先日の紀尾井ホール以来、黙阿弥づいているが、より黙阿弥を理解するためにこの本を読んだ。新聞の書評に載っていたのを偶然見つけた。黙阿弥はご存知、歌舞伎台本作者であるが、作者をテーマにした小説は今までなかったと思う。第11代團十郎をモデルにした小説に宮尾登美子の「きのね」がある、文庫本で上下2巻の小説だが、歌舞伎入門などの本よりよほど歌舞伎のことがわかる。
今回のこの本も350ページ近くの力作で歌舞伎台本作者の目を通じてみた梨園の事情が良く理解できて面白かった、もちろん、フィクションはあるだろうが歌舞伎ファンにとっては貴重な小説である。
読後の感想や印象に残ったところを書いてみよう
- 市川團十郎は、新之助⇒海老蔵⇒團十郎と名前を変えていくものと思っていたが、この物語の時代は團十郎⇒海老蔵となっている、例えば七代目團十郎を経て、五代目海老蔵に、という具合
- 歌舞伎役者はせりふを覚えるのが大変で、初日から最初の頃は、役者の後ろに黒衣に身を包んだ狂言方が道具の陰に潜み間合、いをうまく計ってせりふをささやいて教える、こんなこと今でもやっているのだろうか、もちろん客から気づかれないようにしているのであろうが
- 黙阿弥がまだ働き始めたばかりのこと、部屋首席の中村十助から「座元や役者との付き合い方には気をつけろ、ちょと隔てがあるくらいがちょうど良いんだ」と助言を受けた、これは「座元は儲けることしか考えていない、役者は自分の出番のことしか考えていない、で、両方とも何かあった場合の責任は全部、おれたち作者に負わそうとするんだ、客入りが良いときは役者の手柄、座元の儲け、悪けりゃ全部、台本が悪い、散々そっちの都合で書き直しをさせたことなど忘れている」、「世界の決め方、役の割り振り、せりふに曲付け、振り付け、どこでもよい、少しでも作者の意地の張りどころをの残しておかないと、ぼろ雑巾にされる」
- 黙阿弥は若手のころ、当時の海老蔵から「おまえさんの望みは何だ」と聞かれ、「役者の名だけではなく、作者の名でも客が来る、そんな書き手になること」と答えたとある
- 黒船来航後、奉行所からお達しがあり「近年、世話狂言人情に穿ちすぎ、万事濃くなく、色気なども薄くするように」と、黙阿弥は、人情を穿たないでどうやって芝居を仕組むんだと言って怒る、役人は芝居のことなど全然わかっていないと彦三郎と感嘆する、また、「狂言仕組み、並びに役者ども、猥りに素人へ立ち交じらわぬよう、今後、陣笠なしに外を歩いたら捕まえる」、こんな時代だったんだ
- 維新後、幕府からでていたお触れは、一度ご破算になった、しかし、新政府は「親子一緒に見て身の教えになるような筋にせよ、勧善懲悪を旨となすべきはもちろん、爾後全く狂言綺語を廃すべし、すべて事実に反すべからず」となり黙阿弥はこれを聞いて耳を疑った、それで芝居が成り立つのか、新政府は徳川幕府よりずっと厄介なものかもしれないと感じた
- 座元はトラブルをおそれ、事前に官吏や学者にいちいち教えを乞い、お伺いを立てねばならぬようになった、しかし、そのような経過を経てできた芝居は面白くなく、客が入らない、黙阿弥は「俗書の作者、根も無きことを偽作して、学問もなく理義に暗きにより、児戯にひとしき芝居なり」などと新聞で批判された、為政者を悪役として書くと子孫に当たるものから名誉毀損として訴えると言われた、依田学海、西洋帰りの福地桜痴などが史実にこだわって添削した、演劇改良運動という黙阿弥に対する罵倒だった
- 黙阿弥は「わかる人にはわかる」というような作品にして抵抗したと言うか己を納得させた、黙して語らず、わかる人にはわかる、それが隠居名の黙阿弥にも込められている、黙阿弥を支援したのは坪内逍遙、読売新聞の饗場篁村だった、桜痴はその後、歌舞伎座を作ったが人気が出ず、最後には黙阿弥に頭を下げ、作品を書いてくれと頼みに来る
- 芝居の台本で日本で一番最初に著作権が登録されたのは黙阿弥だ、ただ、黙阿弥自身は乗り気ではなかった、それは芝居の世界では能や狂言、落語などたの筋を借用して歌舞伎に合うように手直ししたものがよく作られていたから、その時には著作権などの概念はなかった、例えば歌舞伎の「勧進帳」は能の「安宅」から作ったものだ
- 女方はいかに芸が良かろうと人気があろうと、座頭にはなれない、筋立てでも女方が芯になる狂言は限られる
- 役者を当てはめながら書く、作者のもっとも大事な決まり事
良い本であった。
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