松井今朝子「一場の夢と消え」(文芸春秋)をKindleで読んだ、著者の小説を読むのは初めて、著者は1953年生れ、小説家、脚本家、演出家、評論家
京都祇園に生まれ、早稲田大学大学院文学研究科(演劇学)修士課程修了後、松竹に入社、歌舞伎の企画・制作に携わり、退職後フリーとなり武智鉄二に師事して、歌舞伎の脚色・演出・評論などを手がけるようになる。1997年、『東洲しゃらくさし』で小説家としてデビュー、2007年 「吉原手引草」で第137回直木賞受賞
この小説は、「曾根崎心中」、「冥途の飛脚」や「国性爺合戦」など数多の名作を生んだ近松門左衛門の創作に生涯を賭した人生を描いたもの
歌舞伎や浄瑠璃などについては入門書を読んでも面白くなく、歌舞伎役者などを主人公にした小説を読む方が好きだ、例えば、以前もこのブログで紹介した宮尾登美子の十一代目市川團十郎とその妻の人生を書いた「きのね」や、河竹黙阿弥の人生を書いた奥山景布子の「元の黙阿弥」(ブログはこちら)、歌舞伎の裏方の世界を描いた永井紗耶子の「木挽町のあだ討ち」(ブログはこちら)などだ
歌舞伎を鑑賞するとき、近松門左衛門の名前を何回も見てきたが勉強する機会はなかった、最近、この本が刊行されたのを知り読んでみたくなった、やはり日本人であれば、歌舞伎ファンであれば近松のことを知っておかなければいけないでしょう
越前の武家に生まれた杉森信盛(のちの近松門左衛門)は浪人をして、京に上っていた。京の都で魅力的な役者や女たちと出会い、いつしか芸の道を歩み出すことに。
竹本義太夫や坂田藤十郎との出会いのなかで浄瑠璃・歌舞伎に作品を提供するようになり大当たりを出すと、「近松門左衛門」の名が次第に轟きはじめる。
その頃、大坂で世間を賑わせた心中事件、事件に触発されて筆を走らせ、「曽根崎心中」という題で幕の開いた舞台は、異例の大入りを見せるのだが・・・
この本を読むと近松の浄瑠璃や歌舞伎に関する考えなどが示されているところが多く参考になった、そのいつくかを書いてみると
- 当時、かぶき狂言は役者が書くものだった、能狂言の物まねで始まったのが歌舞伎狂言であり、見物客を笑わせるのが主眼だった、歌舞伎は浄瑠璃と異なり役者が多く、それぞれの役者は自分が目立つように自分のセリフを作者に無断で変える、それをすると筋がおかしくなってもかまわない、作者はそれぞれの役者が自分の見せ場があるようにセリフを考えなければならない
- 浄瑠璃作者が歌舞伎狂言を簡単に書けるわけではない、両者は別物だ、浄瑠璃は話を組みたてて詞章を考えればよいが、歌舞伎は役者それぞれの得意な芸にセリフをどう当てはめるか考えなければならない
- かぶき狂言に剽窃はつきもので、自分も能の謡やその他もろもろの和漢書から引用して作品を作った、むしろ自分の作品を他人が剽窃するのは一種の誇りと言ってもよい、この話は奥山景布子の「元の黙阿弥」でも出てきた話だ、当時は著作権などない時代、それを最初に確立したのは黙阿弥だったと書いてあった
- 浄瑠璃は七五調にすればよいというものではない、それでは耳にセリフが引っ掛からず、さらさらと聞き流される
- 役者は誰にでもできる芸をやっていただけでは売れないし、作者も誰もが思いつく筋ばかり書いていては長く務まらない、興行師も道具方その他誰にでも無理をさせて、その人のためならだれもが無理をする人物だからこそ務まる稼業だ
- 役者は贅沢ができたとしても京の極寒の冬の冷たい板敷の床を裸足で踏むことを考えると他人がうらやむような稼業では決してない
- 声量に恵まれた太夫や美声に恵まれた太夫は、自分の声を聴かせたい気持ちが強く、「歌う」ことに傾きがちで、「語り」本来の役割を忘れてしまう恐れがある、歌と語りの相克があるが「語り」の本分に徹してきた
- 信盛が豊竹座から引き抜いた政太夫と対面したとき、政太夫が自分の声量が少ないのを卑下して自分の声がらが無いことを言うと、信盛は「自分を限るまいぞ、よいか、人は自分で自分を見限ってはならんのだ」と言う、「天性は天の定めるところ、人は確かにその定めを引き受けなければならない、しかしそこに安住し、自らを限って目の前に立ちふさがる壁からいつも逃げ出してしまえば、天から与えられたこの一生が、何やら物足りない気はせぬか」と諭す、その通りだと思った
