この画像の絵は、14世紀頃にロシアのアンドレイ・ルブリョフによって描かれたものだ。彼はロシア正教会の修道士で、なおかつ大変優れたイコン画家であった。特にこの「 聖三位一体」は後世において、彼の代表作であると共に最高傑作だと賞賛されている。イコン画家はロシアを含めたキリスト教の正教世界では非常に重要な人材だ。なぜなら正教会では礼拝時に、キリストや聖母や天使のような聖なる人物の肖像が必要とされるからである。つまり正教徒が神への敬虔な信仰心を育み醸成させる働きをイコンは有しているわけだ。
イコンとは日本語では聖像と訳される言葉だが、まさしく聖なる像が描かれた絵だと認識して頂いて差し支えない。そして古今東西の芸術作品において、平面の絵画や立体の彫刻の区別なく、聖像のイメージを含む作品からは宗教的な崇高さが伝わってくる。鑑賞していると、自然と心が落ち着き、謙虚な気持ちにさせられるのだ。これは人智を超えた神や仏のような存在を信じることから湧き上がってくる自己肯定感であり、そこでは生かされている自分に感謝しつつも、優越感や支配欲などとは無縁の、他者を決して侵害することのない平安な感情が生まれている。
しかもこの聖像を純粋に図形として還元すると、具象も抽象も超えた別次元ともいえる普遍的な美の領域において、絵が脈々と生きているのがわかるはずだ。たとえばこの「聖三位一体」の3人の天使は頭部に輝く光輪だけではなく、座っている3者の構図から彼女たちの背後に、静謐さと調和を象徴するような大きな見えない円の存在さえ感知できる。そしてイコンという宗教美術は、見えないことこそが核心なのだ。つまりイコンは絵であり、絵は見えるものだが、その見えるものを通して、見えない世界へ導こうとしている。ここでいう見えない世界とは神のことだ。
その意味でイコンは、東西に渡るヨーロッパ美術において、西方の古代ギリシャ・ローマ彫刻や、ポンペイの壁画や、旧教である中世カトリックのキリスト教絵画とはかなり違う。そしてその違いの最大の特徴は、人体の比率に正確性を欠くことだ。この「聖三位一体」の天使の人体をご覧になればそれは一目瞭然であろう。明らかにリアリズムの表現を駆使して人間の姿に似せてはいない。古代ギリシャ・ローマ彫刻の神々の姿が、人体の比率の正確さを最大限に重視して創造しているのとは対照的である。
しかしだからこそ神を信仰する者は、リアルな絵とは異なるイコンを通して神に近づいていく。これはイコンが天国の窓とも称される理由でもある。つまりイコンは絵として完結しているわけではない。むしろ鑑賞している人々が、現実の人間社会から、イコンという窓の向こうに、天国のような理想郷を見出し、見えない神の存在を感じることこそが重要なのだ。そして恐らく神は、疫病や飢餓や戦争が絶えない人類の現状を憂い嘆いておられる。それはイコンに描かれた人々の控えめな表情に、現世の寂しさや悲しみが秘められていることからも明らかだ。つまり私たちが生きている世界は、まだまだ改善すべき点が山ほどあり、神は人類が愚行を止めて改心することを固く信じ、待っておられるのかもしれない。
それでも悲しいかな、今もなお依然としてウクライナでは戦争状態が続いている。ところがウクライナにしろロシアにしろ宗教的には、キリスト教の正教の信者が大多数を占める国だ。多分、悲惨な戦火の中、イコンを通して平和を願い神に祈りを捧げている人も多いはずである。しかし今回のロシアのウクライナ侵攻で遺憾なのは、キリスト教の正教が侵略を正当化するような形で政治利用されている点だ。そして同じ正教徒同士でありながら、こうなってしまったのは、古代ローマ帝国が4世紀初め頃にキリスト教を国家宗教として公認したこともその一因なのではないか。キリスト教は正式に古代ローマ帝国の国家宗教になる以前は、酷い弾圧を受けた苦難の歴史があったわけだが、神の前に人間は平等であるという普遍的な教えを信じる人々が増え続けた結果、それは身分差さえ超えて貴族のような支配層にも及び、巨大帝国の人心を大いに揺るがしていく。
