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陸奥宗光「新訂蹇蹇録(日清戦争秘録)」を読む(その4・完)

2024年01月16日 | 読書

(承前)

「第十四章講和談判開始前における清国及び欧州諸強国の挙動」から「第二十一章露、独、仏三国の干渉(下)」まで

  • 講和条約開始前の段階で、政府内部のみならず国民の間にも講和条件についていろんな意見が出た、特に領土割譲や賠償金について。
  • これに対して、講和条件はあまりに苛大になるのは得策ではないと主張し一書をしたためて伊藤総理に渡したのは谷子爵であった。しかし、世間の強気の論調に抗してその内容を公にすることはできなかった。
  • この時期、我が国一般の人心は、戦争に厭きてなく、講和はまだ早いと叫んでおり、たとえ講和するにしても清国に対し今一層の屈辱を与えることを以て自ら快とする状況であった。欧州各強国が何らかの陰謀、野心を持っていることに考えが及ぶ人はいなかった。
  • 講和の予備交渉である広島会議において清国から全権大臣2名が来日したが、全権委任状は国際的な要件を満たしていないため、会議は成立したかった。この時、日本全権の伊藤総理は「従来清国は殆ど全然けい離し、時にあるいは列国の社団に伍伴するために生じる所の利益を享受したこともあるが、その交際に随伴する責守は往々自ら顧みざることあり。清国は常に孤立と猜疑とを以てその政策となす。故に外交上の関係において善隣の道に必要とするところの公明真実を欠くなり」と述べた。
  • この頃、欧州各国では、講和条件は苛大に失せず、平和回復の速成を望むとなった、新聞社説でも欧州各国は日本が清国大陸の寸土たりとも割取することを許諾せざるべしとなってきた。
  • 下関談判において日本側の講和条件を見た李鴻章は、この提案に自己の意見を述べるのを避け、以てその責めを逃れていた。そして、反論として勉めて事実問題に入るのを避け、専ら東方大局の危機を概言し、日清両国の形勢に論及し、日本の国運を賞賛すると同時に清国内政の困難を説き、人を激し人を悦ばすと共に人の憐れみを乞わんとするが如し、と述べている。
  • そして、相手をして本題に立ちいるを得ず帰路に彷徨せしむるは特に清国外交の慣手段なり、故に我は我が提案の全体もしくは各条につき事実問題を論決すべしと主張した。
  • 講和条約は全権同士で4月17日に調印。その後天皇や中国皇帝の批准を得て明治28年(1895年)5月8日に手続が完了する予定だった。

  • 4月23日に、露・仏・独の在京公使が外務次官に面会し、講和条約中、遼東半島割地の一条について異議を提示した。
  • 露国は昨年以来その軍艦を続々東洋に集合し、今や強大なる海軍力を日本、支那の沿岸に有し居るのみならず、昨今の形勢を見て世間種々様々の流言飛語放つもの少なからず。
  • 就中露国は既にこの方面の諸港に停泊する同国艦隊に対して、24時間にいつでも出帆し得るべき準備をなし置くべき旨内命を下せりとの一事はすこぶるその実あるが如し。
  • 閣議で検討したのは伊藤総理の3つの案、全面拒否、列強会議を作り議論、受諾。いろいろ議論して勧告の全部または一部を承諾せざるを得ないことになった。ただ、批准交換の日、5月8日まで十余日あるので、一方においてなお対応策がないか必死に検討し、露・英・伊・米各国公使が苦心惨して各国の助力が得られるか探ったが、伊国が同情を示した以外は効果がなかった。しかし、この外交努力は決して無駄ではなかった。干渉してきた三国がいかなる理由で干渉してきたのか、その干渉の程度は如何に強勢なのか、第三者たる諸国がこの事件にどういう関心を持っているかがわかったからだ。また、実力上の強援を得られなくても、徳義上の声援を博し、三国を牽制し得た。
  • この結果、三国に全部または一部を容れ妥協を図るしかなくなった。露国の底意は日本が遼東半島を獲得すれば、将来、半島のみならず満洲北部を併呑し露国の領土を危うくするというものだが、露国は猜疑心強く、その憶測すこぶる過大である。
  • 三国干渉は当初露が大陸において日本が領土割譲を受けることが自国に対する脅威になる、また、嫉妬の情から(校注341-2より)から反対し、当時露仏同盟があったので仏が加わり、最後に独が加わった、これが意外に思われた。陸奥は、独は戦争中、日本に懇篤の表彰をしていたので、三国干渉への突然の参加を「独の豹変」と言っている。独仏間に確執があるところ、独は露仏同盟の親密なるのを嫌っている所に日清戦争終結の難問が出て、英が退き、露が窮するのを見て独これを好機会と見て俄にこれに投じた、としている。すなわち、独の豹変の底意は全くよって以て欧州大陸の政略上、仏露の同盟を遮断し、遂に仏国をして孤立の位置に立たしめんと欲するためである。
  • 日本に対する干渉を躊躇していた露は独仏の援助を得て、前日までの姿勢を一変させ、4月23日に至り、傍若無人に猛然恣意運動を始めた。このように三国干渉の由来は、その根本は露国であることは勿論だけど、露国をしてかくまでに急激にその猛勢を逞しくするに至らしめたのは、実に独の豹変に基因していたからだ。
  • 日清戦争後、なお列強割拠の形勢は利害互いに相出入りし、その戦争の終結の決心は単に砲火、剣戟のみによらず、外交の駆け引き敏活ならざれば、交戦者往々意外の危険に瀕することになる、要するに兵力の後援なき外交はいかなる正確に根拠しても、その終局に至り失敗を免れない。
  • 三国干渉の話が起こると、清国からの領土の割譲は多いほど良いと言う戦勝の熱狂が社会に充満していたが、三国から砲撃を受けまた戦争になるかもしれないという恐怖と屈辱感に満ちた。講和条約締結期日まで2週間しかない切迫した状況で政府は内外の形勢調和に苦心し、講和条約は予定通り締結して、同時に三国の干渉を受け容れると言う危機一髪のギリギリの決断をした。あとで振り返ってもこれ以上のことは誰もできないであろう。

この章では日清戦争の講和条約締結とその後の三国干渉に我が国がどう対応したのかが詳しく述べられている。陸奥はあらゆる手段を使って情勢判断をし、対応方針を考え、伊藤総理や閣僚と協議しながらギリギリの交渉を進め、結果として我が国を誤りなく導いた。その功績は大きいだろうと感じた。陸奥ら我々の先人たちが如何に苦労して困難な時代を乗り切ってきたのかよくわかる。

黒船の軍事的圧力により開国し、苦労して近代化を進めていた我が国であったが、まだ国際社会ではよちよち歩きの半人前であった。その我が国が日清戦争においては朝鮮、清国のみならず露国、英国などの他国の情勢把握、外交交渉などにおいて素晴らしい対応力を見せ、かつ、他国から非難されることがないよう細心の注意を払いながら行動できたのは驚異的と言うべきあろう。当時のリーダー達がいかに偉大であった改めて認識した。

一方、我が国国民は、清国を頑迷愚昧の一大保守国と侮り(清国も日本に対し、妄りに欧州文明の皮相を模倣する一小島夷と嘲り、両者の感情氷炭相容れず)、予想外の連戦連勝の報に増長し驕慢に流れ欲望が増大したなどあまり褒められたものではない一面を有していた。これらの点は仕方ない面もあるが後世の我々が教訓とすべきであろう。

陸奥であるが、以前より肺結核を患っており、明治28年に三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた病床においてであった。そして、明治30年(1897年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の陸奥邸で死去した。享年54才。

(完)



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