- 同じ劇場で披露される芸でも、操り浄瑠璃と歌舞伎芝居は演じるほうも見るほうも相当の懸隔があって、太夫と役者は気質の違いも明瞭だ、総じて太夫は物語の世界を司る孤高の身だけに、悪くするれば尊大になりやすいが、独歩の姿勢を貫く分、自制に富んだものが多く、片や歌舞伎役者は舞台を共にする仲間との絆が何より大切だから、人当たりが良くても内実が伴わないきらいがあるし、ともすれば自制が書けていて享楽に身をゆだねる人が多かった
- 竹本義太夫は、浄瑠璃の歌を何度も繰り返して読んでいると、そこに絵が浮かんでくるので、その絵を写し取るような形で語るのだと極意を述べた、そして人形遣いもその同じ絵を見て舞台でしっかりした形にしなければならない、もちろん絵は作者の心にあるのだからそれを太夫と人形遣いに見えるようにすることが仕事である
- 虚と実をつなぐ薄い皮膜のようなものが芸である、その芸こそが虚を実に変え、実を虚に変えて人の心を慰めるのじゃ
- 紀州出身の吉宗公は宝永の大津波の被害にあった国を立て直した功績があるが、倹約が過ぎて庶民の生活まで細かい口出しをするようになり、舞台の演劇にも贅沢禁止の影響がでた、また、曾根崎心中などの心中ものが信盛の得意演目となったがこれにも幕府は心中するものが増えると難色を示したので、信盛は芝居ももう終わりだと思った
- また、セリフの中に江戸のご政道を皮肉るようなものがあるのは幕府批判として周りの者が非常に神経質になった、江戸には目安箱ができて信盛の浄瑠璃の文句を批判する投書があった、もともと目安箱は役人の不正などをあぶり出す目的だが違う目的に使用され自分が批判の対象になったことに不愉快になった
この小説を読んでいると近松の作品の多くのものは現実の世界で起こっている心中や事件などに接し、すぐさまそれを題材にして物語を創作をするということが多いのがわかる、程度の差こそあれ、小説や作曲というような創作は皆同じなのかなと思った
この小説の中には信盛を取り巻くいろんな人物が出てくるが、Kindleには巻末の解説が出ていないので、どこまでが史実でどこが著者が作った架空の人物やできごとかはわからないが、信盛の人間らしさを描いた部分は興味深く読んだ、例えば、
- 自分の二人の息子のうち次男坊が定職にもつかず、ブラブラし、金の問題も起こしたりして信盛を心配させる、信盛も仕事が忙しくきちんと子供と向き合ってこなかったことを悔いるが、最後は・・・
- 著者は小説中で信盛に「芝居小屋では役者同士のもめごとを捌くのに苦労し、家では嫁と姑のいさかいをとりなすのが大変でありたまったものではない」と言わせている、我々凡人と同じような人間臭い悩みを抱えていたのだと親近感がわいてくる
- 信盛は自分は武家の次男坊に生まれたが武家を継がず、世間から見ればろくでもない商売である芝居の世界に入り親の期待を裏切ったことを後ろめたく感じていた、当時の狂言作者や役者などは社会的地位がそれほど高くなかったのでしょう
- 武家の家を出て、近松寺にこもって読書三昧の生活をして知識つける、それがその後、公通という公家の目に留まり、公通の代役で浄瑠璃を作ることになり、公通の紹介で舞台の世界に入り、狂言作者として成功のきっかけをつかんだ、努力が実を結んだと言える
どこまでが実在の人物かという点でいえば、公家の公通、友人の英宅、大阪の芝居茶屋の女将の加奈、丹六大尽(にろくだいじん)という金主などが挙げられよう、これは小説を面白くする存在であり、架空であったとしても許されると思う。偉大な人物の来し方には、これらの人たちに類した支援者がきっと周囲にいたのでしょうし、その人たちを引きつけて自分の支援者になってもらうような魅力が主人公にあったのでしょう
楽しめた小説でした
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