山へなぜ登るのかという、おろかな問をだして以来、人の気持ちにはかすかな混乱がうまれた。山の魅力とはどういうことかという、これもまたばかげた疑問を発してから、山を愛する人の心には、ひとつのひびが入った。
愛するものに対しては、ただそれを愛し続ける以外に為すことはない。他の一切をわすれて、他の全てを邪魔なものとして排除しながら、ひたすら愛することが自然である。
この単純にして、しかも無知なものに向かって、お前はなぜ愛するのか、お前の愛するものの、何処に魅力があるのかと問いかけることは、そこからどんな返答が得られようと、愛するものの心に、石をなげつけることである。
中には憤然としてなお深く愛するように決意するものもあるだろう。しかし愚問の石は投げられた以上、それを意識し始める。なぜ山へ登るのか、それは自分の外にある問いではなく、自分の内部の問題と化する。
白馬で遭難者が出てしまった。
どこかの遊歩道ではぶなの枝がおちてきて大怪我をしたので1億なにがしの損害賠償が成立するとのこと。
わたしどもの山行きは、なんとも・・・・どこいらへんに位置してんでしょうかね?好きこのんで危ないところへもいってるんですが、不慮の危険にたいしては十分アンテナを持ってるとおもってますが、なんといっても加齢にともなう己自身の内なる問題が心配になってくる最近です。あんまり仕事ばかりしないで体をいたわって山行きを増やしたいんですが、さーてうちの山の神がゆるしてくれるんでしょうか・・・・。
山の色の変化を喜んだ私は、実際にはつくらなくとも詩を考えていた。
それから小鳥や花への博物学的な関心、ということになると今は少々芸術的に山を歩いているように受け取られそうであるが、決してそんな難しいことを考えているわけではない。
やっぱりのどをひりひりかわかし、水を見つけて腹ばいになって飲むのが最高のよろこびのようである。
「山のパンセ」より
友人の登山家がダウラギリに行くという。
8000に行きたいと言っていたのが来年実現するということだ。日頃から鍛えて鍛えてでこそだろう。
わたしは富士山で高度障害てきなんだから、8000はどんなんでしょうかね?やっぱり高度が一番の問題なんでしょうね。ジャイアントに向かってのこの1年は登山隊のみなさんには充実の日々でしょう。また楽しみが一つできました。遠くからみているわたしにも・・・・・。