古代ローマ帝国には5本山と呼ばれるキリスト教の5つの拠点が存在した。イタリア半島のローマ、ヨーロッパとアジアの境界に位置するトルコ北西部のコンスタンチノープル、シリアのアンティオキア、エジプトのアレキサンドリア、そして聖地エルサレムの5つである。このうち最重要拠点は首都のローマ教会であったが、ヨーロッパから中東、そして北アフリカまでをも地中海を包むように呑み込んで帝国領が広大になり過ぎたことから、ついには東西に分割統治する形になり、首都が現代のトルコのイスタンブールのコンスタンチノープルへ移転してしまう。そして第2のローマと称された新しい首都のコンスタンチノープル教会が正教会のルーツになる。西洋史に詳しい方はご存知だろうが、西ローマ帝国がゲルマン民族の大移動で4世紀末に滅亡して以降、滅びなかった東ローマ帝国において国家権力を補強する厳格な宗教的権威として正教会は変質していく。尤もそのように父権的な厳しい体制ではあっても、権力のように腐敗しない民衆レベルの敬虔な神への信仰心はずっと保持されていたようだ。
東ローマ帝国はビザンティン帝国とも呼ばれていたが、7世紀以降は領土を徐々に縮小していく。その過程で中東も含めて、東ヨーロッパからロシアへとスラブ民族の社会においても、キリスト教の正教は浸透していくのだが、興味深いのは古代ローマ帝国のように国家宗教として正教会を国ごとに設置したことである。この為、ギリシャ正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会など国名が冠せられるケースが多い。しかしこの世界各国の正教会の筆頭格は、現在のトルコ共和国のコンスタンチノープル総主教庁である。これに関して、イスラム教徒の国といっても差支えないトルコにキリスト教の正教の総本山が存在することを不思議に感じる人も多いかもしれないが、本来イスラム教は他宗教に対して寛容なのだ。
ここでロシアとウクライナの問題に戻りたい。実は15世紀に東ローマ帝国たるビザンティン帝国が滅亡したのを機に、当時の帝政ロシアの前身モスクワ公国はコンスタンチノープル総主教庁からの独立を宣言し、近隣の正教諸国への圧力を強めていく。そしてモスクワを第3のローマと自負し始めるのだ。要はかつての東ローマ帝国のように正教世界の盟主を目指さんと領土的野心に火がついたと思われる。この威圧的な流れでウクライナ正教会はモスクワの新しい総主教庁の管轄に実質的に入ってしまうのだが、コンスタンチノープル総主教庁がそれを認めてしまうのは強大なロシア帝国が成立する17世紀になってからである。
また旧教のカトリック世界におけるローマ教皇庁のような絶大な権威や権力を、コンスタンチノープル総主教庁は有していない。正教会の筆頭格ではあっても、それぞれの国同士は神の前に平等だというのが正教の理念だからだ。これは正教が旧教の十字軍遠征のような大規模な対外侵略をしなかったことや、西ヨーロッパ全土で16世紀から100年近く続けられた旧教と新教の宗教戦争に巻き込まれなかったことと矛盾しない。恐らく正教会は国家の国教ではあっても、旧教のカトリックや新教のプロテスタントよりも、国家権力の暴走を止めるブレーキのような役割を果たせるのかもしれない。そしてそれはやはり民衆の地道で純粋な信仰心があればこそであろう。なぜならイエス・キリストは汝の敵を愛せよと言い切っているのだから。これは即ち戦争の全否定である。
ウクライナは2018年にウクライナ正教会のロシア正教会モスクワ総主教庁からの独立を、コンスタンチノープル総主教庁から承認されている。クレムリンの権力の座にある人々からすると面白くない事態なのは間違いないが、本来の正教の理念を踏まえれば、国と国も神の前には平等であるはすだ。つまり国家間戦争など愚の骨頂でしかない。一刻も早くこの戦争を終結させるべきである。イコンに描かれた人々の表情には透徹した静謐さが漂うが、一筋の涙が頬を伝う寸前の趣きさえ感じられる。特にこの戦時下、それは母親の涙のような印象さえ受ける。このまま戦争が終わらなければ、途絶えることのない戦火の中、さらに多くの生命が失われて、破壊の痕跡と化した廃墟に、イコンの残骸を見つける日が来るのかもしれない。
「聖三位一体」の作者アンドレイ・ルブリョフは非常に信仰心の篤い人物であった。彼の生涯を描いた映画「アンドレイ・ルブリョフ」に関しては、このブログでも「惑星ソラリス」について書いた際に少し触れた。特にこの伝記映画では、ルブリョフが制作したイコン画の最高峰である「聖三位一体」を重厚にゆっくりと時間をかけて堪能できる。それこそ間近で絵を鑑賞するようにして。そしてこれは制作した監督アンドレイ・タルコフスキーのイコンへの不滅の愛さえ感じる映画である。
