼓と名付ける。その天鼓の打つ鼓の音色のあまりの美しさに、時の皇帝は鼓が欲しくなり天鼓を殺してしまう。しかしその鼓はもはや誰が打っても音を発することはなかった。そこで皇帝は使者を使わし老父を呼び出し鼓を打たせると、鼓が美しい音を発したため、皇帝は天鼓を弔わせる。すると天鼓は霊となって現れ、鼓を打ち舞い戯れ、夜明けとともに消えていくのである。

「KURUI」では、天鼓の響きに魅せられた皇帝と天鼓の父の二人の情念とも言うべき存在(津村礼次郎、ここでは使者と呼んでおこう)が少年「天鼓」(森山開次、能では天鼓の亡霊)に鼓を打てと迫る。

「打ちて響かせたまえ」
という度重なる命令に、天鼓は激しく鼓を打ち、舞う。

 次第に使者は天鼓の鼓と舞いに魅入られ、恍惚となり、
「狂いそうらえ」
と雄叫び、天鼓は狂い舞う。

「天を貫き響かせたまえ」
と言う声の主は、もはや巫覡か幻術師であり、自らも「狂い」の世界に陥った。
 稲妻が光り、雷鳴が轟き、天鼓の本性は雷神であったのか。

 舞台中央の作り物は、天界と地界、彼岸と此岸を隔てる結界。天鼓はその結界を自在にくぐり抜け、天と地に鼓を響かせ、踊り狂う。

「うつつか夢か幻か」
 しかし、時に永遠はない。いつしか天鼓は消えてゆく。そこに残るのは夏の夜の現世の空間であった。

 能と舞踊・現代劇とのコラボレーションの見事な成功例だ。能の様式性がうまく嵌(はま)り、幻術を見せられているような、久々に異界を共有させてもらったエキサイティングな舞台だった。

 森山開次の研ぎ澄まされた肉体と動き、そして表現力は今さら言うまでもない。
 この10月の新国立劇場での森山開次の公演(「曼荼羅の宇宙」)がますます楽しみになってきた。
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