NHKで4月のはじめに放送していた「歴史探検、日露戦争、知られざる開戦のメカニズム」という番組に興味を持ち、録画しておいたが、しばらく見る機会がなかった。中村隆英教授の「昭和史」を読み終わったところで、同じ近現代史の日露戦争に関するこの番組も見ようと思った。
副題には「120年前に起きた日露戦争、なぜ戦いに至ったのか? ロシアのイメージが友好国から仮想敵国への変わるなかで起きていた両国のすれ違いと開戦を望む世論の誕生を調査する」とある。
番組の中で説明のあった開戦に至る日露両国の関係を時系列で整理すると以下のようになる(カッコ内は私が名付けたもの)
(衝突期)
- 1806~7年、江戸時代の終わりにロシア艦隊が樺太や択捉を攻撃する事件が起こる
- 1811年、ゴローウニン事件、ロシア役人ゴローウニンを幕府の役人が拘束する事件
- 1861年、ロシア軍艦対馬占拠事件
(交流期)
- その後、函館を起点に漁業を中心にロシアとの交流が始まる
- 1884年(明治17年)には東京のニコライ堂が建造開始し、日本における日露の文化交流の拠点になった、東京外語大でもロシア語教育が開始される
- 1891年(明治24年)、日本訪問中のロシアの皇太子ニコライに滋賀県警の巡査が切りつける事件(大津事件)が起こったが、皇室外交などにより大事には至らず
- このころ日本でロシア文学ブーム、ロシアでは浮世絵ブーム
(環境激変期)
- 1894年、日清戦争、ロシアなどによる三国干渉、遼東半島の返還、国民に怒りの声、1895年(明治28年)5月12日、大阪朝日新聞に初めて臥薪嘗胆の用語が出る、5月15日には新聞「日本」の論説に臥薪嘗胆を使いロシアへの復讐をあおる社説、さらに読売新聞は一面に毎日必ず臥薪嘗胆の文字を掲げるようになる、ロシアに対する負の感情が日本中に広まった
- 1898年、遼東半島の旅順・大連をロシアが租借、1900年から1901年の北清事変でロシアは満州を軍事占領し、清への進出を本格化
(日英同盟締結期)
- 1902年、日英同盟締結、英国から軍事技術を教わりロシアとの対抗上、大きな自信に、それを利用してロシアとの協商ヘの道を開き戦争回避の可能性を探る、ロシア軍は満州からの撤退を約束した
(世論沸騰期)
- しかし、ロシア軍は約束を守らず、満州から撤兵しなかったため、開戦論が加速した、その大きな要因となったのは東京帝国大学の教授をはじめとした知識人たちが発表した「七博士の意見書」、彼らは1903年6月24日の東京日日新聞で、今こそロシアと戦う最後の好機だと主張し、国民の主戦論を押していった
- さらに、国民を煽り立てた流行語として「恐露病」という言葉が出てきた、1903年(明治36年)9月27日の読売新聞では「いま日露戦争に反対するものは恐露病にかかった臆病者だ」として当時ロシアとの和平を模索していた伊藤博文らが批判された
- これらによって戦争を回避すべきだとの声がかき消され、開戦一色になった
(開戦)
- 1904年2月4日の御前会議、明治天皇は戦争回避を主張したが、伊藤らはもうその余裕はないとし、8日開戦した
こうしてみてくると、日露開戦を煽ったのは新聞、学者であるという指摘は物事の一面をとらえていると思う。
新聞などが世論を煽るのは今でもある、慰安婦問題、集団的自衛権の憲法解釈変更、森友問題、統一教会・・・新聞などが来る日も来る日も取り上げ、批判のオンパレード。うさん臭いと思わないか、こういう時には要注意であるのは歴史が証明しているだろう、また、大学教授が出す意見書だからと言ってすぐに信用してはいけないだろう、この番組はそういうことを教えていると思った
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