イコンとは日本語では聖像と訳される言葉だが、まさしく聖なる像が描かれた絵だと認識して頂いて差し支えない。そして古今東西の芸術作品において、平面の絵画や立体の彫刻の区別なく、聖像のイメージを含む作品からは宗教的な崇高さが伝わってくる。鑑賞していると、自然と心が落ち着き、謙虚な気持ちにさせられるのだ。これは人智を超えた神や仏のような存在を信じることから湧き上がってくる自己肯定感であり、そこでは生かされている自分に感謝しつつも、優越感や支配欲などとは無縁の、他者を決して侵害することのない平安な感情が生まれている。
しかもこの聖像を純粋に図形として還元すると、具象も抽象も超えた別次元ともいえる普遍的な美の領域において、絵が脈々と生きているのがわかるはずだ。たとえばこの「聖三位一体」の3人の天使は頭部に輝く光輪だけではなく、座っている3者の構図から彼女たちの背後に、静謐さと調和を象徴するような大きな見えない円の存在さえ感知できる。そしてイコンという宗教美術は、見えないことこそが核心なのだ。つまりイコンは絵であり、絵は見えるものだが、その見えるものを通して、見えない世界へ導こうとしている。ここでいう見えない世界とは神のことだ。
その意味でイコンは、東西に渡るヨーロッパ美術において、西方の古代ギリシャ・ローマ彫刻や、ポンペイの壁画や、旧教である中世カトリックのキリスト教絵画とはかなり違う。そしてその違いの最大の特徴は、人体の比率に正確性を欠くことだ。この「聖三位一体」の天使の人体をご覧になればそれは一目瞭然であろう。明らかにリアリズムの表現を駆使して人間の姿に似せてはいない。古代ギリシャ・ローマ彫刻の神々の姿が、人体の比率の正確さを最大限に重視して創造しているのとは対照的である。
しかしだからこそ神を信仰する者は、リアルな絵とは異なるイコンを通して神に近づいていく。これはイコンが天国の窓とも称される理由でもある。つまりイコンは絵として完結しているわけではない。むしろ鑑賞している人々が、現実の人間社会から、イコンという窓の向こうに、天国のような理想郷を見出し、見えない神の存在を感じることこそが重要なのだ。そして恐らく神は、疫病や飢餓や戦争が絶えない人類の現状を憂い嘆いておられる。それはイコンに描かれた人々の控えめな表情に、現世の寂しさや悲しみが秘められていることからも明らかだ。つまり私たちが生きている世界は、まだまだ改善すべき点が山ほどあり、神は人類が愚行を止めて改心することを固く信じ、待っておられるのかもしれない。
それでも悲しいかな、今もなお依然としてウクライナでは戦争状態が続いている。ところがウクライナにしろロシアにしろ宗教的には、キリスト教の正教の信者が大多数を占める国だ。多分、悲惨な戦火の中、イコンを通して平和を願い神に祈りを捧げている人も多いはずである。しかし今回のロシアのウクライナ侵攻で遺憾なのは、キリスト教の正教が侵略を正当化するような形で政治利用されている点だ。そして同じ正教徒同士でありながら、こうなってしまったのは、古代ローマ帝国が4世紀初め頃にキリスト教を国家宗教として公認したこともその一因なのではないか。キリスト教は正式に古代ローマ帝国の国家宗教になる以前は、酷い弾圧を受けた苦難の歴史があったわけだが、神の前に人間は平等であるという普遍的な教えを信じる人々が増え続けた結果、それは身分差さえ超えて貴族のような支配層にも及び、巨大帝国の人心を大いに揺るがしていく。
古代ローマ帝国には5本山と呼ばれるキリスト教の5つの拠点が存在した。イタリア半島のローマ、ヨーロッパとアジアの境界に位置するトルコ北西部のコンスタンチノープル、シリアのアンティオキア、エジプトのアレキサンドリア、そして聖地エルサレムの5つである。このうち最重要拠点は首都のローマ教会であったが、ヨーロッパから中東、そして北アフリカまでをも地中海を包むように呑み込んで帝国領が広大になり過ぎたことから、ついには東西に分割統治する形になり、首都が現代のトルコのイスタンブールのコンスタンチノープルへ移転してしまう。そして第2のローマと称された新しい首都のコンスタンチノープル教会が正教会のルーツになる。西洋史に詳しい方はご存知だろうが、西ローマ帝国がゲルマン民族の大移動で4世紀末に滅亡して以降、滅びなかった東ローマ帝国において国家権力を補強する厳格な宗教的権威として正教会は変質していく。尤もそのように父権的な厳しい体制ではあっても、権力のように腐敗しない民衆レベルの敬虔な神への信仰心はずっと保持されていたようだ。
東ローマ帝国はビザンティン帝国とも呼ばれていたが、7世紀以降は領土を徐々に縮小していく。その過程で中東も含めて、東ヨーロッパからロシアへとスラブ民族の社会においても、キリスト教の正教は浸透していくのだが、興味深いのは古代ローマ帝国のように国家宗教として正教会を国ごとに設置したことである。この為、ギリシャ正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会など国名が冠せられるケースが多い。しかしこの世界各国の正教会の筆頭格は、現在のトルコ共和国のコンスタンチノープル総主教庁である。これに関して、イスラム教徒の国といっても差支えないトルコにキリスト教の正教の総本山が存在することを不思議に感じる人も多いかもしれないが、本来イスラム教は他宗教に対して寛容なのだ。
ここでロシアとウクライナの問題に戻りたい。実は15世紀に東ローマ帝国たるビザンティン帝国が滅亡したのを機に、当時の帝政ロシアの前身モスクワ公国はコンスタンチノープル総主教庁からの独立を宣言し、近隣の正教諸国への圧力を強めていく。そしてモスクワを第3のローマと自負し始めるのだ。要はかつての東ローマ帝国のように正教世界の盟主を目指さんと領土的野心に火がついたと思われる。この威圧的な流れでウクライナ正教会はモスクワの新しい総主教庁の管轄に実質的に入ってしまうのだが、コンスタンチノープル総主教庁がそれを認めてしまうのは強大なロシア帝国が成立する17世紀になってからである。
また旧教のカトリック世界におけるローマ教皇庁のような絶大な権威や権力を、コンスタンチノープル総主教庁は有していない。正教会の筆頭格ではあっても、それぞれの国同士は神の前に平等だというのが正教の理念だからだ。これは正教が旧教の十字軍遠征のような大規模な対外侵略をしなかったことや、西ヨーロッパ全土で16世紀から100年近く続けられた旧教と新教の宗教戦争に巻き込まれなかったことと矛盾しない。恐らく正教会は国家の国教ではあっても、旧教のカトリックや新教のプロテスタントよりも、国家権力の暴走を止めるブレーキのような役割を果たせるのかもしれない。そしてそれはやはり民衆の地道で純粋な信仰心があればこそであろう。なぜならイエス・キリストは汝の敵を愛せよと言い切っているのだから。これは即ち戦争の全否定である。
ウクライナは2018年にウクライナ正教会のロシア正教会モスクワ総主教庁からの独立を、コンスタンチノープル総主教庁から承認されている。クレムリンの権力の座にある人々からすると面白くない事態なのは間違いないが、本来の正教の理念を踏まえれば、国と国も神の前には平等であるはすだ。つまり国家間戦争など愚の骨頂でしかない。一刻も早くこの戦争を終結させるべきである。イコンに描かれた人々の表情には透徹した静謐さが漂うが、一筋の涙が頬を伝う寸前の趣きさえ感じられる。特にこの戦時下、それは母親の涙のような印象さえ受ける。このまま戦争が終わらなければ、途絶えることのない戦火の中、さらに多くの生命が失われて、破壊の痕跡と化した廃墟に、イコンの残骸を見つける日が来るのかもしれない。
「聖三位一体」の作者アンドレイ・ルブリョフは非常に信仰心の篤い人物であった。彼の生涯を描いた映画「アンドレイ・ルブリョフ」に関しては、このブログでも「惑星ソラリス」について書いた際に少し触れた。特にこの伝記映画では、ルブリョフが制作したイコン画の最高峰である「聖三位一体」を重厚にゆっくりと時間をかけて堪能できる。それこそ間近で絵を鑑賞するようにして。そしてこれは制作した監督アンドレイ・タルコフスキーのイコンへの不滅の愛さえ感じる映画である。
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